シャンテ「トノバン」初日に松山猛、小原礼、尾崎亜美ら挨拶

【銀座新聞ニュース=2024年5月24日】映画配給会社のナカチカピクチャーズ(中央区日本橋堀留町2-9-2、03-3663-3734)は5月31日にTOHOシネマズシャンテ(千代田区有楽町1-2-2、050-6868-500)で「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」の公開を記念して、出演者らによる舞台あいさつを開く。

5月31日から一般公開される「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」((C)「トノバン」製作委員会)。

31日18時30分の回上映前に、監督の相原裕美(ひろみ)さんをはじめ、松山猛さん、小原礼さん、高野寛さん、石川紅奈(くれな)さん、尾崎亜美さん、高田漣さん、MCとしてニッポン放送パーソナリティの上柳(うえやなぎ)昌彦さんが舞台に登場してあいさつをする。

「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」はまだネットもSNSもなかった時代に若者世代が支えていた深夜ラジオから、日本全国へ人気が広まった「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーだった加藤和彦(1947-2009)の軌跡を追うドキュメンタリー映画だ。

公式サイトによると、イングランド出身のロックバンド「ピンク・フロイド(Pink Floyd)」やイングランドのロックバンド「ロキシー・ミュージック (Roxy Music)」を手掛けた新進気鋭のイングランドの音楽プロデューサー、クリス・トーマス(Chris Thomas、1947年生まれ)さんが自らプロデュースしたいと名乗り出て(実際に1974年の2枚目アルバム「黒船」をプロデュース)日本よりも先にイギリスで評価された「サディスティック・ミカ・バンド」(1972年から1975年まで活動、1975年に加藤和彦が妻でボーカルの福井ミカと離婚して活動休止)のリーダーが加藤和彦だった。

作曲家、プロデューサー、アレンジャーの幾つもの顔を持ち、手掛けたアーティスト、楽曲は数えきれない。いつの時代も必ず一歩先にいた音楽家、それ故に後年悩みも深かった加藤和彦について、高橋幸宏(1952-2023)の加藤和彦に対する想いがきっかけとなり、監督の相原裕美さんの呼びかけで映画の企画がスタートした。

本作では、加藤和彦の曲を愛する若い世代のアーティスト達が「Team Tonoban(加藤和彦トリビュートバンド)」を結成、「あの素晴しい愛をもう一度」を新たにレコーディング、その模様も描かれており、歌い継がれていくこと、語り継がれていくことの大事さをスクリーンに映し出している。

ウイキペディアによると、加藤和彦は1947年京都市伏見区生まれ、生後すぐに神奈川県に移り、小学校4年まで鎌倉と逗子市で過ごし、その後、京都に戻るも1年で東京に転居し、高校卒業まで日本橋で育つ。1965年に東京都立竹台高等学校を卒業後、仏師だった祖父の後を継ぐ気持ち半分で、京都市伏見区の実家に近い龍谷大学に入学、このころからアマチュア・フォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の活動を始める。

1967年に「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散記念として、自費でアルバム「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセダーズ」を制作、その中の「帰って来たヨッパライ」に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれ、龍谷大学経済学部を中退し、東芝音楽工業と契約し、1年限定でプロの世界に入る。

1968年に2枚目のシングルとして予定していた「イムジン河」が発売中止となり、同年7月1日に「水虫の唄」(作詞・作曲:山田進一さん、補作詞:足柄金太(きたやまおさむさん)、補作曲:河田藤作(加藤和彦))をアルバム「紀元貮阡年」の先行シングルとして発売した。曲に合わせていろいろな名前を使い分け、このシングルは「ザ・ズートルビー」という名前で発表し、1968年10月17日に「ザ・フォーク・クルセダーズ」が解散した。

1969年にシングル「僕のおもちゃ箱」を発表し、ソロ活動を開始、アメリカのポップ・ミュージック・グループ「キングストン・トリオ」(The Kingston Trio)のメンバーであるジョン・ステュワート(John Coburn Stewart、1939-2008)に因んだ「ジョン」というペンネームを用いて自身のファンクラブ「クラブ・ジョン」を設立し、楽譜の出版なども行う。

シンガーとしては「トノバン」の愛称に示されるようなスコットランド出身の歌手、ドノヴァン(Donovan Philips Leitch、1946年生まれ)さんの影響下にある歌唱法を確立し、この時期は頻繁にロンドンを訪れ、衣類カバンメーカーの「ポータークラシック」の創業者、吉田克幸さん(1947年生まれ)と知り合う。1970年7月に福井ミカさん(1949年生まれ)と結婚し(1975年に離婚)、1971年4月に北山修さんとの連名によるシングル「あの素晴しい愛をもう一度」を発表した。

1971年11月に福井ミカさんをボーカルにした「サディスティック・ミカ・バンド」を結成し、1973年には、英国滞在時に購入したPA(電気的な音響拡声装置の総称)機器WEMを用いて、日本初のPA会社「ギンガム」を設立、同年、ナショナル住宅建材(現パナソニック ホームズ)のCMに使われた「家をつくるなら」をソロ名義でシングル発売した。1974年にクリス・トーマスさんのプロデュースによるセカンド・アルバム「黒船」を発表、10月2日から23日まで「ロキシー・ミュージック」のオープニング・アクトとしてイギリス・ツアーを行う。1975年にミカと離婚し、サディスティック・ミカ・バンドは解散した。

1976年にシングル「シンガプーラ」を発表し、ソロ活動を再開、1977年には同シングルの作詞を手がけた安井かずみ(1939-1994)と再婚し、以後、安井かずみとのコンビで多くの作品を発表した。1983年にソロ・アルバム「あの頃、マリー・ローランサン」を発表、同年、村上龍さん(1952年生まれ)原作の映画「だいじょうぶマイ・フレンド」の音楽監督を務め、以後多くの映画音楽を手がけ、1980年代後半からは舞台音楽も手がけた。

「スーパー歌舞伎」を加藤和彦と共同で制作した3代目市川猿之助(2代目市川猿翁、1939-2023)は「歌舞伎史上初めて洋楽オーケストラを歌舞伎に取り入れた」と語り、1984年公開のアニメ映画「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」の劇中歌「愛・おぼえていますか」で第2回日本アニメ大賞主題歌賞を受賞した。

1985年6月15日に国際青年年 (IYY) 記念イベント「ALL TOGETHER NOW(オール・トゥギャザー・ナウ)」に「サディスティック・ユーミン・バンド」(ボーカルは松任谷由実=1954年生まれ=さん)として出演し、1987年にソロ・アルバム「マルタの鷹」を発表、1989年に「サディスティック・ミカ・バンド」を再結成、ボーカルとして桐島かれんさん(1964年生まれ)を迎え、アルバム「天晴」を発表した。

1991年2月に安井かずみとの最後の共作となったソロ・アルバム「ボレロ・カリフォルニア」を発表、同年8月には画家の金子國義(1936-2015)、CGアーティストの庄野晴彦さん(1960年生まれ)と共同で日本初のマルチメディアソフト「Alice(アリス)」を制作し、1994年に妻の安井かずみが死去した。

1995年にソプラノ歌手の中丸三千繪さん(1960年生まれ)と3度目の結婚(2000年に離婚)、1996年9月からNHK趣味百科「アコースティック・ギター入門」に講師として出演、10月にはフジテレビ系「ポンキッキーズ」挿入歌として、西田ひかるさん(1972年生まれ)とのデュエット曲「メロディー」を発表した。

2002年に「ザ・フォーク・クルセイダーズ」を新結成し、同時に催された「新結成解散コンサート」は市川猿之助と共に歌舞伎の口上で幕を開けた。2005年に「PlayStation2」用ゲームソフト「天外魔境3 NAMIDA(ナミダ)」の音楽を担当した。2006年に「サディスティック・ミカ・バンド」を再々結成、ボーカルに木村カエラさん(1984年生まれ)を迎え、アルバム「NARKISSOS(ナルキッソス)」を発表し、2007年に坂崎幸之助さん(1954年生まれ)とのユニット「和幸(かずこう)」を結成した。

2008年3月に加藤和彦を中心として小原礼さん(1951年生まれ、妻は尾崎亜美さん)、屋敷豪太さん(1962年生まれ)、土屋昌巳さん(1952年生まれ)が集まり、ANZA(アンザ、1976年生まれ)さんをボーカルに起用し、「VITAMIN-Q featuring ANZA(ビタミンQフィチャリング・アンザ)」を結成し、12月に「VITAMIN-Q(ビタミンQ)」を発表した。

2009年10月に東京国際フォーラムでの松任谷由実さんのコンサートにゲスト出演し、「黄色いロールスロイス」にギターとボーカルで参加し、これが公の場に姿を見せた最後の機会となった。同年10月17日に長野県北佐久郡軽井沢町のホテルで遺体となって発見され、死因は首吊りによる自殺と見られている。享年62。

1993年に日本基督教団鳥居坂教会で、安井かずみと揃ってキリスト教の洗礼を受けたが、2009年の葬儀では生前の本人の遺志から無宗教方式で、喪主も葬儀委員長も立てずに密葬で行われた。

チケットは25日0時から劇場のWEBサイトで、25日劇場オープン時から窓口で販売する。料金は一般2000円、大学生1500円、高校生以下3歳以上、障がい者1000円、60歳以上1300円。