NUKAGAで芥川紗織「生誕100年」展、胸に炎を抱いて描く

【銀座新聞ニュース=2024年5月24日】NUKAGA GALLERY (中央区銀座2-3-2、エイコー銀座ビル、03-5524-5544)は7月3日まで芥川紗織による「烈しいもの。燃えるもの。強烈なもの。」を開いている。

NUKAGA GALLERYで7月3日まで開かれている芥川紗織の「烈しいもの。燃えるもの。強烈なもの。」に出品されている作品。

1966年に妊娠中毒症のため病死した前衛の画家で今年生誕100年を迎えた芥川紗織(旧姓・山田、その後間所、1924-1966)は1950年代初頭から前衛作家として注目され、約15年の短い画業の中で独自の表現を求めてエネルギーを燃やし続けた芥川によって生み出された代表作からドローイングなどの作品を展示する。

芥川紗織は1954年4月の日記で「技法より技法をつきやぶってあふれるものが大切。なにしろ個性を画面にのたうちまわらせる様にしようと思う。完成されたものを求める必要は少しもありはしない。烈しいもの。燃えるもの。強烈なもの」と書いている。

1953年11月の日記で「芸術とは何なのかしら、何のために私は絵を描たりするのかしら、時々こんな気持ちが私を覆う様になった。でもそれでいいのだと思う。私はとても幸福ですから、私は胸の中に炎を抱いて居ります。常に何かを燃やし続けなくては私自身が冷たい灰になってしまう様です」と、絵画への道を進む自らの決意を書いている。

芥川紗織は当初は「女」をテーマに作品を描いたが、やがて「民話」や「神話」に題材を求め、原初的イメージ溢れる染色画を発表するようになった。それは独創的な大作「古事記より」(1957年制作、世田谷美術館蔵)へと行き着く。1950年代末から1960年代初頭にアメリカで絵を学ぶと、抽象絵画を発表し始める。

芥川紗織は1965年5月15日の日記で「寒くも熱くもなく、まぶしいばかりの新緑の候、絵の勉強がどんどんはかどっている。私の喜び、私の理想の生活、私は長い長い間こんな生活を夢見あこがれつづけていたのだ。やっと鉛筆のラインがのびのびと描けるようになって来た」と絵を描く喜びをつづっている。しかし、1966年1月31日、妊娠中毒症にて41歳の若さで急逝してしまう。

ウイキペディアなどによると、芥川紗織は1924(大正13)年愛知県渥美郡高師村(現・豊橋市)生まれ、1947年に東京音楽学校(現東京藝術大学)本科声楽部に入学、在学中に作曲家で大学の同級生、小説家の芥川龍之介(1892-1927)の3男、芥川也寸志(1925-1989)と結婚(1957年に離婚)、芥川也寸志に「家の中で二人の音楽家は難しい」と言われ、声楽の道をあきらめ、女学校時代に描いていた絵画を再びはじめ、猪熊弦一郎(1902-1993)の研究所に通って油絵を、ろうけつ染めを野口道方について学ぶ。

1953年に赤穴桂子(1924-1998)のすすめで、第17回新制作協会展に出品するも入選せず、1954年に第4回モダンアート協会展に出品、新人賞を受賞、夫とともに中国、ソ連、東欧を数カ月旅行し、このソ連訪問がきっかけとなって民話をテーマに作品を手がけるようになる。

1955年に岡本太郎(1911-1996)の勧めにより、「二科会」に移り、第40回二科会岡本太郎室(第9室)に染色の作品を出品して特待賞、1958年にアメリカのロサンゼルス・アートセンタースクールにてグラフィックデザインを学び、ロス・カウンティミュージアム公募展で入選、1960年にニューヨークのアートステューデントリーグのウィル・バーネット(Will Barnet、1911-2012)教室にて油彩を学ぶ(1962年まで)。1963年に建築家・間所幸雄と結婚、1965年に第19回女流画家協会展に出品、1966年に妊娠中毒症のため死亡した。

開場時間は10時から18時、土日祝日は休み。