TAUで福山物産展、本物そっくりスイーツや水産加工品等

【銀座新聞ニュース=2019年2月27日】広島県(広島県広島市中区基町10-52、082-228-2111)は3月2日と3日の2日間、アンテナショップ「TAU」(中央区銀座1-6-10、銀座上一ビルディング、03-5579-9952)1階特設コーナーで「福山観光物産フェア」を開く。

3月2日と3日の2日間、TAUで開かれる「福山観光物産フェア」で販売される「たこ焼きに見えるシュークリーム」。

広島県福山市にある「鞆(とも)の浦」が2017年11月に「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として、8.6ヘクタールの区域が重要伝統的建造物群保存地区に選ばれ、2018年5月には「瀬戸の夕凪(ゆうなぎ)が包む 国内随一の近世港町-セピア色の港町に日常が溶け込む鞆の浦」として文化庁の「日本遺産」に認定された。

こうした文化遺産をもつ福山市が菓子(むぎっこ栗っ子、本物そっくりスイーツシリーズなど)、瀬戸内海の焼えび、あみえび、いりこなどを使った水産加工品、市の花「ばら」を使って染めたストールやフレグランス、雑貨などを2日間限定で販売する。

日本遺産に認定された「鞆の浦」。

福山市やウイキペディアによると、福山市は広島県の東端に位置する都市で、面積が518.14平方キロ、広島県内では広島市に次ぎ2番目となる約46万人の人口を擁している。隣接し地理的、歴史的にも関係の深い岡山県井笠地方を含む「備後(びんご)都市圏」の中心都市でもある。

古代では現在の福山市街の中心地はほぼ全域が干潟や海で、近年まで現在の神辺平野も海となっていて「穴の海」と呼ばれていた。しかし、これは遺跡の分布や地層の調査から現在では否定されている。古代における備後地方の中心地は備後国国府のあった現在の府中市一帯で、これに至る旧山陽道が中国地方の重要な幹線道となっていた。

その名残が市北部地区の駅家町の地名で文字通り山陽道の駅家(宿駅)であったことを示している。現在の福山市域に含まれる山陽道は神辺平野を横断するように通され、この周辺は備後でもっとも栄えた地域となっていた。

また、この地方はヤマト王権と吉備との勢力争いの最前線であったため古くからヤマト王権の重要拠点ともなっており、「二子塚古墳」のような大規模な前方後円墳などを持つ古墳が残されており、全国でも有数の古墳集積地となっている。

備後南部に港が多く点在し、津ノ郷、深津、吉津など港を意味する地名が今日も残されている。また、鞆の浦は万葉集に詠まれるように風待ち、潮待ちの港として古代より独自の地位を築いていた。

中世には長年の芦田川の堆積作用により現在の福山市街は次第に陸地へと姿を変え、本庄、木ノ庄といった荘園が形成され、現在の草戸町には草戸と呼ばれる港湾都市が栄えるようになった。平安時代には鞆に最澄(さいちょう、767-822)により静観寺、空海(くうかい、774-835)により医王寺が創建されるなどそれぞれの西日本の布教拠点となった。

南北朝時代には北朝と南朝の間の争いにより、静観寺五重塔などの文化財が失われ、戦国時代になると備後地方は毛利氏勢と尼子氏勢との拠点争いの地となり多くの城が築かれた。

安土桃山時代になると備後国はほぼ毛利氏の所領となり、関ヶ原の戦い以後は福島氏の所領となり、神辺と鞆に支城が置かれた。1619年、福島氏の改易により水野勝成(みずの・かつなり、1564-1651)が西日本の有力外様大名への幕府方の楔として備後国東南部・備中国西南部の10万石を与えられ、福山藩が成立する。

水野勝成は当時干潟であった臨海部の深津郡野上村に新たな城(福山城)と城下町を築き、この町を福山と名づけた。このため、今日に至る福山の歴史は1622年から始まったといえる。その後、藩主の死去により無嗣除封となり、一時的に天領(幕府直轄領)とされるが、1699年に松平忠雅(まつだいら・ただまさ、1683-1746)が転封するも、松平忠雅は1710年に伊勢国桑名藩に移封され、1710年に阿部正邦(あべ・まさくに、1658-1715)が福山に転封し、以後、阿部氏が明治維新まで続くことになった。

1871年に廃藩置県により備後国旧福山藩領と神石郡、甲奴郡の半分、備中国小田郡、後月郡の大半を持って「福山県」が設立し、県庁所在地は福山町に定められた。しかし、1871年に福山県は「深津県」へ変更、1872年に深津県と倉敷県が統合され「小田県」が設立、1875年には小田県が「岡山県」へ編入され、1876年に岡山県から旧備後国である沼隈、深津、安那、品治、芦田、神石の6郡が広島県に移管される(福山町は深津郡に含まれる)。

1891年に山陽鉄道笠岡と福山間が開業し、同年には福山と尾道までが開業すると福山町は工業都市へと姿を変えた。1898年に芦田・品治両郡、深津・安那両郡はそれぞれ統合され、「芦品郡」と「深安郡」が成立、1908年に陸軍第41連隊が福山町(深安郡)に設置されると町の経済は発展を遂げ、1913年に福山町が野上・三吉両村を編入し、同年に鞆軽便鉄道(福山と鞆間)が開業して、1914年には両備軽便鉄道が開業するなど交通機関も整備され、1916年に福山町が廃され、福山市が誕生した。

1916年に広島県で広島、尾道、呉に次ぐ市として誕生した。しかし、大正末期には陸軍41連隊の廃止計画が持ち上がり、41連隊の廃止は市の財政破綻にも繋がりかねなかったが、市の陳情により回避された。1945年の福山大空襲により市街地は壊滅的な打撃を受けた。それでも戦後の高度経済成長の波に乗り復興を遂げ、中でも日本鋼管福山製鉄所の誘致により企業城下町として急激に開発が進んで人口が増加していった。

昭和後期になると高度経済成長時代の終焉や鉄鋼不況などにより人口は約37万人程度で頭打ちとなったが、平成の大合併により市域は拡大し、ほぼ旧福山藩領であった地区になり、人口は約45万人に達している。上水道は市内ほぼ全域を福山市上下道局が供給し、下水道は普及率が65.5%で、市街地ではほとんどが公共下水道へ放流が可能になっている。

重要港湾の福山港は毎年20%以上の割合で輸出入量・額が伸びており、中四国地方では倉敷市の水島港に次ぐ規模となっている。2005年3月には福山国際コンテナ港もオープンした。また、瀬戸中央自動車道と西瀬戸自動車道という2つの四国への連絡橋の中間に位置し、中国横断自動車道尾道松江線の全通により、備後都市圏が中四国地方内の各主要都市への所要時間、輸送コストの面でもっとも優位で、企業の進出が増えている。

営業時間は10時30分から20時(3日は15時)。