リクルートが東日本支援で勝井三雄ら177人「アロハ」展、福島で縫製

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【銀座新聞ニュース=2012年11月28日】リクルート(千代田区丸の内 1-9-2、グラントウキョウサウスタワー、03-6835-1111)が運営する「ガーディアン・ガーデン」(中央区銀座7-3-5、リクルートギンザ7ビル地下1階、03-5568-8818)と「クリエイションギャラリーG8」(中央区銀座8-4-17、リクルートギンザ8ビル1階、03-3575-6918)で11月27日から12月21日まで「177人のクリエイターによる福島仕立てのアロハシャツ展」を開催している。

リクルート アロハシャツ

リクルートが12月21日まで開催している「177人のクリエイターによる福島仕立てのアロハシャツ展」に出品されている片岡紗貴子(かたおか・さきこ)さんの作品。

リクルートが1990年からはじめた毎年恒例のチャリティー企画展で、2009年から「クリエイション・プロジェクト(CREATION Project)」と題して、「デザインの力による豊かな生活」を提案している。

今回は2011年に続いて、東北復興支援チャリティープロジェクトで、宇野亜喜良(うの・あきら)さん、勝井三雄(かつい・みつお)さん、久保悟(くぼ・さとる)さん、佐藤卓(さとう・たく)さんら177人の作家がデザインし、福島の「リオ・ビアンコ」(福島県白河市大鳥居橋前29、0248-22-2911)で仕立てたアロハシャツを展示販売する。

2011年の「印染トートバッグ展」ではトートバッグ2506点が売れ、409万6200円の収益金が集まったとしている。

ウイキペディアによると、アロハシャツは19世紀末から20世紀初頭にかけてハワイで農業に従事していた日本移民がパラカ(ヨーロッパの船員たちが着ていた開襟シャツ)が日本の木綿かすりに似ていることから好んで愛用していたが、自らの着物を再利用する際にパラカに仕立てたのが起源とされている。

1930年代初頭にはアロハシャツとは「派手な和柄の開襟シャツ」を意味し、1935年にホノルルの服飾店「ムサシヤ・ショーテン」が「ホノルルアドバタイザー(Honolulu Advertiser)」に掲載した広告のなかに「アロハシャツ」という呼称が出てくる。

「ムサシヤ・ショーテン」は当初は「ムサシヤ」と店名で、1885年にハワイに移民した940人のひとり、宮本長太郎(もやもと・ちょうたろう、?-1915)が1904年に創業し、日本の反物を使ってシャツを仕立てていた。1915年に長太郎が他界すると、日本で暮らしていた長男の宮本孝一郎(もやもと・こういちろう)がハワイに帰国し、店名を「ムサシヤ・ショーテン」と改め、アロハシャツを仕立てた。

また、中国系商人のエラリー・J・チャンが1936年に「アロハスポーツウェア」、1937年に「アロハシャツ」の商標登録を申請し、20年間の独占利用を認められたという。アロハシャツは当初、絹が使われたが、1950年代まではレーヨンが主流となり、1960年代に入ってポリエステルに取って代わられている。

ほとんどの生地はアメリカ本土か日本から輸入され、とくに、日本では京都を中心とした染工所が安価で品質のよい生地を小ロットで大量に供給することができたことから、多くのアロハシャツの生地が日本で作られた。

ヤシの木で作られたボタンがアロハシャツといわれており、プラスチック製のボタンだと「プリントシャツ」あるいは「アロハ風シャツ」と呼ばれている。

ハワイでは、1950年頃に砂糖、パイナップルに次いでアロハシャツなどのアパレル産業が3番目の業種となり、アロハシャツの黄金時代を迎え、現在ではアロハシャツはオフィスやレストランなどでも着用されるし、式典や冠婚葬祭でも着用が許される「ハワイにおける男性の正装」として認知されている。

正装として着る場合は葬儀の際には弔意を表す意味で「万物の終わり」を意味するラウハラの葉の柄の入ったもの、結婚式の際には絡まり合いながら伸びることから「結ぶ」という意味を持つマイレの葉の柄、船出や事業の始まりの際には「偉大なキャリアのスタート」を意味するウル(パンノキ)の木の柄の入ったものがよいとされている。

アロハシャツは生地が綿100パーセント(シャンタン)で、サイズはXSからXLまであり、1枚8500円。すべて受注生産で、2013年5月末に届けられる予定だ。収益金(売り上げからアロハシャツ製作費と送料を引いた金額)は、「いわての学び希望基金」、「東日本大震災みやぎこども育英募金」、「東日本大震災ふくしまこども寄附金」に寄付される。

開場時間は11時から19時まで。日曜日、祝日は休館。入場は無料。