丸善丸の内で九谷焼「宮本屋窯と飯田屋八郎右衛門」展

【銀座新聞ニュース=2024年5月21日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は5月24日から6月3日まで4階ギャラリーで「九谷赤絵の極致 宮本屋窯と飯田屋八郎右衛門の世界」を開く。

丸善・丸の内本店で5月24日から6月3日まで開かれる「九谷赤絵の極致 宮本屋窯と飯田屋八郎右衛門の世界」のフライヤー。

石川県加賀市、石川県加賀市教育委員会、九谷赤絵東京展開催実行委員会が主催する「宮本屋窯」とその主画工だった「飯田屋八郎右衛門」を取り上げ、宮本屋窯の作品約50点を展示する。

出品するのは、九谷焼伝統工芸士名工で絵付師の山本芳岳(ほうがく)さん、その次男の伝統工芸士で素地師の山本浩二さん、その3男の伝統工芸士で、絵付師の山本秀平さんら。

九谷焼解説ボランティアによると、「宮本屋窯」(1835年から1852年まで)は、1832(天保3)年に元吉田屋窯支配人の宮本屋宇右衛門(生年不詳-1845)が前年から閉じられていた「吉田屋窯」を買収して再開した窯のこと。「吉田屋窯」の末期に、宮本屋宇右衛門は、吉田屋窯の運営を任されていたが、業績が一向に良くならず、窯を閉じざるを得なくなり、吉田屋より窯を譲り受けて「宮本屋窯」を開いた。

宮本屋宇右衛門は、素地工に若杉窯の陶工であった木越八兵衛(生没年不詳)、画工に飯田屋八郎右衛門(1804?-1852)をそれぞれ主工として招き入れ、吉田屋窯時代の青手の製品作りを止め、製品を一変させた。

開窯からしばらくして、素地については、吉田屋窯では使っていなかった、白色でやや青みを帯びたものに変え、彩色については、当時の人々が求めた細描きの赤絵や金襴手に変えた。その結果、この窯の製品は吉田屋窯時代の「青九谷」と比肩できるほど「赤九谷」と呼ばれて評判となり、窯の経営も順調になった。

宮本屋宇右衛門が1845(弘化2)年に没して、その弟の宮本屋理右衛門(?-1859)が窯を継いで事業が続けられたが、1852(嘉永5)年に窯の主軸である飯田屋八郎右衛門が48歳の若さで没したことから、衰退の方向に向かい始めた。それでも、若杉窯の画工 、軽海屋半兵衛(かるみや・はんべえ)が飯田屋八郎右衛門の代わりとして、絵付にその腕をふるったが、1859(安政6)年に宮本屋理右衛門が没すると廃窯になった。

飯田屋八郎右衛門は江戸時代末期の陶画工で、加賀(現石川県加賀市大聖寺)生まれで、家業は染物屋の絵付師だった。1831(天保2)年に大聖寺藩の吉田屋窯を引き継いだ宮本屋宇右衛門に主工として迎えられ、中国色の強い華やかな九谷焼を完成させた。その作風は「八郎手」または「飯田屋風」といわれた。

「宮本屋窯」は再興九谷の一つで、「方氏墨譜」から画題の一部の着想を得たことで独自性を発揮し、「九谷赤絵といえば宮本屋窯」という不動の地位を築いた。中でも、世界一の細かさ、黒みがかった赤(通称・血赤)、金彩に「赤以外の上絵釉」を賦彩(ふさい)した鼻祖(びそ、元祖)であることが特筆すべき点として挙げられる。

再興九谷の中で、青木木米(もくべい、1767-1833)による春日山窯の呉須赤絵、三田勇次郎(生没年不詳)による若杉窯の伊万里風の色絵、民山窯の金彩を施した赤絵、九谷庄三(1816-1883)による小野窯の赤絵細描風の色絵などが加賀赤絵の先駆をなしたが、いずれも補色を混用したため、色絵に分類され、九谷焼における赤絵金襴手は「宮本屋窯」において完成した。

九谷庄三は宮本屋窯利八(宮本屋宇右衛門の子、1837年没)から赤絵を学んで、作品に活かし、また、浅井一毫(いちごう、1836-1916)は晩年の八郎右衛門からその描写について教えを受け、竹内吟秋(ぎんしゅう、1831-1913)とともに、作品にその描写法を取り入れた。このようなことから、明治九谷における赤絵金彩の彩色を生み出した源はこの宮本屋窯の「赤九谷」にあったといわれている。

山本芳岳さんは1960年石川県加賀市大聖寺永町生まれ、1980年に金城短期大学日本画科を卒業、1982年に九谷工芸高等訓練校ロクロ成型科を卒業、1978年に福井繊維総合展で福井市長賞、福井デザインコンクールで福井市長賞、福井県美術展(デザイン部門)で入選、
1980年に亜細亜現代美術展(日本画部門)で入選、1982年から相上芳景(あいじょう・ほうけい)さんの門に入り、九谷赤絵細描の運筆、上絵釉薬の薫陶を受ける(1985年まで)。

1986年に第48回一水会陶芸展で初入選(1992年に佳作賞)、1995年に日本工芸会石川支部展で入選(1996年も入選)、1996年に通産大臣認定資格の伝統工芸士に認定され、2019年に石川県伝統産業功労賞を受賞している。

山本浩二さんは1988年石川県加賀市白鳥町生まれ、2009年に京都府立陶工高等技術専門校(京都陶芸大学校)成形科を卒業、2010年に宮吉製陶所の北川道雄さんに師事し、型打ち技法を学び、2011年に九谷焼窯元の加賀陶苑に入社、2013年に第36回伝統九谷焼工芸展で初入選(2016年に奨励賞)、2017年に石川県伝統産業技術で奨励賞、2022年に経産大臣認定資格の伝統工芸士に認定されている。

山本秀平さんは1989年石川県加賀市白鳥町生まれ、2010年に京都府立陶工高等技術専門校(京都陶芸大学校)図案科を卒業、同年に九谷焼窯元の加賀陶苑に入社、父親の山本芳岳さんに師事、2013年に第36回伝統九谷焼工芸展で新人賞(2014年に入選、2015年に保存会技術賞)、2018年に石川県伝統産業技術で奨励賞、2022年に経産大臣認定資格の伝統工芸士に認定されている。

24日と28日に作品を解説する。24日10時から東京国立博物館の特任研究員で、今回の監修者の今井敦さんが解説する。15時から九谷焼作家の山本芳岳さんが作品について語る。

28日11時から九谷焼作家の福島武山さんが作品について語る。

福島武山さんは1944年石川県生まれ、1963年に石川県立工業高校デザイン科を卒業、1981年に日本伝統工芸展で初入選、1982年に全国伝統的工芸品展で奨励賞、1986年に創造美術展で北華賞(1995年に東京都知事賞)、1987年に日本工芸会正会員、1989年に九谷焼産業デザインコンクールで名古屋通商産業局長賞(1990年に石川県知事賞)、1997年に日本工芸の世界巡回展(5カ年)に国際交流基金より選ばれ、1999年に第23回全国伝統的工芸品公募展で第1席グランプリ内閣総理大臣賞(2000年に伝統工芸士会会長賞)を受賞した。

2002年に第25回伝統九谷焼工芸展で大賞、石川県立美術館買い上げ(2004年に優秀賞、石川県立美術館買い上げ)、2003年に第17回日本陶芸展で入選、2004年に石川県指定無形文化財保持団体九谷焼技術保存会会員、2007年に石川の伝統工芸展で優秀賞、2008年に九谷焼伝統工芸士会会長、2012年に第65回記念創造展で創造美術大賞などを受賞、2015年にエルメス社時計文字盤(駒くらべ)を制作し、スイス・バーゼルで発表し、北陸新幹線の開通に合わせて金沢駅に陶板「恵み」を制作し、2016年に第1回ゴールデン匠賞、石川県文化功労賞も受賞、2021年に瑞宝単光章を受章した。

24日11時と14時に1階入り口付近で山代大田楽(やましろだいでんがく)が演舞を披露する。

山代大田楽は平安時代から室町時代にかけて日本全国で熱狂的に流行した芸能「田楽」が次第に姿を消したが、狂言師の野村耕介(8世野村万蔵、1959-2004)が、学術研究者、音楽家、舞踊家と共に「田楽」を今日的に再生し創り上げた祝祭が「大田楽」という。

24日から27日まで1階入り口付近で石川県加賀市観光物産展を開く。

開場時間は9時(24日は10時)から21時(最終日は16時)まで。