松屋でデヴィ夫人展、80年の人生とファッション、コレクションなど

【銀座新聞ニュース=2020年3月10日】国内百貨店業界15位の松屋銀座店(中央区銀座3-6-1、03-3567-1211)は3月10日から18日まで8階イベントスクエアで「傘寿記念 デヴィ・スカルノ展 わたくしが歩んだ80年」を開いている。

松屋銀座店で3月18日まで開かれている「傘寿記念 デヴィ・スカルノ展 わたくしが歩んだ80年」に展示されている自宅のサロンでくつろぐデヴィ・スカルノさん(2019年、撮影:SHITOMICHI(vale.))

2020年は「デヴィ夫人」と呼ばれるデヴィ・スカルノ(Dewi Sukarno、インドネシア国籍)さんが2月6日に80歳を迎え、これを記念して、デヴィ・スカルノさんの80年に焦点をあてた初の大規模な展覧会を開いている。自宅に保有する数多くのオブジェや絵画(デヴィ・コレクション)、華やかなファッションの数々、自身が描いた絵画約20点などを展示している。また、数々のデヴィ語録を通して、デヴィ・スカルノさんの魅力も紹介する。

展示内容としては、「幼少期からスカルノ大統領との出会い」では、デヴィさんがインドネシア大統領スカルノとわずか19歳で出会い、22歳で一国を統治する大統領夫人となった。ここでは大統領との出会いから劇的な別れまでを当時の写真や映像で振り返る。娘のカリナ(Kartika Sari Dewi Soekarno)さんが日本で生まれた際に送られた大統領からの電報などを公開し、インドネシアへ1人で旅出つこととなった、その背景を紐解いている。

また、デヴィ・ファッションとして、デヴィさんが社交界で着用したドレスを中心に、ファッションへのこだわりに迫り、ティアラや指輪、ネックレスなど約15点展示している。実際にデヴィさんが身に着けていた頃の写真も披露している。

同じく展示されている若かりし日のデヴィ・スカルノさんとスカルノ大統領(大統領官邸・ムルデカ宮殿)。

さらに、「デヴィ・スカルノコレクション」の一部を公開している。デヴィさんの邸宅には、本人の感性の赴くままに選ばれた独特で個性的なコレクションがあり、会場に怪しい雰囲気をかもし出すような演出を施し、見る人を不思議な世界へと誘うとしている。また、デヴィさんの邸宅のサロンの一部を再現している。

ウイキペディアなどによると、デヴィ・スカルノさんは1940年2月6日東京府東京市麻布区霞町(現港区西麻布)生まれ、大東亜戦争中は、母の政子(まさこ)、弟の八会男(やそお)の3人で、母親の故郷の福島県浪江に疎開、1955年に新東宝制作の映画「青ヶ島の子供たち 女教師の記録」にエキストラ出演、東京都立三田高校定時制部に進学、同時に千代田生命保険(現ジブラルタ生命保険)に入社するも、喫茶店などでのアルバイトを掛け持ちした。

1956年に父で大工の棟梁、根本兵七郎(ねもと・へいしちろう)が亡くなり、高校を中退、赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」で働く。1959年にインドネシアへの開発援助に伴い「東日貿易の秘書」という名目で、インドネシア大統領のスカルノ(Sukarno、1901-1970)のもとに送り込まれる。1949年12月の独立後まもない上に、東西冷戦下にあったインドネシアにおいて、スカルノ大統領は日本外交や資金援助の取り付けなどを重要視していた。

デヴィ・スカルノさんはインドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人になった。しかし、同時期にマスコミの執拗な取材により体調を崩していた母の政子が亡くなり、その2日後、セールスマンに全財産を騙し取られ、母の死に目に会えなかった弟の八曽男が、自宅アパートでガス自殺した。それを伝え聞いたデヴィ・スカルノさんは「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白し、後にジャカルタの宮殿の一つに実弟の名をつけ「ヤソオ宮殿」とした。この宮殿はのちに接収され、軍事博物館になっている。

1965年9月30日に起きた軍事クーデターによりスカルノが失脚、代わってスハルト(Soeharto、1921-2008)が第2代大統領となった。スカルノは軟禁状態におかれ、デヴィさんはインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際的立場上の理由で断念し、スカルノの第2夫人を除く夫人は皆、大統領のもとを離れ逃げた。

1967年に人道的配慮から日本への帰国が認められ、3月11日に都内病院にて娘のカリナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Kartika Sari Dewi Soekarno)さんを出産、スカルノの8番目の子どもだった。その後、インドネシアへの帰国を要望するも、許可されず、1970年にデヴィさんはフランスに亡命、社交界にデビューし、「東洋の真珠」といわれた。スカルノ存命中にも関わらず数回の婚約発表が取りざたされたが、結局再婚はしていない。

1970年のスカルノ死去時にスカルノ家とインドネシア政府から財産の相続の権利や子どものスカルノ一族としての地位などを喪失し、第3夫人としての資産は与えられなかったとされているが、その後、インドネシア政府の方針により、第3夫人としての遺産分与が行われた。1980年にインドネシアへ戻り、石油関連事業を興したが、1991年にアメリカ・ニューヨークに移住、国連環境計画の特別顧問として活動し、その後、インドネシア政変や第1夫人、第2夫人を中心とした政治の動乱に巻き込まれることもなく、日本に帰国し、現在に至っている。

1992年1月2日にアメリカのスキー・リゾート地、コロラド州アスペンで、第4代フィリピン大統領のセルヒオ・オスメニャ(Sergio Osmena、1878-1961)の孫娘、ミニー・オスメニャ(Minnie Osmena)さんの顔をシャンパングラスで殴打し、傷害罪で逮捕され、禁固60日(罰金700ドル)の実刑判決により34日間収監された。動機は、数カ月前スペインのイビサ島でのパーティで、ミニーさんが「フィリピン副大統領になる意志がある」と発表し、デヴィさんが吹き出し、2人の関係が悪化したのが原因とされている。その後は日本でタレントとして活躍、タレント的活動は1970年代より行っている。

開場時間は10時から20時(ただし、12日までは11時から19時)。入場料は一般1200円、高校生700円、中学生500円、小学生300円。