丸善日本橋が棟方志功生誕120年と民藝展、柳宗悦、濱田庄司らも

【銀座新聞ニュース=2023年11月28日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(東京都中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は11月29日から12月5日まで3階ギャラリーで「生誕120年 棟方志功と民藝展」を開く。

丸善・日本橋店で11月29日から12月5日まで開かれる「生誕120年 棟方志功と民藝展」に出品される「巌鷹の柵」(木板画)。

柳宗悦(やなぎ・むねよし、1889-1961)や濱田庄司(1894-1978)、河井寬次郎(1890-1966)らは、無名の職人による暮らしに息づく道具類を「民藝」と名付け、そこに美を見出し、1936(昭和11)年に展覧会場で柳宗悦と出会い、当時無名の一版画家にすぎなかった棟方志功(むなかた・しこう、1903-1975)の運命は、柳宗悦らとの出会いによって大きく変わっていく。

今回は、青森県出身で日本を代表する板画(版画)家で、エネルギッシュで自由奔放な芸術家である棟方志功と、生涯にわたり親交と影響を受けた民芸運動の柳宗悦、バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach、CH CBE、1887-1979)、河井寬次郎、濱田庄司、富本憲吉(1886-1963)らの作品も併せて展示する。

ほかに、出品されるのは芹沢銈介(1895-1984)、島岡達三(1919-2007)、木喰(もくじき、1718-1810)、円空(1632-1695)らで、民芸骨董も展示される。

ウイキペディアによると、棟方志功は1903年青森県青森市生まれ、1924年に東京へ上京、帝展や白日会展などに油絵を出品するも、落選が続いた。1928年に第9回帝展で「雑園」(油絵)が入選、1930年から文化学院で美術教師を務め、1932年に日本版画協会会員となる。1936年に国画展に出品した「大和し美し(やまとしうるわし)版画巻」が出世作となり、1945年に戦時疎開のため富山県西砺郡福光町(現南砺市)に移住、1954年まで在住し、1946年に富山県福光町栄町に住居を建て、自宅を「鯉雨画斎(りうがさい)」(現在、南砺市立福光美術館の分館)と名付けた。1951年にスイス・ルガーノで開催された第2回国際版画展で優秀賞、1952年にサロン・ド・メに招待出品し、同年秋にはニューヨークで初の個展を開いた。

1955年にブラジル・サンパウロ・ビエンナーレで版画部門の最高賞を受け、1956年にベネチア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」(ゆうぜんするにょしゃたちたち)全2柵などを出品し、日本人として版画部門で初となる国際版画大賞を受賞した。1958年7月には筑摩書房から柳宗悦の監修による「棟方志功板画」を刊行、1935年から1958年までの作品から91点を選出した、英文解説つきの本格的な選集となった。1963年4月に藍綬褒章を受章、9月には大原總一郎(1909-1968)の依頼により、12月に竣工する倉敷国際ホテルのための板画壁画「大世界の柵・坤-人類より神々へ」を制作した。

1967年に日本版画院より名誉会員に推挙され、1968年4月に劇団民藝公演のアーサー・ミラー(Arthur Asher Miller、1915-2005)作「ヴィシーでの出来事」の舞台美術を手がけ、
1970年8月には大阪万博・日本民芸館のための板画壁画「大世界の柵・乾-神々より人類へ」が完成、11月に文化勲章を受章し、文化功労者に叙された。1974年7月ころに八戸市公会堂のための緞帳をデザインし、この夏に日本で制作した最後の板画作品となる「不盡の柵(むじんのさく)」を制作した。1975年9月13日に東京で永眠した。同日付で従三位に叙された。

棟方志功は1946年6月に日本民藝館にて肉筆・板画を含む100点余りに及ぶ「棟方志功特別展」を開いている。また、日本民藝館によると、1936年に国画会の出品した「大和し美し版画巻」が、柳宗悦や濱田庄司に注目され、開館を控えた日本民藝館の買い上げ作品となり、これがきっかけとなり、河井寛次郎を交えた民藝運動の指導者らとの交流が始まり、以後の作品制作に多大な影響と刺激を受けていった。

日本民藝館が所蔵する棟方志功作品は、版画(1942年以降、棟方志功は「板画」と表記)を中心に肉筆画や書など約200点あり、それらはすべて柳宗悦の眼を通して収蔵されている。柳宗悦の装案によって飾られ、作品と一体となった軸装や屏風の美しさは当館所蔵の棟方志功作品のひとつの特徴としている。

「民藝(運動)」とは、手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動で、「民藝」とは「民衆的工藝」の略語で、柳宗悦らによる造語。1926(大正15)年に柳宗悦、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司が連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表したことが、運動の始まりとされる。全国の民藝館などで運動が続けられている。1934(昭和9)年に「日本民藝協会」が設立され、柳宗悦が会長に就任した。

1936(昭和11)年には「日本民藝館」を創設、創設者であり、民藝運動の中心でもあった柳宗悦は、日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代(1392年から1897年)の美術工芸品、江戸時代の遊行僧・木喰の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努めた。

また、開館に際し柳宗悦は、それまでに収集したもの一切を日本民藝館に寄付し、さらに以後収集するものも一切を同館に寄付することとした。

柳宗悦は工藝品の美は知識や美意識を持った個人作家ではなく、「無私の工人」によって生み出されると考え、仕事に自らを奉仕する場としての「ギルド(協団)」を評価し、新作民藝を生み出すためのギルドの設立をめざし、柳宗悦に共鳴していた染色の青田五良(ごろう、1898-1935)、漆芸・木工の黒田辰秋(1904-1982)らを中心として、1927(昭和2)年に「上賀茂(かみがも)民藝協團」が設立された(1929年に解散)。

1931(昭和6)年に雑誌「工藝」が創刊され、雑誌そのものが工藝的な作品であるべきだと考えた柳宗悦らは、表装に布を用いたり、和紙を用紙に使用するなどの取り組みを行った。1961年5月3日に柳宗悦が逝去すると、5月7日に日本民藝館で葬儀が行われ、日本民藝館の館長には濱田庄司が、日本民藝協会会長には大原總一郎(1909-1968)がそれぞれ就任した。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)。