椅子と骨(短編小説編2)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2023年11月24日】オフィスにあった黒革の椅子は、主をなくしたあと、しばらくぽかりと空虚を囲っていた。私たちは彼の生まれ育ったカオスの亜熱帯国で、長年ゲストハウスを経営していた。私邸に隣接する前面にレセプションオフィスがあり、椰子のそびえる背後にゲストハウス棟が控えていた。

彼は毎早朝からオフィスに詰めて、オーナー専用の黒革椅子に腰かけ、スタッフに采配をふるっていた。コックが供する食事、昼食後の長い午睡時、私邸に引っ込むだけで、それ以外はオフィスに常駐、日が落ちると、カウンターの下に隠したウィスキーをちびちびやりながら愛用のタバコをくゆらすのが、1日でもっとも寛げるひとときとなっていた。

椅子の下には、野良の犬や猫が寝そべり、動物好きの彼は、砕いたビスケットを投げ与えるのが日課だった。彼にとってはオフィスの椅子の上は何より居心地のいい、一等寛げる、自分の居場所だったのだ。

文筆に勤しむ私が外に出るのは夕刻の浜の散歩くらいだったが、オフィスを通り過ぎると、必ず彼がいて愛用の椅子で寛ぎながら、紫煙をくゆらせていた。実務的なことはスタッフ任せだったか、いつも律儀にオフィスに詰めて、オーナーとしてホテルを盛り立てていた。

私にとっては、当たり前になってしまった光景だが、いざオーナー専用の椅子から主が消えると、いないことに違和感を覚え、虚ろに寂しく感じた。専用椅子にほかの誰かか座っていると、敵意すら感じた。カウンター脇の壁に愛用のチェアに座した彼の遺影が飾ってあって、いなくなった今も、オフィスを見守っているかのようにみえた。

最近、見た夢で彼は、南の聖地の浜辺にいることを報せてきた。観光地としてはあまり知られていないこぢんまりとした聖地の海は、峠を越えなければ辿り着けない場所に隠れており、岩場を起点に二連の弧状の浜を広げていた。

海の底が透けて見えるほど浄らかな聖地の、めずらかな地形の浜に、私たちは新婚初期、自営宿のオフシーズンを利用して訪ねたことがあったのだ。観光客はほとんどおらず、静かで美しい佇(たたず)まいを呈していたバージンビーチ、そこになぜ彼が今いるのか、不思議な気持ちになって、あとで調べてみると、奇しくもシバ神(Siva)の聖地であることがわかった。彼は生前、破壊と再生を司るシバ神が住むカイラス山(Kailash)に巡礼に行きたがっていたのだ。

息子の暮らす都会が、少し離れてはいるものの同じ州ということもあったかしれない。一人息子を溺愛していた彼は、息子が早く結婚し、孫ができることを心待ちにしていたのだ。彼は、自縛の罠に陥って旅発てずにいる私に、動きなさい、旅する君は美しく輝かしいと、エールを送ってくれた。

黒革の椅子は、息子が帰省したとき、パソコン用の椅子に使いたいと、私邸に引き上げた。私は内心、椅子なしでは彼のスピリ二ットの居場所がなくなってしまうと憂え、なかなか首を縦に振らなかったのだが、甥が亡父も愛息に使ってもらえるなら喜ぶはずと加勢し、押し切られた。

オフィスからオーナー専用の椅子がなくなり、代わりに安っぽいプラスチックのチェアが置かれ、彼の遺影は心なしか戸惑っているように見えた。かすかに愛用していたタバコの匂いが空中に立ち込め、寛げる椅子を探しているような気がした。耳覚えのある咳払いも聞こえてくる。オフィスから椅子は、主を追うように消えたのだ。

疫病流行が収まって2年後、私は自国、息子は都会に去って、空き家となった本宅では、黒革の椅子は埃(ほこり)を被っている。誰も住む者のない家には、彼のスピリットすら戻ることをよしとしなかっただろう。

私は母国に戻る決意をしたとき、彼の骨を持ち帰りたくて、小さな巾着を僧侶に開けてもらった。シナモンスティックのような黒っぽい欠片(かけら)を持ち帰り、郷里の海に散骨するつもりだった。

死後まもなく、私の夢に現れた彼はもう一度君の郷里に行きたかったと、無念そうに洩らしたからである。亜熱帯地と違って、わが故郷の海は、雪国で波の荒々しいことで通っていたが、思いがけず、彼の生地の海も、波が荒めだった。東西に長々と横たわるまっすぐな海岸線に、豪快な地響きを立てて弾ける波を見ていると、祖国の海に重ね合わさずにはいられなかった。郷里の岩場の多い海とは明らかな違いはあったが、波の荒さだけにはどこか通ずるものがあったのだ。

彼が再訪したがっていたわが故郷の海への散骨は、故人の悲願を果たすべく私が独りで済ませたが、実は彼の国、私にとっては移住地での本式のセレモニーはまだ済ませていなかった。

大陸を横断して流れる母なる聖河への遺灰撒布の儀式だが、喪主である後継ぎの息子が未婚のため、行えないしきたりになっていた。私にとっては異教の荘厳なるセレモニー、彼はその本儀式を遺族が果たしてくれることをどんなにか心待ちにしていたろう。それまでは、天に上がれず、中有の薄暗いなかをさまよい続けているのかもしれなかった。
(「フィクションワールド」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げている続きで、「インドからの帰国記」とは別に、短編など小説に限定して掲載します。本人の希望で画像は使いません)