銀座の金沢で復興支援の輪島塗展、垣内幸彦、寺口一代ら、実演も

【銀座新聞ニュース=2024年6月18日】一般社団法人「金沢クラフトビジネス創造機構」(石川県金沢市香林坊2-4-30、香林坊ラモーダ、076-265-5107)は6月19日から30日まで「KOGEI Art Gallery 銀座の金沢」(中央区銀座5-1-8、銀座MSビル、03-6228-7733)で「能登半島地震復興支援 輪島塗特別展」を開く。

「KOGEI Art Gallery(コウゲイ・アート・ギャラリー)銀座の金沢」で6月19日から30日まで開かれる「能登半島地震復興支援 輪島塗特別展」のフライヤー。

2024年1月1日の能登半島地震で被災した伝統工芸の復興支援に向けた特別展で、垣内幸彦さんら輪島塗作家5人(5組6人)による輪島塗の箸、カトラリー、アクセサリーを中心とした作品を展示販売する。また、出品者による蒔絵の実演を行い、展示作品の説明や輪島塗について直接、紹介する。

今回、出品するのは、 「URUSHI(うるし)ひとしずく」を主宰するふくづかまり(福塚真梨)さん、「垣内漆芸工房」(石川県輪島市河井町1-26-1)を主宰する垣内幸彦さん、寺口一代さん、工房「YUKAKU優角」(石川県輪島市河井町1部7-1)を主宰する諸石健太郎さんと優子さん夫婦、横山美穂さん。

ウイキペディアによると、能登半島地震は2024年1月1日16時10分に、日本の石川県の能登半島地下16キロで発生した内陸地殻内地震で、震央は鳳珠郡穴水町の北東42キロの珠洲市内にあった。気象庁によれば、この地震の気象庁マグニチュード(Mj)は7.6であり、内陸部で発生する地震としては日本でも稀な大きさの地震であったとしている。

5月28日現在、死者は260人、行方不明3人、全壊家屋は8528棟とされている。被害総額は1.1兆円から2.5兆円と推計されている。

輪島漆器商工業協同組合(石川県輪島市河井町24-55、0768-22-2155)などによると、輪島塗は石川県輪島市で生産される漆器で、能登半島の七尾市の三引遺跡(みびきいせき)からは6800年前の漆製品が発見されている。輪島では平安時代の遺構である屋谷B遺跡で漆製品が発掘されている。

輪島塗の特色を備えたものとしては、山地を挟んで反対側にある穴水町の西川島遺跡群御館遺跡(室町時代前期、おやかたいせき)で珪藻土を下地に用いた椀が発掘されている。現存する最古の輪島塗は、室町時代の1524年作と伝わる輪島市河井町にある重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ)旧本殿の朱塗扉(しゅぬりとびら)といわれている。

現在のような輪島塗の技術が確立したのは江戸時代寛文年間(1661年から1672年)とされ、海運の利を生かして販路を拡大し、陸路でも行商がおこなわれており、堅牢さが評判の輪島塗は日本各地で使われていた。沈金(ちんきん)の始まりも江戸時代享保期(1716年から1735年)、蒔絵は江戸時代文化文政年間(1804年から1830年)にはいってからとされている。

日清戦争(1894年7月から1895年3月)、日露戦争(1904年2月から1905年9月)で輸出が減衰したが、国外の博覧会には毎回出品し、主要生産地の漆器のなかで突出した値段で取引されていたという。

ただし、漆器の技法そのものは縄文時代にまでさかのぼり、長い時間をかけ、幾世代にもわたって受け継がれてきた。「輪島地の粉」の発見は珪藻土の一種を焼いて粉末にしたもので、漆に混ぜることで頑丈な下地がつくれるようになった。弱くなりがちな部分に布をかぶせる「布着せ」という手法も生みだされた。

こうして、輪島塗は「優美さと堅牢さ」を支える、「本堅地法(ほんかたじほう)」とよばれる工法が完成した。江戸時代に入り、沈金の技術が確立し、蒔絵の技術が伝わると、暮らしの中で使う道具とひとつの芸術という輪島塗の価値が確立した。

輪島塗は厚手の木地に生漆と米糊を混ぜたもので布を貼って補強し、生漆と米糊、焼成珪藻土を混ぜた下地を何層にも厚く施した「丈夫さ」に重きをおいて作られている漆器で、1975年5月に「伝統的工芸品」に指定された際の通産省(現経済産業省)による輪島塗の要件は1)伝統的な技術または技法については、下地塗りは、木地に生漆を塗付した後「着せもの漆」を塗付した麻または寒冷紗を用いて「布着せ」をすることと生漆に米のり及び「輪島地の粉」を混ぜ合わせたものを塗付しては研ぎをすることを繰り返すこと。

2)上塗りは、精製漆を用いて「花塗」または「ろいろ塗」をすること、3)加飾をする場合は、沈金または蒔絵によること、4)木地造りについては、挽き物にあっては、ろくろ台及びろくろかんなを用いて形成する、あるいは板物または曲げ物にあっては、「こくそ漆」を用いて成形することとしている。

伝統的に使用されてきた原材料については、漆は天然漆とする、木地はヒバ、ケヤキ、カツラ、もしくはホオノキ、またはこれらと同等の材質を有する用材とすることとしている。これらはあくまで伝統産業の振興を目的とする法令「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」に基づく伝統的工芸品としての輪島塗の要件であるが、これらを満たすことで類似品と区別するための「伝統証紙」が使用できたりするものの、これらの要件をすべて満たしたものだけが輪島産の漆器であるわけではないという。

「布着せ」は、木地に布を貼ることで、椀の縁や高台、箱ものの角など傷つきやすい所を補強するために施すもので、漆工芸における基本的な工程だが、現在広く流通している漆器では省略されることが多く、輪島塗や越前塗、京漆器などの一部の漆器産地でつくられるものにしか見受けられない。

「ジャパン(japan)」と呼ばれる漆器の歴史は、約6800年前までさかのぼり、最古の漆塗り製品は、三引遺跡から出土した竪櫛(たてぐし)で、16本の櫛歯(ムラサキシキブ材)に横木を渡して、植物繊維でより合わせ、頭部を半円形にし、ベンガラ(赤色塗料)が含まれた漆を4層塗り重ねるなど高度な技術が駆使されている。

縄文時代の櫛はシャーマン(呪術者)の頭部を飾る呪具で、多くは赤色漆塗りで、赤色は生命の色、再生の色であり、精製された漆に赤色顔料(ベンガラ・朱)を混ぜることによって、より光沢と深みをました麗しい赤色に変化する。

平安時代の説話文学集「今昔物語」(1120年ころ完成)に、あらゆる願いがかなえられるという「通天の犀角帯(さいかくのおび)」入りの漆桶が、輪島の海岸に漂着したという話が収められている。輪島と漆を結びつける文学上の最古の記録で、潮が運ぶ能登の文化的位置を示しており、同時代の輪島で漆器が作られていたことは、石川県輪島漆芸美術館前の釜屋谷B遺跡から、漆盤(大皿)と漆パレットが出土したことからも、裏付けられている。

漆器の生産はいくつかの分業を総合した高度な技術で、古代においては律令国家や有力寺院などに掌握されており、平安時代も後期になると国家権力は衰え、漆工技術者たちは保護を求めて地方の富豪層のもとに身を寄せたり、山々を漂泊して簡素な漆器作りを行う木地師が出現した。

平安時代末期から中世にかけて爆発的に漆器の普及が始まり、飯椀、汁椀、采椀の組み合わせ(組椀)が食膳の主流となり、富豪層の居館跡と考えられる山岸遺跡からは多量の漆器が発見され、輪島においてもかなり普及していたことが知られている。

中世後期の輪島は大屋荘の中心であり、日本海側を代表する「親の湊」をひかえた中継港湾都市として栄えた。富山湾側の中核集落・穴水町西川島遺跡群御館遺跡から出土した線刻椀(室町前期)には輪島沈金と同じ技法がみられるとともに、顕微鏡分析から珪藻土の下地が確認された。つまり今日の輪島塗の特徴を備えた最古の漆器ということになる。

輪島塗と他産地とを識別する最大の特色は、下地に地の粉(珪藻土)が用いられていることで、これを焼成粉末にして下地塗りに用いるが、微細な孔を持つ珪藻殻の粒子に漆がよくしみこみ、化学的にも安定した吸収増量材になることと、断熱性に優れていることが重要な特色という。

つまり漆とガラス質の微化石・鉱物による固く堅牢な塗膜によって柔らかいケヤキの木地が包まれ、くるい(変形)がなく熱に強い漆器の基礎ができあがる。従来、このような下地技法は江戸時代の寛文年間に生まれたとの伝承から、輪島塗の起源をここに求める考えが定説化していた。

しかし、室町時代にさかのぼる考古資料が発見されたことや輪島市内の重蔵神社に残る1476年の棟札に塗師たちの名前がみえること、1768年に修理された同社奥の院の朱塗扉は、1524年の造替時のものといわれていることなどを総合すると、室町時代には国人領主・温井氏の保護のもとに漆器生産が行われ、小規模な商圏が形成されていたと考えられている。

江戸時代前期の寛文年間には敦賀をへて、京・大阪に販路を広げ、1713年の塗師数は25人、1787年には河井町50人、鳳至町12人、1843年には鳳至町だけで塗師28軒、塗師職人79軒となっている。生産組織も塗師、椀・曲物・指物木地、蒔絵、沈金の6職となり、分業化が進展した。こうして、18世紀から19世紀にはご膳、椀、櫃が、西は山口県(赤間ヶ関)から、北は北海道にまで運ばれており、1841年にはエトロフ島から注文が入るほどだった。このため、漆が不足し、新潟方面から調達した。

明治維新によって大名・武士、公家などの需要を失った京都、江戸、尾張、加賀などの漆器産地は大きな打撃を受けたが、藩のお抱え職人が輪島に移住したこともあって、富裕な農家や商家を主な顧客とし、独自の生産・販売形態をもっていた輪島塗は、生産を発展させた。明治後期から大正時代にかけては沈金の名工が輩出し、片切彫や沈金象嵌などの新たな技術も開発され、伝統的な家具(膳椀セット)の生産に加え、料亭や旅館で使用される業務用の需要を開拓し、製品の種類に変化が生まれた。

1885年には、輪島地の粉(珪藻土)の管理、漆樹の植栽、職人の技術向上をめざして、「輪島漆器同業者組合」が結成され、1903年には河井町の塗師屋は157軒、鳳至町の塗師屋は61軒、1910年には輪島漆器同業者組合加入の漆器業者は255軒を数えた。1927年には「帝展」に工芸部門が新設され、輪島では蒔絵師や沈金師などが帝展を舞台に漆芸作家として活躍をはじめている。

1954年に工芸展が「日展」と「伝統工芸展」に分かれ、1955年に沈金の前大峰(まえ・たいほう、1890-1977)、漆の塩多慶四郎(しおた・けいしろう、1926-2006)が1995年に、沈金の前史雄(まえ・ふみお、1940年生まれ)さんが1999年にそれぞれ国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の指定を受けた。

ふくづかまりさんは1985年東京都生まれ、千葉県船橋市育ち、女子美術大学短期大学部で3年間乾漆技法や塗りなどの技法を学び、都内百貨店の漆器店で5年間販売の仕事に携わり、石川県立輪島漆芸研修所にて2年間、蒔絵などの技法を学び、2015年4月に「URUSHIひとしずく」を開店している。

垣内幸彦さんは1955年石川県輪島市生まれ、沈金師の古坂保さんに10年間師事した後、独立、並行して石川県立輪島漆芸技術研修所で学び、その後「垣内漆芸工房」を開いている。

寺口一代さんは1988年愛知県生まれ、2011年に大学を卒業、2016年に石川県立輪島漆芸技術研修所きゅう漆(きゅうは髪の友を休にした文字)科を卒業、能登市で制作している。

諸石健太郎さんは神奈川県川崎市生まれ、2005年に茨城大学教育学部情報文化課程生活デザインコースを卒業、2007年に高岡短期大学産業造形学科漆工芸コースを卒業、2010年に石川県立輪島漆芸技術研修所普通研修課程きゅう漆科を卒業、「蔦屋漆器店」に勤務、2014年に独立し、

2018年に「YUKAKU 優角」を設立し、高岡クラフトコンペティション2018で「福福」奨励賞、2019年に「YUKAKU工房」を開設、テーブルウェア大賞・オリジナルデザイン部門で「TAYUTA」が入選、石川県デザインセンター選定商品にきもちとかたち「MINAMO」「HEN」「菓子刀」が選ばれ、2020年に国際漆展・石川2020で「福福」が入選している。

諸石優子さんは茨城県結城市生まれ、2004年に足利デザイン工科専門学校建築工学科を卒業、2008年に石川県立輪島漆芸技術研修所特別研修課程専修科を卒業、2011年に同普通研修課程蒔絵科を卒業、卒業前から輪島塗伝統工芸士の惣田登志樹さんに師事し(2012年まで)、輪島漆工研究会に入会、その後、蒔絵などの制作をはじめ、2015年に「橋本幸作漆器店」に勤務し、2019年に退社して独立している。

横山美穂さんは1984年東京都生まれ、兵庫県育ち、2007年に神戸大学文学部人文学科美術史専修を卒業、メーカー勤務を経て、2011年に石川県立輪島漆芸研修所に入所、2016年に同きゅう漆科を卒業、2016年に第56回日本クラフト展で入選、2017年に工芸都市高岡クラフトコンペディション2017で入選し、現在、石川県輪島市にて制作している。

19日11時から17時まで垣内幸彦さんと諸石優子さんが来場する。

29日13時から17時まで諸石優子さんが蒔絵の実演を行い、展示作品の説明や輪島塗について紹介する。

開場時間は11時から19時(最終日は16時)まで。入場は無料。今回の売り上げについては全額が出品者に還元されるとしている。