丸善日本橋で輪島塗の北濱幸作作品展、被災後も輪島で暮らす

【銀座新聞ニュース=2024年2月27日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月28日から3月5日まで1階イベントスペースで「輪島復興支援フェア 輪島塗蒔絵師 北濱幸作作品展」を開く。

丸善・日本橋店で2月28日から3月5日まで開かれる「輪島復興支援フェア 輪島塗蒔絵師 北濱幸作作品展」のフライヤー。

日本伝統工芸士会(豊島区西池袋1-11-1)、一般財団法人「伝統的工芸品産業振興協会」(港区赤坂8-1-22)が主催する輪島復興支援フェアで、輪島塗の伝統工芸士で「北濱蒔絵工房」(石川県輪島市水守町タキシヤ20-3、0768-22-6254)を主宰する北濱(きたはま)幸作さんの作品を展示販売する。

漆で絵柄や文様を描いた上から、金・銀粉や色粉などを蒔いて表面に付着させ、美しい模様を表現する「蒔絵(まきえ)」一筋に取り組んできたのが北濱幸作さんで、北國新聞2月9日付によると、「四畳半あれば仕事はできる」と語り、能登半島地震により工房兼自宅は1階部分の傾きが強く、応急危険度判定で赤い紙が貼られたが、北濱幸作さんは仕事道具を取り出し、同じ蒔絵師の次男の智さん(45歳)と2人、太い梁(はり)がある車庫で寝泊まりしながら、3月からの仕事再開へ片付けを進めている。

北濱幸作さんは「1月2日から仕事するつもりで漆や金粉の準備がしてあったが、そこら中に飛び散り、家の中はがれきだらけとなった。それでも少しずつ通れる道をつくり、玄関脇には壊れた塀とブルーシートで即席の倉庫をつくって、被害を免れた漆器などを保管している」。被災後に市外の産地からも「工房があるから来ないか」と誘われたが、「輪島を離れる選択肢はなかった。輪島にいたから今までやってこられたから」と断っている。

今回はこうして輪島で仕事の準備を進める北濱幸作さんの漆器などの作品を展示する。

ウイキペディアと輪島漆器商工業協同組合によると、輪島塗は石川県輪島市で生産される漆器で、能登半島の七尾市の三引遺跡(みびきいせき)からは6800年前の漆製品が発見されている。輪島では平安時代の遺構である屋谷B遺跡で漆製品が発掘されている。

輪島塗の特色を備えたものとしては、山地を挟んで反対側にある穴水町の西川島遺跡群御館遺跡(室町時代前期、おやかたいせき)で珪藻土を下地に用いた椀が発掘されている。現存する最古の輪島塗は、室町時代(1336年から1573年)の1524年作と伝わる輪島市河井町にある重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ)旧本殿の朱塗扉(しゅぬりとびら)といわれている。

現在のような輪島塗の技術が確立したのは江戸時代寛文年間(1661年から1672年)とされ、海運の利を生かして販路を拡大し、陸路でも行商がおこなわれており、堅牢さが評判の輪島塗は日本各地で使われていた。沈金(ちんきん、漆面に対して刃物で文様を彫り、この痕に金箔、金粉を押し込む)の始まりも江戸時代享保期(1716年から1735年)、蒔絵(漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法)は文化文政年間(1804年から1830年)にはいってからとされている。

日清戦争(1894年7月から1895年3月)、日露戦争(1904年2月から1905年9月)で輸出が減ったが、国外の博覧会には毎回出品し、主要生産地の漆器のなかで突出した値段で取引されていたという。

ただし、漆器の技法そのものは縄文時代(前1万4000年ころから前3世紀から前5世紀まで)にまでさかのぼり、長い時間をかけ、幾世代にもわたって受け継がれてきた。「輪島地の粉」の発見は珪藻土の一種を焼いて粉末にしたもので、漆に混ぜることで頑丈な下地がつくれるようになった。弱くなりがちな部分に布をかぶせる「布着せ」という手法も生みだされた。

こうして、輪島塗は「優美さと堅牢さ」を支える、「本堅地法(ほんかたじほう)」とよばれる工法が完成した。江戸時代に入り、沈金の技術が確立し、蒔絵の技術が伝わると、暮らしの中で使う道具とひとつの芸術という輪島塗の価値が確立した。

輪島塗は厚手の木地に生漆と米糊を混ぜたもので布を貼って補強し、生漆と米糊、焼成珪藻土を混ぜた下地を何層にも厚く施した「丈夫さ」に重きをおいて作られている漆器で、1975年5月に「伝統的工芸品」に指定された際の通産省(現経済産業省)による輪島塗の要件は1)伝統的な技術または技法については、下地塗りは、木地に生漆を塗付した後「着せもの漆」を塗付した麻または寒冷紗を用いて「布着せ」をすることと生漆に米のり及び「輪島地の粉」を混ぜ合わせたものを塗付しては研ぎをすることを繰り返すこと。

2)上塗りは、精製漆を用いて「花塗」または「ろいろ塗」をすること、3)加飾をする場合は、沈金または蒔絵によること、4)木地造りについては、挽き物にあっては、ろくろ台及びろくろかんなを用いて形成する、あるいは板物または曲げ物にあっては、「こくそ漆」を用いて成形することとしている。

伝統的に使用されてきた原材料については、漆は天然漆とする、木地はヒバ、ケヤキ、カツラ、もしくはホオノキ、またはこれらと同等の材質を有する用材とすることとしている。これらはあくまで伝統産業の振興を目的とする法令「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」に基づく伝統的工芸品としての輪島塗の要件であるが、これらを満たすことで類似品と区別するための「伝統証紙」が使用できたりするものの、これらの要件をすべて満たしたものだけが輪島産の漆器であるわけではないという。

「布着せ」は、木地に布を貼ることで、椀の縁や高台、箱ものの角など傷つきやすい所を補強するために施すもので、漆工芸における基本的な工程だが、現在広く流通している漆器では省略されることが多く、輪島塗や越前塗、京漆器などの一部の漆器産地でつくられるものにしか見受けられない。

「ジャパン(japan)」と呼ばれる漆器の歴史は、約6800年前までさかのぼり、最古の漆塗り製品は、三引遺跡から出土した竪櫛(たてぐし)で、16本の櫛歯(ムラサキシキブ材)に横木を渡して、植物繊維でより合わせ、頭部を半円形にし、ベンガラ(赤色塗料)が含まれた漆を4層塗り重ねるなど高度な技術が駆使されている。

縄文時代の櫛はシャーマン(呪術者)の頭部を飾る呪具で、多くは赤色漆塗りで、赤色は生命の色、再生の色であり、精製された漆に赤色顔料(ベンガラ・朱)を混ぜることによって、より光沢と深みをました麗しい赤色に変化する。

平安時代(794年から1185年)の説話文学集「今昔物語」(1120年ころ完成)に、あらゆる願いがかなえられるという「通天の犀角帯(さいかくのおび)」入りの漆桶が、輪島の海岸に漂着したという話が収められている。輪島と漆を結びつける文学上の最古の記録で、潮が運ぶ能登の文化的位置を示しており、同時代の輪島で漆器が作られていたことは、石川県輪島漆芸美術館前の釜屋谷B遺跡から、漆盤(大皿)と漆パレットが出土したことからも、裏付けられている。

漆器の生産はいくつかの分業を総合した高度な技術で、古代においては律令国家や有力寺院などに掌握されており、平安時代も後期になると国家権力は衰え、漆工技術者たちは保護を求めて地方の富豪層のもとに身を寄せたり、山々を漂泊して簡素な漆器作りを行う木地師が出現した。

平安時代末期から中世にかけて爆発的に漆器の普及が始まり、飯椀、汁椀、采椀の組み合わせ(組椀)が食膳の主流となり、富豪層の居館跡と考えられる山岸遺跡からは多量の漆器が発見され、輪島においてもかなり普及していたことが知られている。

中世後期の輪島は大屋荘の中心であり、日本海側を代表する「親の湊」をひかえた中継港湾都市として栄えた。富山湾側の中核集落・穴水町西川島遺跡群御館遺跡から出土した線刻椀(室町前期)には輪島沈金と同じ技法がみられるとともに、顕微鏡分析から珪藻土の下地が確認された。つまり今日の輪島塗の特徴を備えた最古の漆器ということになる。

輪島塗と他産地とを識別する最大の特色は、下地に地の粉(珪藻土)が用いられていることで、これを焼成粉末にして下地塗りに用いるが、微細な孔を持つ珪藻殻の粒子に漆がよくしみこみ、化学的にも安定した吸収増量材になることと、断熱性に優れていることが重要な特色という。

つまり漆とガラス質の微化石・鉱物による固く堅牢な塗膜によって柔らかいケヤキの木地が包まれ、くるい(変形)がなく熱に強い漆器の基礎ができあがる。従来、このような下地技法は江戸時代の寛文年間に生まれたとの伝承から、輪島塗の起源をここに求める考えが定説化していた。

しかし、室町時代(1336年から1573年)にさかのぼる考古資料が発見されたことや輪島市内の重蔵神社に残る1476年の棟札に塗師たちの名前がみえること、1768年に修理された同社奥の院の朱塗扉は、1524年の造替時のものといわれていることなどを総合すると、室町時代には国人領主・温井氏の保護のもとに漆器生産が行われ、小規模な商圏が形成されていたと考えられている。

江戸時代前期の寛文年間(1661年から1673年)には敦賀をへて、京・大阪に販路を広げ、1713(正徳3)年の塗師数は25人、1787(天明7)年には河井町50人、鳳至町12人、1843(天保14)年には鳳至町だけで塗師28軒、塗師職人79軒となっている。生産組織も塗師、椀・曲物・指物木地、蒔絵、沈金の6職となり、分業化が進展した。こうして、18世紀から19世紀にはご膳、椀、櫃が、西は山口県(赤間ヶ関)から、北は北海道にまで運ばれており、1841(天保12)年には択捉島(えとろふとう)から注文が入るほどだった。このため、漆が不足し、新潟方面から調達した。

明治維新によって大名・武士、公家などの需要を失った京都、江戸、尾張、加賀などの漆器産地は大きな打撃を受けたが、藩のお抱え職人が輪島に移住したこともあって、富裕な農家や商家を主な顧客とし、独自の生産・販売形態をもっていた輪島塗は、生産を発展させた。明治後期から大正時代にかけては沈金の名工が輩出し、片切彫や沈金象嵌などの新たな技術も開発され、伝統的な家具(膳椀セット)の生産に加え、料亭や旅館で使用される業務用の需要を開拓し、製品の種類に変化が生まれた。

1885(明治18)年には、輪島地の粉(珪藻土)の管理、漆樹の植栽、職人の技術向上をめざして、「輪島漆器同業者組合」が結成され、1903(明治36)年には河井町の塗師屋は157軒、鳳至町の塗師屋は61軒、1910(明治43)年には輪島漆器同業者組合加入の漆器業者は255軒を数えた。1927(昭和2)年には「帝展」に工芸部門が新設され、輪島では蒔絵師や沈金師などが帝展を舞台に漆芸作家として活躍をはじめている。

1954年に工芸展が「日展」と「伝統工芸展」に分かれ、1955年に沈金の前大峰(まえ・たいほう、1890-1977)、漆の塩多慶四郎(しおた・けいしろう、1926-2006)が1995年に、沈金の前史雄(まえ・ふみお、1940年生まれ)さんが1999年にそれぞれ国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の指定を受けた。

北濱幸作さんは1952年石川県輪島市生まれ、1971年に蒔絵師・2代目曽又真山さんに師事し、1979年に独立し、1995年に第27回新院展で入選(1996年に第28回で金賞、1997年に第29回で特選、1999年に第31回で特選、2000年に第32回で入選、2001年に第33回で金賞、2004年に第36回で北新院展賞、2006年に第38回で特選)、1998年に輪島塗伝統工芸士・加飾部門(蒔絵)に認定され、蒔絵業組合の組合長に就任(2003年から顧問)、2002年に石川県新庁舎の内装パネルを制作、輪島道中祭「輿」に「鳳凰」蒔絵を制作している。

2006年に金沢城兼六大茶会工芸作品公募展で北国新聞社社長賞(2007年に金沢商工会議所会頭賞、2009年に北国新聞社社長賞)、2012年に輪島塗伝統工芸士会会長に就任、伝統工芸功労者石川県知事表彰、2017年に中部経済産業局長賞を受賞、2018年に経済産業大臣表彰、伝統工芸功労賞を受賞している。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)。