天険の親不知の海岸で、ミラクル美石を発見(135-2)

【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2023年8月22日】前号で、思い立って糸魚川(新潟県)へヒスイハント(糸魚川ヒスイ再発見の伝説については末尾の注釈1参照)に出かけたまではよかったが、36度の熱波に閉口させられたところまでお伝えした。(https://ginzanews.net/?page_id=64059)

小石がびっしり敷き詰められた親不知の美しい浜には、海水浴客がひと組のみ。猛暑に祟られ、ヒスイ採りにも身が入らず、おざなりにひと、ふた掴みしたが、汗がダラダラ流れた。

とはいえ、せっかくここまで来たのだから、天下の険・親不知(おやしらず)の海岸も間近に見ておきたい。気を取り直して、えちご押上ヒスイ海岸駅に戻り、車体に赤い椿が描かれた小ぎれいなワンマン電車(えちごトキめき鉄道の市振=糸魚川市から直江津=上越市までの日本海ひすいライン、写真は前号)に乗り込んだ。

車内は冷房がよく効いて人心地つけた。次の糸魚川駅で30分待ちとのこと、観光案内所でもらったパンフを調べると、この先4つ目の市振(いちぶり)駅で降りると、見所がいくつかあることがわかった。年配の運転士(以下Aさん)に待ち時間を利用して、運賃を尋ねがてら、4つ目の市振とそのひとつ手前の親不知と、どちらで降りた方が観光するにはいいか、訊いてみた。

親切なAさんは、市振は何もないので、親不知で下車して(運賃は340円)、道の駅・親不知ピアパーク(国道8号線)でヒスイが取れるかもしれない海岸を探索して、涼みがてらレストハウス(売店・食堂・休憩所を兼ねたレストピア)で冷たいものを飲んではどうかと勧めてくれた。

青海(おうみ)川ヒスイ峡産の1.2トンもある貴重な原石(国の天然記念物)が展示された翡翠ふるさと館もあるという。暑いから大変だけど、1キロかそこら歩いて15分くらいで行けるはずだからと、特別に薦めて下さったのだ。

親知らずの海は青く透き通って美しい。しかし、炎天下の石漁りには体力を消耗させられた。

ヒスイ採掘で一般的に知られる海岸はその名もズバリ、ヒスイ海岸だが(ネットによると、数年前100万円以上の価値のある原石が見つかったとのこと)、地元に精通したAさんによると、ヒスイ海岸よりも、次の青海(おうみ)駅から親不知駅を経由しての市振駅までの15キロにわたる沿岸沿いの方が見つかる可能性が高いと、地元ならではのとっておきの情報も教えてもらった。

名高い景勝地・親不知も、北陸自動車道(1988年開通)がなかった以前は、遮るものものもなく、一望のもとに美しい日本海が見渡せたそうだが、今は断崖絶壁(日本海に飛騨山脈の北端が浸食されてできたもの)を削って北陸街道(1883年、現国道8号線)、以後北陸本線(1912年、2015年から「えちごとトキめき鉄道」の日本海ひすいライン)、国道8号線並びに高速道路(親不知IC)も開通したことで(1988年)、景観は著しく損ねられている。

その昔、越後国と越中国を行き来する旅人は、300メートルから400メートルもある険しい絶壁の下に開ける狭い砂浜を波にさらわれないように命懸けで渡らねばならず、親知らず子知らずで必死に切り抜けた伝説も(詳細は末尾の注釈2参照、親不知と市振間は親不知、親不知と青海間を子不知=こしらず=と命名)、今となってはピンと来ないし、景観もよくないが、ひと目見てきてくださいと、ガイド並みに詳しい説明がてら、薦めてくださったのだった。

旅の醍醐味はこうした未知の地元民との触れ合いにあり、地場ならではの貴重な情報をもたらされ、ありがたかった。

それにしても、ワンマン電車の仕組みには未だに戸惑うことが多い。富山の万葉線でも、料金システムがよくわからず、市民の足となっているトラムに、ぽっと旅行者が乗り込むと、車掌から乗り放題切符を買うか、今回だと後で精算払い方式で、そうすると手ぶらで乗り継ぐことにもなり、どうも落ち着かない。インドでは、切符なしで乗ると、法外な罰金を取られるのである。

向かって右が親不知海岸、左がヒスイ海岸で採取した石ころ群。メノウやガーネット、アベンチュリン=インド翡翠(翡翠ではないが、緑色のきらきらした美石)、石英なども採取可能。いいかげんな石捕りでも、お宝が混じっていたら、超ラッキー!

話が逸れるが、金沢から泊までの「IRいしかわ鉄道」(2015年に設立)では、途中通過した魚津が車窓越しに見た限りではよさそうで、そこから電車で宇奈月温泉にも行けることを知った(後で調べて、富山地鉄で魚津から50分、940円)。

亡母がかつて子連れで(私を除く弟たち)楽しんだ温泉地でもあることを思い出し、秋になって涼しくなったら、日帰りで訪れてみてもいいと思った(湯めどころという名の総湯があるようだ)。

旅の最中に通過したところに次に訪ねてみたいと食指が動くことはよくあり、こんな風にインスピレーションが降りてきて数珠連なりに行きたい場所が増えていくのである。えちごトキめき鉄道では、別ライン(妙高はねうまライン)で直江津から妙高高原にも行けるのだ(ここまでくると、長野は目の前)。

本題に戻ろう。親不知駅で降りた私はAさんに何度もお礼を言って、教わるままに踏切を渡った右手を直進、しかし、この炎天下、ピアパークまでの道のりは長かった。傘を差しても、しんどい。Aさんも36度とボヤいていたけど、異様な蒸し暑さである。とにかくひたすらまっすぐ歩いて、30分くらいでようやくそれらしき敷地が見えてきた。

ヒスイ海岸で適当に採取した石ころの中に、オレンジがかった縞模様の美しい丸石が奇跡のように混じっていた。右手の薬指の付け根に乗せてみると、まるでメノウの指輪のようで感激した。

ほっとして車道を渡り、駐車場を横切って浜に続く階段を降りて、海浜へ。炎天下の海には、海水浴客がひと組のみ、びっしり敷き詰められた石ころの浜にしゃがみ込み、波打ち際の小石を手当り次第に漁る。暑いのでいちいち確認できないので、出たとこ勝負だ。こんなんでヒスイが見つかるとは到底思えず、おざなりに採取したあとはレストピアで涼んで、自販機のりんごジュースを飲んで引き返した。

来た道を戻り、左手に北陸自動車道の高架橋(3373メートル、1988年開通)の橋脚に等間隔に遮られた青い海を見ながら、Aさんの言った意味が今さらながらわかった。橋脚が全部とっぱらわれたら、美しい青海が見渡せるのに。

炎天下に黙々と歩いていた私は駅をいつのまにか通り過ぎて、突き当たりの崖を切り開いたトンネル近くまで来ていた。行き過ぎたことに気づき、あわてて戻って郵便局で駅の所在を訊いて、どうにか始発地に戻れたが、時計を見ると、泊行きの上りにギリギリである。もう行ってしまったかなぁと踏切を渡り、向こう側のホームに立ったが、電車はいっこうに来ない。ミスったかと諦めて、背後に開ける親不知の海、橋脚に等間隔に切り取られた景観に見納めの目をやった。

すると、しばらくして行ってしまったと思っていた電車が来た。どうやら時間を間違えていたようである。無事泊行きに乗り込み、30分後に着くと、向かいのホームに電車が到着していた。あわてて乗り込み、車掌に金沢まで行くかと訊くと、高岡までだが、高岡から10分ほどで金沢までの乗り継ぎがあるので、これに乗ってもらっていいとの返事。ほっとして、席に落ち着いた。ああ、暑かった!やっと帰れる、高岡まで来れば、金沢まで40分弱、やれやれと、冷房の効いた車内で暑さでクタクタになった体の疲労を癒した。ヒスイ海岸と親不知海岸で掴みどりした石ころが入ったバッグはずしりと重い。

20時30分に帰宅。昼抜きだったので、手早くそうめんを茹で、食べて一服した。採取した石を調べてみると、ヒスイ海岸で採った方に、オレンジがかった縞模様の丸い美石が混じっていた。

スタンドの灯りをつけてまじまじとチェック、指輪にできそうなメノウ紛いの美しい石に感激した(あとで調べたところ、まさにそのメノウも取れるらしく、鑑定はしてないけど、メノウと確信)。ヒスイの原石ではないが、まさに奇跡が起こったと思った。

猛暑を押して出かけただけの甲斐はあった。しんどい思いをしたけど、苦労は報われたのである。まさか最後にこんなどんでん返し、大きなご褒美が降ってこようとは。やったぁ!この旅は失敗したかと悔いていた気持ちは一掃され、旅に付き物のトラブルは最後の瞬間、魔法のようなミラクルに早代わりしていた。

〇トピックス/石のまち・糸魚川でヒスイハンティングはいかが?

昨今、石ころ探索ブームとかで、興味のある方には、糸魚川市に一攫千金を夢見てのヒスイ探索ツアーをオススメする。本格採掘にはシャベルがあればいいが、ふらりと海岸に立ち寄って拾うだけでもいい。小石を収めるナイロンの袋は忘れずに。ヒスイ探しのコツは、白っぽく角張った石で(波打ち際の水中で白くボワーッとした光を発している)、表面に味の素のような結晶を探すといい。また光を透すか、透明性をチェックすること(光に透かすと、直角に交わった繊維構造が見られる)。

ちなみに、良質のヒスイは濃い緑よりもエメラルドグリーン、糸魚川ヒスイは乳色がかったまろやかな緑(オリーブグリーン)で、ほかに白やラベンダー、黒などもあり、私がゲットしたメノウをはじめ各種美石(ガーネットやアベンチュリンなど)も、運がよければ、採取可能だ。

小石の敷き詰められた海岸は美しく、海の色も透明、ただし我が体験からも盛夏は避けて、春か秋の涼しい季節にしたい。なお、ヒスイ採掘が許可されているのは、山から崩れ落ちた岩石が落下した小滝川や姫川、いわゆるヒスイ峡産地は禁止で、川から流れ着き海岸に打ち上げられたものだけだ。

筆者注釈
1.糸魚川ヒスイ再発見の伝説について
5000年前の縄文時代中期に糸魚川で縄文人がヒスイの加工を始めた。これは世界最古のヒスイと人間の関わり(ヒスイ文化)で、その後、弥生時代(BC3世紀ころからAD3世紀中ころ)、古墳時代(3世紀中ころから7世紀)を通じてヒスイは非常に珍重されたが、奈良時代(710年から794年)以降は全く利用されなくなってしまった。

そのため、糸魚川でヒスイが採れることも忘れ去られ、日本にはヒスイの産地はなく、遺跡から出土されるヒスイは大陸から持ち込まれたものと昭和初期まで考えられていた。1938(昭和13)年、夏前のこと。糸魚川の偉人・相馬御風(そうま・ぎょふう、1883-1950)が知人の鎌上竹雄(かまがみ・たけお、1889-1974)に、昔、糸魚川地方を治めていた奴奈川姫(ぬなかわひめ)がヒスイの勾玉をつけていたので、もしかするとこの地方にヒスイがあるかもしれないという話をしたそうだ。

鎌上は親戚の小滝村(現在の糸魚川市小滝)に住む伊藤栄蔵(1887-1980)にその話を伝え、伊藤は地元の川を探してみることにした。 1938年8月12日、伊藤の住む小滝を流れる小滝川に注ぐ土倉沢の滝壷で緑色のきれいない石を発見した。

1939(昭和14)年6月、この緑の石は、鎌上の娘が勤務していた糸魚川病院の院長だった小林総一郎を通じて、親類の東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室の河野義礼(かわの・よしのり、1904-2000)へ送られた。河野が神津俶祐(こうづ・しゅくすけ、1880-1955)教授の所有していたビルマ(現ミャンマー)産のヒスイと偏光顕微鏡や化学分析で比較した結果、小滝川で採れた緑色の岩石はヒスイであることが科学的に証明された。ほかに、糸魚川ヒスイについての詳細は前号末尾の注釈参照。

2.「親不知」の名称の由来は、幾つかの説がある。一説では、断崖と波が険しく荒いことから、親は子を、子は親を省みることがならず命懸けで渡るため、この名が付いたとされている。ほかに、以下のような説もある。

壇ノ浦の戦い(1185年4月)後に助命された平頼盛(よりもり、1133-1186)は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた。都に住んでいた妻はこのことを聞きつけて、夫を慕って2歳になる子を連れて京都から越後国を目指した。しかし、途中でこの難所を越える際に、連れていた子どもを波にさらわれてしまった。悲しみのあまり、妻はその時のことを歌に詠んだ。
「親不知 子はこの浦の波枕 越路の磯の 泡と消え行く」
以後、その子どもがさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったとする伝説もある。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載します。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子の「Rapper Big Deal」はラッパーとしては、インドを代表するスターです。

2023年8月16日現在(CoronaBoardによる)、世界の感染者数は6億8863万6551人(前日比4748人増)、死亡者数が690万2555人(35人増)、回復者数は6億2013万6605人(2997人増)。インドは感染者数が4499万6313人、死亡者数が53万1921人、回復者数が4446万2920人、アメリカに次いで2位になっています。

ちなみにアメリカの感染者数は1億0774万0621人(4607人増)、死亡者数が117万2147人(35人増)、回復者数は1億0579万2596人(2799人増)。日本は5月8日以降は1医療機関あたりの全国平均になっています。編集注は筆者と関係ありません)