第1次大戦の過酷な戦場をダイナミックに描いた「1917」(284)

【ケイシーの映画冗報=2020年3月5日】「さきの戦争」というと、日本では第2次世界大戦(1939年から1945年)をほとんどの人が思い浮かびますが、ヨーロッパでは、第1次世界大戦(1914年から1918年)を連想することがすくなくありません。第2次大戦が、「世界中で戦われた」のに対して、第1次の主戦場はヨーロッパであり、数十億発もの砲弾を敵味方で撃ち合い、100万人の軍隊がぶつかり合う、まさに激戦であったのです。

現在、一般公開中の「1917 命をかけた伝令」((C)2019 Universal Pictures and Storyteller Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.)。制作費が1億ドル(約100億円)、興行収入がこれまでに世界で1億3866万ドル(約138億6600万円)。

本作「1917 命をかけた伝令」(1917、2019年)で、1917年4月6日、フランス国内でドイツ軍と対峙している英国陸軍のブレイク上等兵(演じるのはディーン=チャールズ・チャップマン=Dean-Charles Chapman)は、一気に前進する味方部隊への停止命令を伝えることになります。

退却するとみせかけたドイツ軍が待ち構える場所への攻撃を止めるためで、このままだと1600名の味方に全滅の可能性があるというのです。その部隊には、ブレイクの兄も配属されていました。ブレイクはスコフィールド(愛称・スコー)上等兵(演じるのはジョージ・マッケイ=George MacKay)とともに、味方の陣地から最前線を進んでいきます。

銃砲弾で地面全体が掘り返された“無人地帯(ノーマンズ・ランド)”を抜け、ところどころに敵軍のいる地域を進んでいくふたり。戦場となった町で生活している人々や、敵と味方の兵士たちと遭遇しながら、重大な伝令の任務を達成できるのか。

第1次大戦を扱った映画は1930年のアメリカ、アカデミー賞で作品賞と監督賞を受けた「西部戦線異常なし」(All Quiet on the Western Front)が、広く知られています。ドイツ軍の一員だったエーリヒ・パウル・レマルク(Erich Paul Remark、1898-1970)の原作を映画化したもので、ドイツ軍(劇中では英語で話していますが)の最前線を描いた作品でありながら、アメリカのアカデミー賞を受けるという意味では、本年の作品賞と監督賞の受賞作「パラサイト 半地下の家族」(Parasite、2019年)にも通じているかもしれません。

監督・脚本(共同)のサム・メンデス(Sam Mendes)は英国で舞台演出家としてキャリアをスタートさせ、初監督作品であった「アメリカン・ビューティー」(American Beauty、1999年)で第72回アカデミー賞の作品賞、監督賞ほか、主要5部門で栄誉を受けています。

本作の「味方のために危険な任務につく兵士」という骨子は、メンデス監督の祖父が、英国陸軍の一員として戦ったときの経験談がもとになっているそうです。この戦争が従来の戦争と異なっていたのは、同盟をむすんだ国々が、戦争に総力を結集したということでした。

その10年前に戦われた大国同士の戦いであった日露戦争(1904年から1905年)では、両軍が機関銃を装備して撃ち合い、その威力を各国の軍人たちは知ったはずだったのですが、英国陸軍では、劇中で主人公たちの使う手動連発式のライフルが機関銃にも有効だとしていました。

毎分数百発を撃ちだす機関銃より、「手動連発ライフルの操作法を鍛えたわが軍の兵士の方が強力だ」と判断されていたのです。どうにも理屈が通らないのですが、“軍事の専門家”がそう考えていたのですから、戦場で機関銃に撃たれる兵士たちはたまったものではありません。

工業力が戦争に直結するようになっていて、戦場にエンジンで動く兵器が艦船しかなかった日露戦争から10年で、戦車や飛行機が威力を見せ、海戦にも潜水艦が登場するなど、科学技術と工業力の発達が、大きく、長い戦いを引き起こしてしまったのです。

その一方で、陸上での戦いは、塹壕(ざんごう)と鉄条網、大量の砲弾と機関銃により、数十メートルの前進のために、1日に万単位の死傷者が出る、濃密でおそろしい空間でした。

「狭い領域の中で起こる壮絶な旅をどう描くかを自問することとなった」(パンフレットより)と語るメンデス監督は、その映像表現のために、冒頭から最後までをつなぎ目のないワンシーン・ワンカットで表現するという、前例のない作品を構想しました。

その困難な撮影をまかされたのが、本作で2度目のアカデミー撮影賞(ノミネートは14度)を受けたロジャー・ディーキンス(Roger Deakins)で、かれによると、本作の撮影で一番の難事だったのがお天気だったそうです。

「空の色は同じで、雲の動きは続いてなきゃいけないから、撮影のタイミングは天候次第になる。照明も使えないからね」(「映画秘宝」2020年3月号)

“大量生産、大量消費”の基盤が生まれ、大国の支配をはなれた地域が独立国となるのは、第1次大戦の影響でもあるそうです。ほぼ1世紀前の時代ですが、100年しか経っていない、ともいえる時代、その過酷な戦場をダイナミックに描いた逸品といえると強く感じます。次回は「Fukushima(フクシマ)50 」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、「第1次世界大戦(World War I、略称:WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国対中央同盟国の戦闘により繰り広げられた世界大戦をさす。

7000万人以上の軍人(うちヨーロッパ人は6000万人、連合国側が4296万人、同盟国側が2525万人)が動員され、第2次産業革命(1865年から1900年までの間に、英国以外にドイツ、フランスあるいはアメリカの工業力が上がり、化学、電気、石油、鉄鋼の分野で技術革新が進み、消費財の大量生産が発展した)による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した(戦死者は連合国側が553万人、同盟国側が439万人、行方不明者がそれぞれ412万人、363万人)。

世界すべての経済大国を巻き込み、それらを連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、グレートブリテン及びアイルランド連合王国の3国協商に基づく)と中央同盟国(主にドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国)という2つの陣営に二分された。

イタリア王国はドイツとオーストリア=ハンガリーと三国同盟を締結していたが、オーストリア=ハンガリーが同盟の規定に違反して防衛ではなく侵略に出たため、イタリアは中央同盟国に加入しなかった。

諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、大日本帝国とアメリカは連合国側に、オスマン帝国とブルガリア王国は中央同盟国側について参戦した。参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、2018年時点の国家に当てはめると約50カ国に達した。

引き金となったのは1914年6月28日、ユーゴスラビア民族主義者の青年が、サラエボへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリーの帝位継承者フランツ・フェルディナント大公(Franz Ferdinand von Habsburg-Lothringen、1863-1914)を暗殺した事件(サラエボ事件)だった。

これにより、オーストリア=ハンガリーはセルビア王国に最後通牒を発するという七月危機が起こり、各国政府と君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、世界大戦へと発展した。7月24日から25日にはロシアが一部動員を行い、28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアは30日に総動員を命じた。

ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。東部戦線で人数的に不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部で第2の戦線を開くよう要請した。1870年の普仏戦争の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。

独仏国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに基づきベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかし、その結果ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日には英国がドイツに宣戦布告、英国と同盟を結んでいた日本も8月23日にドイツに宣戦布告した。

ドイツ陸軍のパリ進軍が1914年9月の第一次マルヌ会戦で食い止められると、この西部戦線は消耗戦の様相を呈し、1917年まで塹壕線がほとんど動かない状況となった。東部戦線ではロシアがオーストリア=ハンガリーに勝利したが、ドイツはタンネンベルクの戦いと第1次マズーリ湖攻勢でロシアによる東プロイセン侵攻を食い止めた。

1914年11月にオスマン帝国が中央同盟国に加入すると、カフカースと中東(メソポタミアやシナイ半島)の戦線が開かれ、1915年にはイタリアが連合国に、ブルガリアが中央同盟国に加入、ルーマニア王国とアメリカはそれぞれ1916年と1917年に連合国に加入した。

ロシアでは1917年3月に二月革命によって帝政が崩壊し、代わって成立したロシア臨時政府も十月革命で打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシアは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結して大戦から離脱した。1918年春にはドイツが西部戦線で春季攻勢を仕掛けたが、連合国軍は百日攻勢でドイツ軍を押し返した。1918年11月4日、オーストリア=ハンガリーはヴィラ・ジュスティ休戦協定を締結。ドイツも革命が起こったため休戦協定を締結し、戦争は連合国の勝利となった。

戦争終結前後にはドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などのいくつかの帝国が消滅し、国境線が引き直され、独立国として9つの国家が建国されるかあるいは復活した。また、ドイツ植民地帝国は戦勝国の間で分割された。

1919年のパリ講和会議においては「五大国」(英国、フランス、日本、アメリカ、イタリア)が会議を主導し、一連の講和条約を敗戦国に押し付け、敗戦国の領土を分割した。大戦後には、再び世界大戦が起こらないことを願って国際連盟が設立された。