「究極の葛藤」を描き、監督の力量を見せた「スナイパー」(156)

【ケイシーの映画冗報=2015年3月12日】鑑賞する前から評価の高かった作品なので、大いに期待していたのですが、冒頭から、漆黒のスクリーンにスピーカーから流れる「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」の声が響き、一気に本作「アメリカン・スナイパー」に引きこまれました。

明るくなったそこは2003年のイラク、市街戦を戦うアメリカ軍の狙撃手(スナイパー)であるクリス・カイル(Chris Kyle、1974-2013、演じるのはブラッドリー・クーパー=Bradley Cooper)へと視点が流れていきます。クリスがライフルのスコープに捉えられたのは、イラク人の女性と子どもらしき少年。ふたりは手製爆弾を手にアメリカ軍戦車へと向かっていきます。

逡巡するクリスに無線で指示が出されます。
「お前の判断で撃て」

ここから映画はクリスの人生を遡ります。テキサス州生まれのクリスは、テキサス人の典型として射撃と乗馬に親しみながら成長し、厳格な父に「守るもの」として育てられ、アメリカ海軍に入隊します。やがて海軍でも精鋭の集まるネイビー・シールズの一員となり、伴侶となる女性、タヤ(Taya、1974年生まれ、演じるのはシエナ・ミラー=Sienna Miller)と結婚しますが、新妻を残してカイルはイラクの戦場へと赴くことに。

ここで、冒頭の狙撃シーンへともどり、銃声。公認記録としてアメリカ軍最多の160名の狙撃を成功させたクリスの最初の射撃目標が自軍を攻撃しようとしたとはいえ、女性と子でもでした。最初の戦闘でこのような葛藤を主人公クリスに与えた監督のクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)は、こう述べています。

「あの場面は究極の選択だ。カイルは仲間の兵士たちを守らねばならない。それが仕事だ。だから、7、8歳の子どもを撃つしかない。カイルによると、実際に撃ったらしい。だが、理解されないと思って原作本には書かなかった。でも、私は映画に入れた」(「映画秘宝」2015年4月号)

監督の狙い通り、この作品が単に「戦争映画」としてくくれないのは、この「葛藤」について正面から見つめていることではないでしょうか。イラクの戦場で戦い続けるカイルは友軍から「伝説(The Lengend)」 と讃えられる一方、敵側からは「ラマディの悪魔(The Devil of Ramadi)としておそれられ、懸賞金までかけられたといいいます。

また、愛妻と家族のもとでの安寧を求める反面、2003年から2008年までに、じつに4度もイラクの戦場に行き、狙撃だけではなく、時には敵方の重要人物を捜索する任務にも率先して参加していました。

いったい、なにがクリスをここまで戦場にかきたてたのでしょうか?ある作家が、「およそ男と生れた以上、戦争とか革命以上に体がひきしまるほどの興奮を味わう最大のスポーツはなかろう」と記していました。

たしかに、生きるか死ぬかという極限の中で、生きていることを実感するというのは想像ではありますが、充実感があるのは確かでしょう。その反面、銃弾が飛び交う戦場で「家へ帰る」と感極まって妻に語りかけるカイルも存在します。

ところが、妻や子どもたちと過ごしていても、視線は宙を泳ぎ、安全な日常のはずなのに、戦場であるかのように緊張することもしばしばで、陽気なカウボーイ然としていた前半とは打って変わり、戦地からもどるたびに、クリスの存在感は薄れていっていきます。まるで心の一部か欠落したかのように。

ついにクリスは除隊しますが、もうすでに、心の平穏を感じることはできなくなっていたのです。ブラッドリー・クーパーは戦場を離れたクリスについてこう言っています。

「戦意やスキルがあっても、戦場にいない以上、役に立つには他の道を見つけなければならない。つまり帰還兵のサポートだ」(パンフレットより)

クリス本人による自伝(共著)では、このあたりで終わっているのですが、映画にはそのあとのことも描かれています。帰還兵へのセラピーとして、射撃を教えていたクリスが突然、人生を終えてしまう結末。

アメリカでは「戦争の英雄か、被害者か」、「戦意高陽か、反戦映画なのか」といった議論がなされているようですが、一本の映画として、重厚な作品であることは間違いありません。

思想信条や政治的なものより、「究極の葛藤」を描くことを指向したイーストウッド監督の力量を堪能する作品だと強く感じました。次回は「イミテーション・ゲーム」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明は著者と関係ありません)。