「狂気」が魅力の源泉を再確認させられた「黙示録ファイナル版」(286)

【ケイシーの映画冗報=2020年4月2日】今回、予定していた「ハリエット」ですが、一連の新型コロナウィルスの問題から、上映が延期となりました。他にも多くの映画の劇場公開が未定や延期となり、現在撮影中、あるいは企画中の作品にも影響が出ているので、映画ビジネス全体がおおきな試練に直面しているといえます。

現在、一般公開中の「地獄の黙示録ファイナル・カット版」((C)2019 ZOETROPE CORP. ALL RIGHTS RESERVED.)。

自分も多少の経験がありますが、映画のスタジオ撮影など「密閉された空間で多くの人間が濃密な時間を過ごす」の典型なので罹患リスクが高いものですし、撮影前の作品であっても、ネタ出しや長時間の会議などでは、舌戦がくりひろげられることも珍しくないので、映画そのものが停滞してしまうのも致し方ないでしょう。

そんななか、「もっとも難産だった映画のひとつ」である、フランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)監督の「地獄の黙示録」(Apocalypse Now、1979年)の「ファイナル・カット版」(Final Cut、2019年)が劇場公開されているというのも、なにかの符合でしょうか。

1960年代後半のベトナム。休暇中でも戦場に思いを馳せているアメリカ陸軍のウィラード大尉(演じるのはマーティン・シーン=Martin Sheen)は、軍から極秘の任務をあたえられます。エリート軍人だったカーツ大佐(演じるのはマーロン・ブランド=Marlon Brando)が、カンボジアの奥地で勝手に王国を築き、暴虐の限りを尽くしているので「抹殺せよ」というものでした。

映画の完成が遅れるに伴い、映画の制作費も当初の予定を大幅に上回り、最初の予算は1200万ドル(当時、約35億円)だったが、実際には3100万ドル(約90億円)かかった。うち、1600万ドル(約46億円)は、ユナイテッド・アーティスツ社が全米配給権と引きかえに出資し、残りはこの映画を自分の思いのままに作りたかったコッポラが自分で出した。資金の一部は、日本の配給元でもある日本ヘラルドから支援されたともいわれる。結局、大ヒットにより、費用は回収されたという。

海軍のパトロールボートに乗ったウィラード大尉は、カンボジアへの航程でさまざまな事態に遭遇します。戦場とサーフィンに取りつかれた軍人や、慰問団の美女に熱狂する若い兵士たち。ベトナムの宗主国であったフランスからの入植者や、姿を見せない敵と戦う孤立した部隊。やがてウィラード大尉は不可思議なカーツの王国で、抹殺の対象であるカーツ大佐と対峙します。

構想から10年、撮影開始から完成まで4年間という歳月を要したこの作品の制作中に生まれた無数の困難は、「ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録」(HEARTS OF DARKNESS: A FILMMAKER’S APOCALYPSE、1991年)というドキュメンタリー映画となっています。

この作品を監督したのは、コッポラ監督夫人のエレノア・コッポラ(Eleanor Coppola)で、17週間の予定が61週間にまで延伸してしまったフィリピンでのロケ事情(台風によるセットの崩壊や、キャストとのトラブルなど)から、コッポラ監督の内面の苦悩が記録されており、映像化されていない部分も、エレノア自身の筆による著作に記されています。

古い映画ファンには知られていますが、本作と日本には、かなり関係があります。フィリピンで不足した機材の調達先が日本だったことや、合計500時間という膨大な撮影フィルムを前にしたコッポラ監督が逃亡し、潜伏したのが秋葉原のアパートだったという“逸話”もあります。

1970年代の秋葉原は、外国人が目立たない数少ない場所だったのです。撮影当時、“撮影で本物の死体を使った“という伝説もありました。ありえないのですが、それなりに信憑性(しんぴょうせい)もあったので、いまの世相とも重なってみえてきます。

完成作について、コッポラ監督はこう述べています。
「撮影の間に、映画は徐々にそれ自体で一人歩きをはじめていた。そして奇妙なことに、制作プロセスそのものが映画のストーリーと非常に似かよってきた。私は、監督としてのアイディアやイメージが私自身の人生のリアリティと一致しはじめたと、そして私自身が、ウィラード大尉のごとく解答を求めカタルシスを望んで、奥深いジャングルへと、河を昇りつつあることに気付いた」(月刊「スクリーン」1980年3月号)

作者自身の体験と感覚がそのまま作品に反映されるということは、あらゆる作品で普遍的な事象ですが、著作物が完全な“私感”では、読者や観客が内面世界を精緻に理解することはかなわないので、混乱するのは必定です。

日本での公開当時「戦争という信じ難い人間の狂気を新しい映像美学でとらえた熱気あふれる大作」(前掲誌)と紹介された本作ですが、この“戦争”という言葉は、他のなににでも置き換えられるのでは、とも思えてなりません。人間の狂気は戦争とはかぎらないのが現実です。

その“狂気”の部分が創作活動の原動力になっていることも、また真理なのです。日本を代表するアニメ監督の作品のキャッチ・コピーにこんな一文がありました。
「凶暴なまでの情熱が世界中に吹き荒れる!」

ある種の狂気がとてつもない魅力の源泉になることを、40年前の作品によって再確認させられたような気がしますし、時間が経っても色あせない作品が存在することを証明している作品であることも、間違いありません。

次回は未定とさせていただきますが、なんらかのかたちで映画についてお伝えしたいと考えております(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

注:ウイキペディアによると、「地獄の黙示録」は英国の小説家、ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad、1857-1924)の小説「闇の奥」(1902年)を原作に、物語の舞台をベトナム戦争に移して翻案した叙事詩的映画だ。

1979年度のカンヌ国際映画祭で最高賞「パルム・ドール」を獲得、アカデミー賞では作品賞を含む8部門でノミネートされ、そのうち撮影賞と音響賞を受賞した。日本では1980年2月23日に公開された。

2001年に、コッポラ自身の再編集による「特別完全版」が公開され、2019年4月28日、公開40周年を記念してトライベッカ映画祭において「地獄の黙示録 ファイナル・カット」が上映された。

映画は当初、1970年代初頭に、同じ南カリフォルニア大学の映画学科に在籍していたジョージ・ルーカス(George Walton Lucas、Jr.)とジョン・ミリアス(John Milius)が共同で進めていた企画だったが、当時はベトナム戦争が行われていた最中であり、その企画は通らなかった。

後にルーカスが「スター・ウォーズ」を製作するにあたり、作品の権利をコッポラに譲り渡した。コッポラは映画化にあたり、「闇の奥」以外にもさまざまな作品をモチーフにした。映画中でT・S・エリオット(Thomas Stearns Eliot、1888-1965)の「荒地」(The Waste Land)や「うつろな人間たち」(The Hollow Men)の一節が引用された。

また、ジェームズ・フレイザー(Sir James George Frazer、1854-1941)の「金枝編」(The Golden Bough)から「王殺し」や「犠牲牛の供儀」のシーンが採用されるなど、黙示録的、神話的イメージが描かれている。

この他、監督の妻エレノア・コッポラの回想録によると、コッポラは撮影の合間、しばしば三島由紀夫(みしま・ゆきお、1925-1970)の「豊饒の海」を手に取り、本作品の構想を膨らませたという。

コッポラは、映画の製作初期段階から、音楽をシンセサイザーの第一人者である冨田勲(とみた・ いさお、1932-2016)に要請していたが、契約の関係で実現には至らず、結局監督の父親であるカーマイン・コッポラ(Carmine Coppola、1910-1991)が音楽を担当した。このあたりの事情は、「地獄の黙示録 特別完全版」サウンドトラック盤のライナーノーツで、コッポラ自身が詳細に語っている。

エレノア・コッポラは、後に撮影手記「ノーツ-コッポラの黙示録」を出版した。また、彼女が撮影の舞台裏を撮影したビデオや録音テープにスタッフ、キャストへのインタビューを加えたドキュメンタリー映画「ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録」が1991年11月に公開された。