丸善日本橋で美濃桃山陶展、荒川豊蔵、加藤唐九郎、板谷波山ら

【銀座新聞ニュース=2024年4月22日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は4月24日から30日まで3階ギャラリーで「数寄者の茶陶展」を開く。

丸善・日本橋店で4月24日から30日まで開かれる「数寄者の茶陶展」に出品される川喜田半泥子の「井戸手茶碗」(銘筑紫路)。

「楽焼」などの茶陶作品をはじめ、近・現代を代表する陶芸作家が制作した茶陶の作品、重要無形文化財保持者(人間国宝)の荒川豊蔵(1894-1985)や加藤唐九郎(1897-1985)らが魅せられ、制作の原点となった「美濃桃山陶(みのももやますえ)」の作品を展示販売する。また、近現代巨匠陶芸展として、重要無形文化財保持者に認定された陶芸家(一部は辞退)の作品も出品する。

今回、荒川豊蔵、加藤唐九郎のほかに出品するのは、1960年に重要無形文化財保持者の候補となるも辞退した板谷波山(1872-1963)、1955年に重要無形文化財保持者に指定されるも辞退した北大路魯山人(1883-1959)、加藤唐九郎の長男、岡部嶺男(1919-1990)、元百五銀行頭取で、3人の人間国宝を支援した川喜田半泥子(かわきた・はんでいし、1878-1963)。

1956年に重要無形文化財保持者に認定された金重陶陽(かねしげ・とうよう、1896-1967)、1970年に重要無形文化財保持者に認定された三輪休和(第10代三輪休雪、きゅうわ、1895-1981)、1976年に重要無形文化財保持者に認定された中里無庵(1895-1985)、文化勲章、重要無形文化財保持者、芸術院会員などへの推挙をすべて辞退した河井寛次郎(1890-1966)。

1961年に重要無形文化財保持者に認定された加藤土師萌(はじめ、1900-1968)、1986年に重要無形文化財保持者に認定された藤本能道(よしみち、1919-1992)、1989年に重要無形文化財保持者に認定された第13代今泉今右衛門(いまえもん、1926-2001)、2001年に重要無形文化財保持者に認定された第14代酒井田柿右衛門(かきえもん、1934-2013)。

1955年に第1回重要無形文化財保持者に認定された濱田庄司(1894-1978)、1993年に重要無形文化財保持者に認定された松井康成(こうせい、1927-2003)、1995年に重要無形文化財保持者に認定された加藤卓男(1917-2005)、1985年に重要無形文化財保持者に認定された清水卯一(1926-2004)、1985年に重要無形文化財保持者に認定された金城次郎(きんじょう、1912-2004)ら。

ウィキペディアによると、「楽焼」は、轆轤(ろくろ)を使用せず、手とへらだけで成形する「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で成形した後、750度Cから1200度Cで焼成した軟質施釉(せゆう)陶器をいう。また、楽茶碗を生み出した樂(らく、田中)家の歴代当主が作製した作品を楽焼という。その手法を得た弥兵衛焼(やへえやき、後の玉水焼)、金沢の大樋焼(おおひやき)も楽焼の一種である。 広義には同様の手法を用いて作製した陶磁器全体を指す。

千利休(1522-1591)らの嗜好を反映した、手捏ねによるわずかな歪みと厚みのある形状が特徴である。利休の考えでは、狭い茶室が「洞窟」、楽焼の茶器が「泥」にたとえられ、もっとも人の手や技巧のない状態での「茶道」を想像させるものとされる。茶道具(茶碗、茶器、水指、花入、香合、蓋置、建水など)や炭道具(灰器、火入、香炉など)のほか、向付などの懐石具として使用される。

天正年間(1573年から1592年)、陶工または瓦職人だった樂家初代長次郎(?-1589)が千利休の指導により、利休の侘び茶に叶う茶碗(楽茶碗)を生み出したのが始まり。その際、聚楽第を建造する際に土中から掘り出された土(聚楽土)を使い、当初は「聚楽焼」(じゅらくやき)と呼ばれていた。

田中常慶(樂家では2代目、じょうけい、?-1635)の父、田中宗慶(1535-?)が豊臣秀吉(1537-1598)より聚楽第からとった樂の銀印を賜り、これを用いるとともに家号にしたことから楽焼となった、との説が広く知られる。楽家の楽焼を本窯、傍流の楽焼を脇窯(玉水焼、大樋焼、久楽焼など)という。

初期の製法としては、素焼き後に加茂川の黒石からつくられた鉄釉(てつゆう)をかけて陰干し、乾いたらまた釉薬(ゆうやく)をかけるといったことを十数回繰り返してから1000度C程度で焼成する。焼成中に釉薬が溶けたところを見計らって窯から引き出し急冷することで、黒く変色する。これは美濃焼と共通する手法である。1581(天正9)年から1586(天正14)年頃に長次郎によって黒楽茶碗が焼かれたのが始まり。

赤土を素焼きし、透明の釉薬をかけて800度C程度で焼成した本阿弥光悦(1558-1637)や、3代目樂道入(ノンコウ、1599-1656)の作品などが有名である。利休のエピソードに秀吉は黒楽を嫌い、赤楽を好んだとある(「神屋宗湛日記」)。

可児市(かにし)によると、美濃桃山陶とは安土桃山時代(1568年ころから1616年ころまで)、なかでも、豊臣秀吉が政権を握ったころ、志野焼に代表されるような、東濃地方で焼かれた陶器のことで、長い間、愛知県瀬戸市で焼かれたものと考えられ、「黄瀬戸」や「瀬戸黒」と呼ばれた。

中国やヨーロッパから陶磁器が入り、新しい文化との交流に触発され、安土桃山時代に岐阜県の美濃地方(現可児市久々利など)で新しく釉薬の掛かった焼き物が誕生し、わずか20年から30年の間しか焼かれなかったが、日本美術の転換期に開花し、当時の人々の美意識に変革をもたらしたとされている。

久々利大萱(くくりおおがや)で桃山時代の志野の窯跡を発見し、その再興に尽くしたのが人間国宝の荒川豊蔵で、そのきっかけとなったのが、名古屋の旧家所蔵の「志野筍(たけのこ)茶碗」で、荒川豊蔵はこの茶碗を手にしたとき、底にこびりついた米粒ほどの赤い土に気づき、この赤土が瀬戸にはないことから、志野は瀬戸で焼かれたという定説に疑問を持った。

多治見や可児の窯跡を調査し、久々利大萱で筍の絵のある志野の陶片を発見し、この発見は「日本の陶磁史を覆す大発見」といわれた。この発見から3年後の1930(昭和8)年、荒川豊蔵は39歳の時に大萱に窯を開き、以来、志野や瀬戸黒を再興することに半生を捧げた。

大窯は15世紀後半から造られ、地表をある程度掘りくぼめ、傾斜を利用しつつ床面を造り、粘土などで天井や壁を築いた窯跡で、以前の時代より製品を焼く温度が高くなり、釉薬をかけた多くの製品が焼かれた。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。入場は無料。