第一ホテルが築地ツアー、清田和美が銀座発祥の地等案内(2)

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【銀座新聞ニュース=2013年3月1日】阪急阪神ホテルズ(大阪府大阪市北区芝田1-1-35)グループの第一ホテル東京(港区新橋1-2-6、03-3501-4411)は3月8日に清田和美さんによる「歴史ウォーキングツアー」を開催する。

第一ホテル東京で3月8日に開催される「歴史ウォーキングツアー」でガイドを務める清田和美さん。

第一ホテルが1938年に開業したのを記念して、3月から7月まで毎月1回、郷土史研究家でNPO法人「江戸前21」(港区虎ノ門5-7-16、仙石山関ビル1階、03-3436-8022)の代表を務める清田和美(きよた・かずみ)さんによる「歴史ウォーキングツアー」を開く。

第1回目が3月8日で「明治の外国人居留地周辺を歩きながら築地散策」と題して、第一ホテル東京2階の日本料理「明石」で昼食をとった後、清田和美さんの解説により、「新橋・鉄道唱歌(てつどうしょうか)の碑」(港区新橋2-17-16)から「カレッタ汐留展望室」(港区東新橋1-8-1、電通本社ビル、03-6216-5111)、「芝口御門跡」(中央区銀座8-10-8)、「銀座発祥の地碑」(中央区銀座2-7先)、「聖路加国際病院(せいろかこくさいびょういん)」(中央区明石町9-1)、「波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)」(中央区築地6-20-37、03-3541-8451)を歩く。

ウイキペディアによると、「鉄道唱歌の碑」は1900年に大阪の出版社「昇文館」を主宰する市田元蔵(いちだ・もとぞう)が企画し、大和田建樹(おおわだ・たけき、1857-1910)に作詞を、多梅稚(おおの・うめわか、1869-1920)と上真行(うえ・さねみち、1851-1937)が作曲を依頼し、1900年5月10日に第1集東海道編を発売した。その後、「昇文館」が倒産し、楽器商の三木佐助(みき・さすけ)が版権を市田から買収したのが、楽器商の三木佐助で全6集・374番が順次発行された。

その中で、多梅稚が作曲した第1集、第3集、第5集がテンポがよく、広く謳われるようになった。この鉄道唱歌を記念して、1957年に記念碑が建てられ、大和田建樹の自筆による1番の歌詞が彫られている。

ちなみに、新橋と横浜間を開通したのが1872年で、東京駅が完成したのは1914年なので、鉄道唱歌に歌われる1番の「汽笛一声新橋を/はや我汽車は離れたり」という東京の西の玄関口としての新橋発は42年で終わった。また、当時の新橋駅は路線の移動に伴い、貨物専用の汐留駅に引き継がれ、1986年に廃止され、現在、跡地を再開発した汐留シオサイトに「旧新橋停車場」が建てられている。

「カレッタ汐留展望室」は2002年に開業した電通本社ビルの地上46階(地上200メートル)にある無料展望室で、汐留の超高層ビル群や東京港を一望できる。

「芝口御門跡」は1710年に芝口御門が新井白石(あらい・はくせき、1657-1725)の建議により、朝鮮使の入府に備えて国威を顕示するため建設され、「新橋」という名称が「芝口御門端」となったが、1724年に焼失し、以後も門が再建されなかったため、芝口御門橋は再び「新橋」に戻った。

「銀座発祥の地碑」は中央通りに面したティファニー銀座ビル前の歩道にあり、碑には「銀座発祥の地 銀座役所跡」と刻まれている。江戸時代にこの地に銀座があったことを記念して、1955年に建てられた。

江戸時代の銀座は貨幣の鋳造所で、1601年に伏見に創設されたのが始まりで、その後は各地に置かれたが、江戸湾の入江を埋め立てた場所に1612年に銀貨鋳造所を駿府城下から銀座に移したことに由来し、銀座役所では貨幣鋳造と銀地金の売買が行われ、役所は1800年に蛎殻町に移転したが、当時は「新両替町」と称し、通称「銀座町」と呼ばれ、1869年に「銀座」を町名とした。

「聖路加国際病院」は1874年に東京・築地の外国人居留地に、イギリス国教会長老派の宣教医師ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds、1843-1930)が病院「健康社」(後に「築地病院」に改称)を設立し、その後、築地近辺で転々と場所を移動したが、1902年にヘンリー・フォールズが帰国した後、荒廃していた築地病院の建物を聖会の宣教医師ルドルフ・トイスラー(Rudolf B. Teusler、1876-1934)が買い取り、財団法人「聖路加病院」としたのがはじまりとされている。

1923年に関東大震災により病院が倒壊、1933年に皇室やアメリカ聖公会、アメリカ赤十字などの寄付により病院が再建され、「聖路加国際病院」と「聖路加国際医道院(St. Luke’s International Medical Center)」とした。1943年に「大東亜中央病院」と改称し、築地、明石町一帯はアメリカ軍による東京大空襲による爆撃を免れ、1945年にアメリカ軍に接収され、1955年までアメリカ軍極東中央病院として使用された。

1955年にアメリカ軍から返還され、現在の「国立がんセンター中央病院」がある場所に「聖路加築地分院」を開設していた病院が現在地に戻り、廃止された「分院」の後には「国立がんセンター」が発足した。1963年に4年制の聖路加看護大学が発足、1992年に震災後の仮設病院跡地に聖路加タワー(ツインタワー)が竣工し、500床の新病院が完成した。

ツインタワー部分の「第3街区」は47階建てと38階建ての高低差があるデザインで、47階建ての棟の3階と4階には予防医療センター(人間ドック)があり、その上部はオフィスフロアとして賃貸されている。最上部には展望レストラン「ルカ(Luke)」があり、日本テレビとフジテレビの定点観測カメラが東京湾岸の状況を中継するために設置されている。38階建ての棟は下から約4分の3は医療介護付き居住施設の「聖路加レジデンス」で、約4分の1の最上部には銀座クレストン(元東京新阪急ホテル築地)が入居している。

旧病院棟はチェコの建築家、アントニン・レーモンド(Antonin Raymond、1888-1976)の設計による礼拝堂(旧館チャペル)も含めて東京都選定歴史的建造物に選ばれている。

「波除稲荷神社」は築地一帯の埋め立てと関連している。江戸開府の1603年ころは慶長江戸絵図によると、今の日比谷のお堀の辺りまで海で、開府前より始められた江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を使って日比谷入江から埋め始められた。

江戸東南海面埋め立ては、その後全国の諸侯70家に1000石に1人の人夫を出させ、後にはその埋め立ての役員の名をとり、尾張町、加賀町などと名付けられた。1657年の明暦の大火の後に、築地の埋め立て工事が行われたが、堤防を築いても激波にさらわれてしまうなど困難を極めた。

ある夜、海面を光を放って漂うものがあり、船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体で、1659年に現在の地に社殿を作りおまつりし、盛大なお祭りをすると、波風がおさまり、工事は順調に進み、埋め立ても完了した。

人々はその御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神を「波除」と名づけ、雲を従える「龍」、風を従える「虎」、一声で万物を威伏させる「獅子」の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回る祭礼「つきじ獅子祭」(毎年6月)がはじめれたとされている。以来、「災難を除き、波を乗り切る」神社として信仰を集めている。「獅子頭一対」と「鉄製天水鉢」は中央区の文化財に指定されている。

築地は明暦の大火の際に焼失した浅草の東本願寺の移転のために、佃島の住人によってこの土地が造成され、その後、浄土真宗の寺院や墓地が次々と建立され、周辺は寺町のようになり、ほかの地域は武家屋敷が多く立ち並んでいた。1869年に築地鉄砲洲(現在の湊から明石町)に「外国人居留地」が設けられ、在日アメリカ人子弟向けの学校であるアメリカンスクール・イン・ジャパンの校舎が1902年の開校時に設けられた。また、中津藩藩士の福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835-1901)が蘭学塾(慶応義塾)を開いた場所でもある。

さらに、江戸時代末期に江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に武芸訓練機関「講武所(こうぶしょ)」を設け、後に海軍部門の「軍艦操練所」を設置、明治維新の後、大名屋敷や講武所跡は明治政府に接収され、太平洋戦争後に日本海軍が解散されるまで、主に海軍用地として海軍本省、海軍兵学校などに使用された。

1923年に関東大震災が発生し、築地一帯が焼け野原となり、帝都復興計画に基づいて晴海通りや新大橋通りなどの大規模な道路の建設と区画整理が行われ、それに伴い多くの寺院が移転した。復興が一段落した1935年に日本橋の魚河岸が築地の海軍用地に移転され、場外にも市場が形成された。

昼食は「春の散策弁当」で、九枡盛り、お造り、煮物、食事、甘味となっている。
清田和美さんは長年、港区教育委員会に勤務し、港区生涯学習センター所長を務め、20年ほど「文化財行政」や「生涯学習」などに関係し、現在は「江戸庶民の暮らし」や「外国人がみた幕末の江戸庶民の暮らし」をテーマに郷土史を研究している。

時間は11時15分から12時30分が昼食、散策が12時30分から15時30分。料金は4000円(食事、ガイド料、税、サービス料込み)。申し込みはホテルまで。