丸善日本橋で沖縄の染織と民具展、玉城恵、石嶺香織、吉田誠子ら

【銀座新聞ニュース=2024年6月19日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は6月19日から25日まで3階ギャラリーで「めぐり逢う沖縄の染め織り」展と「みんなの沖縄民具」展を開く。

丸善・日本橋店で6月19日から25日まで開かれる「めぐり逢う沖縄の染め織り」展に出品される沖縄の染め織り。

「Gallery(ギャラリー)はらいそ」(沖縄県うるま市石川曙1-9-24、098-989-3262)が企画する沖縄の伝統工芸品とアーティストを紹介する企画展で、沖縄戦などの戦没者を追悼する「慰霊の日(6月23日)」を挟んだ1週間、丸善日本橋に沖縄の工芸品が展示される。

「めぐり逢う沖縄の染め織り」は琉球びんがた、芭蕉布、首里織、南風原花織、琉球藍織物を中心に選んだ帯、着尺、琉装などを展示する。琉装とは、古くから伝わる沖縄の胴衣(ドゥジン)、長羽織(フィーター)などの着物のことで、帯を使わずに、沖縄の手織物を身に纏うことができる。

出品するのは首里織の「アトリエKei Fleur(ケイ・フルール)」(那覇市首里石嶺町2-92、プラザ石嶺Ⅱ、070-5698-2187)の玉城恵さん、「西表(いりおもて)手仕事センター」(沖縄県八重山郡竹富町上原870-277、0980-85-6039)、首里織の起田(おきた)奈津子さん、琉球藍織物の「花藍舎(からんしゃ)」(うるま市勝連南風原152、090-5720-9268)の宮良千加さん、宮古上布(じょうふ)の「染織工房timpab(ティンパブ)」(宮古島市平良東仲宗根561-7、080-6490-1770)の石嶺香織さん、宮古上布、宮古苧麻(ちょま)織の「染織デザインmieko」(沖縄県宮古島市平良東仲宗根299-2)の中島三枝子さん。

首里織の仲宗根綾さん、草木染織の前津雪絵さん、琉球びんがたの「紅型工房べにきち」(沖縄県国頭郡本部町瀬底94、0980-47-4451)の吉田誠子(のぶこ)さん、琉球びんがたの「紅型工房ひがしや」(国頭郡今帰仁村、090-1179-6198)の道家良典(どうけ・よしのり)さん、琉球紅型の「紅型デザイン工房ten天」(沖縄県うるま市勝連平安名2836、098-978-7432)の天願(てんがん)千恵さん。

琉装(昔の琉球王国における民族衣装で、現在の沖縄の伝統的な地方衣装)の「琉衣」の砂川恵子さん、琉球かすり・南風原花織の「TEORI WORKS OKINAWA(テオリワークスオキナワ)」(島尻郡南風原町兼城294-2、080-9851-6036)の宮城麻里江さん。

「みんなの沖縄民具」に出品するのは、陶器の「陶芸こまがた」(うるま市)の駒形爽飛さん、「國場(こくば)陶芸」の國場一(こくば・はじめ)さん、やちむん(陶器)工房の「陶factory(ファクトリー)509」(沖縄件うるま市)、琉球ガラスの「白鴉(しろがらす)再生硝子器製作所」(沖縄県うるま市石川曙2-24-63-2、098-964-4745)の鈴木紳司さん、草あみ細工の「種水土花(しゅみどか)」(沖縄県島尻郡伊平屋村我喜屋2135-63、090-1944-6702)の是枝麻紗美さんなど。

ウイキペディアによると、沖縄は明治政府が1879(明治12)年4月5日に琉球藩を廃止して沖縄県を設置したのがはじまり。1951年に第2次世界大戦の講和条約(サンフランシスコ講和条約)で、アメリカの施政権下に置かれるものとされ、同条約は1952年4月28日に発効し、沖縄は日本本土から切り離された。

アメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままであった。

琉球諸島への出入りは厳しく管理され、渡航にはパスポートが必要であった。1950年6月25日に北朝鮮が韓国に軍事侵攻したことにより「朝鮮戦争」が、1960年12月に南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始したことで「ベトナム戦争」がおこるなど、1950年代から1960年代にかけて東西冷戦が過熱する中で、アメリカの沖縄の扱いは施政権下においての自治から、ソ連や中国、北朝鮮などの東側諸国に対しての抑止力を持った軍事基地、そしてフィリピンやタイの基地と並ぶベトナム戦争の爆撃機拠点および後方支援基地としての重要性を重視する方向に変わった。

1969年に行われた首相の佐藤栄作(1901-1975)とアメリカのニクソン大統領(Richard M.Nixon、1913-1994)との日米首脳会談で、ベトナム戦争の近年中の終結を考えて、繊維製品の輸出自主規制と引き換えに沖縄返還を約束し、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1971年に沖縄返還協定に調印、1972年5月15日に日本へ復帰した。1973年3月29日にアメリカ軍がベトナムから全面撤退した。しかし、2020年でも米軍専用施設面積の約70%が沖縄県に集中し、沖縄本島の14.5%が基地に占められる(県全体の基地の割合は8.1%)。

Galleryはらいそによると、「紅型染」は琉球王朝時代、王族や士族の衣装として染められていたとされ、長い歴史の中で幾度となく存続の危機があり、大東亜戦争では多くの型紙や道具が消失した。

しかし、戦後、王朝時代から紅型染めに従事してきた城間家の尽力により、紅型が復興へと向かい、現在の紅型は江戸時代の頃の作品が多く、ほとんどの図案は中国の吉祥文様をベースとしている。図案を考え、型を刀で掘り、糊を置いて、顔料や藍などで染める。作品としては、着物の生地や帯、額絵などから、コースターやカードケース、髪飾りなどまである。

琉球ガラスは沖縄本島を中心に、吹きガラスなどの「ホットワーク」と呼ばれる作業で作られる工芸品のことで、沖縄で作られるガラス工芸品のことを「琉球ガラス」と呼ぶ。赤、オレンジ、青、緑など、南国の色を使用した作品や、泡盛やビール瓶などを再利用して、再生ガラスとして作る琉球ガラスがある。

warakuwebによると、「やちむん」は琉球と呼ばれた時代に、清(1636年に満州に建設され、1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝)や東南アジアの国々と貿易を行い、14世紀後半から、酒甕(さけがめ)や碗など多くの陶器を輸入し、1429(正長2、永享元)年に「琉球王国(1429年から1879年まで)」が誕生してからも継続された。1609(慶長14)年に薩摩の島津藩が琉球を支配下に置くと、1616(元和2)年に薩摩から招いた朝鮮人陶工が、琉球の湧田村(わくたむら)で製陶技法を伝えたのが、沖縄の陶器生産の始まりとされている。

1682(天和2)年には点在していた窯場が那覇中西部にある牧志村(まきしむら)の壺屋(つぼや、焼き物産地の意)に集められ、ここで焼かれた陶器は「壺屋焼」と呼ばれた。

「おきなわ物語」によると、明治時代に入ると、琉球王朝は幕を閉じ、焼物に対する王府の庇護もなくなり自由競争へ突入し、本土から安価で丈夫な磁器製品が大量に流入し、、壺屋焼は危機を迎えた。しかし、日用工芸品の美を発掘する民藝運動を率いた柳宗悦(1889-1961)をはじめ、濱田庄司(1894-1978)、河井寛次郎(1890-1966)ら陶芸作家が高く評価し、本土に紹介したことで、多くの人々に認められた。

戦後に入ると、生活必需品である食器や壺などが不足したため、各地に散っていた陶工たちが壺屋に集められ、ここから那覇の復興が始まったが、周辺地域の都市化が進むにつれ、登り窯から出る煙が公害として問題視された。昔ながらの製法にこだわり新たな窯場として読谷村に移る人も現れ、現在は壺屋、読谷村を筆頭に、県内各地でさまざまなやちむんが作られている。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)。