「2020年」(1.ウイルスフリーの異次元へ<真鍋翔子の場合>)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2020年7月3日】日本行き航空便の機内は予想通り、混雑していた。国際線が再開されたばかりで、この機を逃さず、ムンバイに残留していた邦人たちは、新型コロナウイルスの感染拡大が止まらぬインドを脱出しようと詰めかけたのである。

皆一様にマスク顔で、緊張した面持ち、機内は静まり返っていた。キャビンアテンダント(CA)はマスクの上にフェイスシールドでさらに防備し、乗客に手袋着用の手でキャンディを配っていく。私はオレンジ風味の一個をつかむと、マスクの下から口中に放り込んだ。

いつもなら、ひざまづいてのお絞りサービスがあるのだが、ウイルス感染リスクを懸念してか、それはなかった。

機体がついにインドでワーストの感染爆発都市ムンバイを飛び発ったときは、さすがにほっとした。同乗した同胞客の誰もが同じ気持ちでいるだろう。しかし、マスク越しの会話を交わす気にはなれない。幸いにも、私の隣席は空いていた。食事中、隣人と誤まってひじが触れ合ったりする接触が避けられるにこしたことはなかった。

やがて、飲み物が供された。私は日本製のビールをオーダーし、つまみとして付いてきた柿の種の小袋を破り、久しぶりに口中で砕けるあられの芳しい香りと、ピーナッツ風味のミックスのかもす絶妙な味わいを、よく冷えた生ビールで流し込んだ。

サイコーだった。今でも、この奇跡が信じられなかった。年内帰国は無理と諦めかけていたのだ。旅費も心もとなかったし、いったいどうなることかとはらはらしたが、国際線の再開が思ったより早かったせいで、窮地から救われたのである。

酒が入って、ムンバイ国際空港に辿り着くまでの道中の過度の緊張や、空港内での検温など物々しい雰囲気に張っていた気が一度に緩み、眠気がどっと押し寄せてきた。昨夜は興奮のあまり、一睡もできなかったのである。

CAの呼びかけにはっと目覚めると、食事のトレイが目前に差し出されていた。あわてて受け取り、缶ビールをもう一本所望し、つまみ代わりに、小皿に盛られたざるそばを、備え付けのつゆをかけ、わさびを搾り出して混ぜながら、すすった。つんと鼻に来るわさびの匂いに、ああ、日本の味だと喜ばしかった。

マスクはあごにかかっていた。

食後白ワインをオーダーし、柿の種ももう一袋追加して、みるみるうちに緩んでいく、リラックスした気分に身をゆだねる。ほろ酔い加減で、うとうとしかけた矢先のことだった。機体がぐらりとかしいだ。アナウンスが乱気流を告げている。せっかく、インド脱出に成功したのに、ここで飛行機が墜落したら、実も蓋もないなと、シートベルトをかちゃりと締め直す。その途端に、機体ががくんと急降下し、ひやりと肝をつぶす。 肘掛を握る手にぎゅうっと力がこもった。掌中がじっとり汗ばんでいる。

揺れはいっこうに収まらず、恐怖症の私の心臓はどくんどくんと高鳴った。固く目を閉じて、神様助けてくださいと、胸中でひたすら呪文を唱える。どれくらいたったろうか、願いが通じたものか、揺れはようやく収まった。水平位置に戻った機体に、私はこわばった体をほぐし、ほっと息をついて、目をゆっくり開けた。

なぜなのだろう、妙な違和感を覚えた。乱気流に入る前と、微妙に機内の雰囲気が変わったように感ずるのだ。周囲を見回すと、目の届く範囲の2、3の乗客はマスクを着けていなかった。今しがたの揺れで、嘔吐でも催したのか。私はあまり深く気にかけず、からからに乾いた喉を潤すため、酒をオーダーした。ジュースでなく、なぜかむしょうに冷やで日本酒が飲みたかったのである。

運ばれてきたのは宮城県産の銘酒で、薫り高い純米酒が喉越しをひんやりと潤す感触に、しみじみと幸せを噛み締めた。

酔いが回ったせいか、妙な居心地の悪さはいつのまにか掻き消えていた。

はっと目覚めると、機体はすでに香港上空を飛んでいた。成田空港が近づくにつれ、また緊張がじわりと滲み出す。検疫局での検査や陰・陽性にかかわらず、その後の2週間の隔離を思うと、気が重くなった。東京に自宅がない私は、ホテルでの隔離になるが、公共の交通機関が使えないため、送迎車も出してくれる帰国者用のゲストハウスを予約していた。

それにしても、結果がわかるまでどれくらい待機しなければならないのだろうと思うと、憂鬱になった。世界各国からの帰国者が順番待ちで混雑しているとの情報は前もって、仕入れてあったのだ。待ち時間が長ければ長いほど、感染リスクも高まりそうな気がして、不安だった。それ以前に検査とはどのように行われるんだろう。血をとられるんだろうなと思うと、小心者の私はびくびくした。

そのときになって、 にこやかな笑顔で最後のサービスの食事を運んでくる、CAがマスクを外し、フェイスシールドもしていないのに気づいた。私は唖然とした。マスク越しのくぐもった声で注意するのもためらわれ、黙って見過したが、飲み物をサービスする別のCAも同様に、マスクもシールドもしていないことに気づいた。

誰か注意しないかなと、機内をそれとなく見回すと、乗客全員がマスクを外し、隣席の家族とおぼしき身内と声高に談笑している。何時間か前に乱気流を抜けたとき、2、3の乗客の顔からマスクが消えていることに気づいていたが、まさか全員そうだったとは夢にも思わず、私は異変にあわてた。

ああ、飛沫感染がと、恐ろしくなり、食事前で引き下げかけたマスクをまた鼻にずり上げる。もう一度、目を凝らして機内をゆっくり見回すと、本当に誰一人としてマスクを着けていなかった。あごにずりおろしているのでもない。食事前で、みな前席のポケットにでも仕舞ったものか。でも、まだ、トレイが運ばれていない客まで口元を覆って防備していないのだ。

ルール違反だと叫びそうになるのをかろうじてこらえる。大勢に無勢、マスク着用は私独りなのだから、注意しても聞き入れられそうになかった。

みんな、いったい、どうしちゃったの。なんでマスクをしないの。私は、あまりにも無警戒すぎる、マナー違反の同乗客に、恐怖ともパニックともつかぬ心地に襲われていた。

食後、トイレに立つと、3、4人の乗客が順番待ちをしていた。その誰もがマスクを着けていない。子供が通路をうろちょろしており、母親らしき女性に叱咤されていた。

機内は、最初に乗り込んだときと打って変わって、ウイルスが蔓延する前のマスクも、フェイスシールドも不要だったころに戻っていた。

私は機内手荷物からもう一枚マスクを取り出すと、二重に防備した。台風が近づいているらしく、機体がまた少し揺れたが、夢にまで焦がれた母国の土に車輪ががたんと着地したときは、心底ほっとした。

さあ、いよいよ検疫だと気を引き締める。ところが、どういうわけか、しかるべき検査場所に誘導されることもなく、すんなり通過してしまったのである。文字通りフリーパス、だった。ムンバイ空港のように検温すらなかったのだ。

これはいったい、どういうことなんだろう。私の不審感は高まった。空港内には人があふれていたが、マスク着用者はごく少数で、しかもみな密着して、声高に話している。あんなにくっついて大丈夫なのかなと眉をひそめながら、私はどうにも腑に落ちず、首を傾げ続けた。

確かに日本は収束に向かいつつあるが、この警戒心のなさはどうだろう。第2波が怖くないのか。それにインドでワーストの感染爆発都市から帰国したというのに、すんなり通過させてしまうなんて、いったい、どうなってるんだ。規律に厳しい自国のはずなのに、あまりにもおかしい。そういえば、公共の交通機関を使用しないとの誓約書も書かされなかったなと、思い返す。

私は釈然としない心地で、もしかして入国制限が急遽解除されたのかもしれないと思った。だとしたら、なんというラッキーなタイミングだったことだろう。そうだ、きっとそうにちがいない。やったあと私は単純に喜び、予約したホテルに電話を入れ、送迎車の到着を確認した。

ところが、いくら電話しても、先方にはつながらなかった。これ幸いとばかり、自主キャンセルし、都心に出るバスに乗った。

当日夜の郷里往きのバスチケットはすんなり取れて、翌朝には帰省していた。早朝だったため、朝食がてら喫茶店で時間つぶしをすることにする。朝早い時間帯にもかかわらず、駅前のせいか、店は結構混んでいた。入り口には消毒液も置かれておらず、客同士ガラスの仕切りも設置されていないボックス席で、口角泡飛ばしながら談笑していた。私は眉をひそめながら、ルール無視の客たちから距離を置いて、カウンターの隅に腰掛ける。

コーヒーが、剥き出しの顔の若いウエイトレスによって運ばれてきた。私は目の前のナプキン立てから一枚抜き出すと、飲み口を丁寧にぬぐってからすすった。インスタントでない日本の喫茶店のコーヒーの薫り高さに、ああ、やっと帰って来たとの安堵がしみじみ胸を満たす。

そもそも、いい年こいてインドなんかに旅しようと思ったのが間違いの元だったと、苦々しく振り返る。私は大の遺跡愛好家で、ムンバイのアジャンンタ・エローラ遺跡を一目観たかったのだ。評判にたがわず素晴らしく、毎日のように通ったものだが、そうするうちにウイルス騒動に巻き込まれ、都市封鎖に直面、以後4カ月あまりもムンバイに封じ込められる成り行きになったのだ。

誰一人として知る者もない異国のホテルで、孤独感と寂寥に苛まれ、 心細さが募ったが、 幸いにも、ワイファイが完備されていたせいで、日本の親族や友人とは連絡が取り合えた。

それにしたって、厳格な外出禁止令か敷かれた異国の大都会での軟禁生活はストレスが溜まる一方で、毎食カレーで胃も荒れて日本食が恋しくてならなかった。

あの悪夢のような日々を振り返ると、こうして無事帰国できたことは、まさしく奇跡としかいいようがなかった。

そろそろ実家の弟が起きだす時刻だと、私はやおら腰を上げた。すでに両親は他界していて、いまだ独身の弟が長年家守りしているのだ。私は5年前に離婚して以来、実家に身を寄せていたのである。子供はおらず、以来弟と2人の生活、静かで変わり映えのしない、初老の姉弟の単調な暮らしを続けていた。

生活費はフリーの校正者としての技能のおかげで賄え、年金を年1度の海外遺跡旅行にあてていたのだ。

玄関を勢いよく開けて、帰宅を大声で告げると、中からのそりと小柄な胡麻塩頭の弟が姿を現した。

弟は姉の顔を見ても、お帰り、大変だったねとねぎらうでもなく、きょとんとした面持ちをしている。帰国通知のメールは届いていなかったんだろうかと、私はいぶかった。

他人行儀なそぶりで、姉のスーツケースを持ち上げる手助けすらしようとしない弟に、私は少しむっとしながら、自力でよいしょと上がり框に持ち上げた。その刹那、鋭い罵声が飛んできた。

「あんた、人のうちにのこのこ侵入して、いったい、誰なんだい」

私はマスクの下で、あんぐり口を開けた。弟の気がふれたのかと一瞬思った。よもや、姉の顔を忘れたわけでもあるまいに。

「あんた、何言ってんのよ。姉ちゃんが、感染爆発しているインドからほうほうの体(てい)で逃げ帰ったというのに、無事でよかったの一言もないなんて」
「姉ちゃんだってえ? よく言うよ、いくら似てるからって、厚かましいにもほどがある。うちの姉ちゃんなら、とっくに戻ってるよ」

険悪な目つきでつっけんどんに返す弟に、私は訳がわからず困惑する。そのとき、弟の背後に忍び寄る人影があった。

「この女、誰?」

邪険に投げる女は私にそっくりで、まるで鏡を見ているみたいに何から何まで生き写しだった。私は膝ががくがくして、その場にへなへなとくずおれそうだった。

「俺にもわかんねえんだよ。姉ちゃんに似ているからといって、人のうちにいきなり侵入しようとしてさ、ちょっと頭おかしいんとちゃうか」
「やあねえ、私に似てなんかいないわよ。どこの馬とも知れぬ図々しい女、早く追っ払ってよ」

私に瓜二つの女は眉をひそめ、眉間に鋭い縦皺を寄せて、まるで野犬でも払うようなそぶりで、しっしっともう一人の私を追いやった。

二人の剣幕にすごすごと背を向けると、重いスーツケースを再び転がしながら、悄然と家を出た。立ち去る前に今一度まじまじと表札をチェックしたが、間違いなく真鍋浩二と連名で「翔子」と記されており、混乱した。これからどこに行けばいいのかわからなかった。私の居場所はここにはすでにないのだ。元の世界のアイデンティティ、真鍋翔子という実名を喪失した自分が憐れで、公園のベンチで膝を抱え行き暮れた。

突然、頭の中の声がした。
「でも、ウイルスに毒された世界に戻るより、ここに浮浪者としてとどまったほうがいいんじゃない、少なくとも、命を落とすリスクはゼロよ。それに監視社会じゃなくて、自由に動けるし、誰にもコントロールされない」

私は、宿泊拒否でホテルが見つからず帰宅難民となって、空港内でのダンボール生活を強いられる帰国者のエピソードをふと思い出し、無菌の並行世界で難民としてとどまることを選んだ。

秋か冬には来ると言われている第2波では、数時間内に人がばたばた倒れ死ぬとの恐ろしい予測もなされており、スーパー耐性菌にころりと殺られるリスクのない安全・自由かつ平和な並行現実を選ぶにこしたことはなかった。それは人間としてある意味、当然の生存本能とも言えた。

すぐ目の前で、炊き出しが始まろうとしていた。いい匂いに釣られるように、マスクを投げ捨てた私は矢庭に立ち上がり、浮浪者の列の後尾に並んだ(「2020年」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)