【銀座新聞ニュース=2018年7月30日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は8月1日から7日まで3階ギャラリーで「有田白磁・受け継がれる技と美 井上万二一門展」を開く。
陶芸家で、「白磁」の重要無形文化財保持者(人間国宝)、有田陶芸協会顧問の井上万二(いのうえ・まんじ)さんとその指導を受けた作家たちの一門展を開く。
磁器発祥の地である有田は、2016年に創業400年を迎え、有田焼にとって新たな幕開けとなり、井上万二さんは今日まで、先人たちが築き上げた技、感覚、伝統の真の意味を踏まえて、創造性を忘れずに原点を見直しながら作陶に励んでいる。
今回、出展するのは、井上万二さんのほか、息子で1958年佐賀県有田町生まれ、1981年に成蹊大学工学部経営工学科卒業、同年に父親に師事して陶芸の道に入り、1988年に西部工芸展朝日新聞社金賞などを受賞した井上康徳(うのうえ・やすのり)さん、孫で1988年佐賀県有田町生まれ、2011年に玉川大学芸術学部ビジュアルアーツ学科卒業、2012年4月より祖父に師事、陶芸の道に入り、2012年に佐賀県美術展で入選、2013年に陶美会展などで入選している井上祐希(いのうえ・ゆうき)さん。
1949年佐賀県有田町生まれ、1968年に有田工業高校窯業科卒業、1969年より井上万二さんに師事、1971年に西部伝統工芸展で入選、1977年に日本陶芸展で入選、1980年に日本伝統工芸展で文部大臣賞、1988年に西日本陶芸美術展で内閣総理大臣賞などを受賞している庄村健(しょうむら・けん)さん、
1950年佐賀県有田町生まれ、1968年に有田工業高校窯業科卒業、1971年より佐賀県窯業試験場で井上万二さんに師事、1987年に西日本陶芸美術展で文部大臣賞、2008年に九州山口陶磁展第1位文部科学大臣賞などを受賞している中尾恭純(なかお・やすずみ)さん、中尾恭純さんの息子で、1977年佐賀県有田町生まれ、1999年に佐賀県立有田窯業大学校卒業、井上万二さんに師事、2015年に九州山口陶磁展産業陶磁器部門で佐賀新聞社賞、西部伝統工芸展で朝日新聞社大賞、2016年に佐賀県美術展覧会で佐賀県議会議長賞などを受賞している中尾純(なかお・じゅん)さん。
1954年佐賀県生まれ、1974年から1976年に佐賀県立窯業試験場ろくろ本科研修生、1976年に井上万二さんに師事し、1983年に独立して東京都小平市に築窯、1989年に神奈川県藤野町に移り、磁器工房「静風舎(せいふうしゃ)」(相模原市藤野町名倉2760-3、0426-87-5235)を設立している副島泰嗣(そえじま・やすつぐ)さん、その妻で1955年東京都生まれ、1973年に田中一晃(たなか・いっこう、1933-2002)に師事し、1975年から1979年に窯業試験場ろくろ本科研修生、1979年に有田市で「潯陽窯」で制作し、1983年に副島泰嗣さんとともに独立した副島微美子(そえじま・みみこ)さん。
ウイキペディアによると、有田焼は佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器で、その積み出しが伊万里港だったことにより、「伊万里(いまり)」や伊万里焼とも呼ばれる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。
また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり、藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。1977年10月14日に経済産業大臣指定伝統工芸品に指定されている。
肥前磁器の焼造は17世紀初期の1610年代から始まった。豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし、1537-1598)の朝鮮出兵の際、有田を含む肥前の領主であった鍋島直茂(なべしま・なおしげ、1538-1618)に同行してきた陶工たちの1人、李参平(り・さんぺい、?-1655)が1616(元和2)年(1604年説あり)に有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き、日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖とされいる。
李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている。有田町では李参平を「陶祖」として尊重し、祭神とする陶山神社(すえやまじんじゃ)もある。
ただし、近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い1610年代前半から西部の天神森窯、小溝窯などで磁器製造が始まっていたことが明かになっている。この頃の有田では、当時の日本に輸入されていた、中国・景徳鎮市の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(初期伊万里)を作っていた。
「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に藍色1色で図柄を表した磁器で、磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須」(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、その後釉薬(ゆうやく)を掛けて焼造する。当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから焼成技術は朝鮮系のものとされる。
一方で17世紀の朝鮮では主に白磁が製造され、染付や色絵の技法は発達していなかったため、図柄は中国製品に学んだと考えられ、絵具の呉須も中国人から入手したものとされている。
1637(寛永14)年に鍋島藩は、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を実施し、多くの陶工を廃業させて、窯場を有田の13カ所に限定し、有田皿山が形成された。この頃までの有田焼を美術史・陶芸史ではしばしば初期伊万里と称する。1640年代には中国人陶工によって技術革新が行われ、1次焼成の後に上絵付けを行う色絵磁器が生産されるようになった。
伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品群は、かつては加賀国(石川県)九谷の産とされていたが、20世紀後半以降の窯跡の調査により、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占めることが分かっている。
1660年代から生産が始まったいわゆる「柿右衛門様式」の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものをいう。この種の磁器は初代酒井田柿右衛門(1596-1666)が発明したとされているが、今ではこの種の磁器は柿右衛門個人の作品ではなく、有田の窯場で総力をあげて生産されたと分かっており、様式の差は窯の違いではなく、製造時期および顧客層の違いであることが分かっている(日本国内向けの古九谷様式に対し、柿右衛門様式は輸出に主眼が置かれていた)。
当初、日本唯一の磁器生産地であった有田の窯には、鍋島藩が「皿役所」を設置し、職人の保護、育成にあたった。生産された磁器は藩が専売制によりすべて買い取り、職人の生活は保障されていたが、技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に外界から隔離され、職人は一生外部に出ることはなく、外部から人が入ることも極めて希であった。
しかし、磁器生産は全国窯業地の憧れであり、1806年に瀬戸の陶工加藤民吉(かとう・たみきち、1772-1824)が潜入に成功し、技術が漏洩した。以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われ、江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まった。江戸時代の有田焼を一般的に「古伊万里」と称する。
近世初期以来、有田、三川内(長崎県)、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里」と呼ばれていた。また英語での呼称も「Imari」が一般的である。1638(寛永15)年の「毛吹草」(松江重頼=まつえ・しげより、1602-1680=編著)には「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられている。
明治以降、輸送手段が船から鉄道等の陸上交通へ移るにつれ、有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と区別するようになった。有田を含む肥前磁器全般を指す名称としては「伊万里焼」が使用されている。
井上万二さんは1929年佐賀県西松浦郡有田町生まれ、1944年に15歳で海軍飛行予科練習生、1945年に復員し、父親の勧めで13代目酒井田柿右衛門 (さかいだ・かきえもん、1906-1982)の元で働き、1952年頃に奥川忠右衛門(おくがわ・ちゅうえもん、1901-1975)の門下生となり、白磁や轆轤(ろくろ)の技法を学び、1958年に酒井田柿右衛門窯を退社し、県立有田窯業試験場の技官として勤め、その傍ら、独自の意匠や釉薬(ゆうやく)の研究に励んだ。
1968年に第15回日本伝統工芸展で初入選(1987年に文部大臣賞)、1969年にアメリカ・ペンシルベニア州立大学から有田焼の講師として招かれ、アメリカにわたり5カ月間担当した。1977年に全国伝統的工芸品展で通産大臣賞、1995年5月に重要無形文化財「白磁」保持者に認定され、1997年に紫綬褒章を受章した。
現在、有田町で井上康徳さん、井上祐希さんと共に井上万二窯と平屋建てのギャラリーを構え、華やかな絵付けが中心の有田焼の中で、白磁に徹するという独特の制作を続けている。教え子は既に500人、アメリカでも150人を超えている。
開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。入場は無料。
編集注:「井上万二」の「万」は正しくは旧漢字です。原則として名詞は現代漢字(常用漢字)を使用しております。