銀座でパラ五輪PR、上地結衣と斎田悟司がデモ演技、国枝慎吾が解説

【銀座新聞ニュース=2016年5月2日】東京都は5月2日午後、銀座中央通り1丁目と2丁目で「NO LIMITS SPECIAL GINZA&TOKYO」を開いた。

2日午後に銀座で開かれた「ノー・リミッツ・スペシャル 銀座&東京(NO LIMITS SPECIAL GINZA&TOKYO)」で、車いすテニスのデモプレーをする上地結衣さん。

2日午後に銀座で開かれた「ノー・リミッツ・スペシャル 銀座&東京(NO LIMITS SPECIAL GINZA&TOKYO)」で、車いすテニスのデモプレーをする上地結衣さん。

2020年8月25日から9月6日まで東京で開かれる「東京2020パラリンピック競技大会」のPRイベントが「ノー・リミッツ・スペシャル 銀座&東京(NO LIMITS SPECIAL GINZA&TOKYO)」で、1丁目から2丁目の車道を交通止めにして、車いすテニスの国枝慎吾(くにえだ・しんご)選手をはじめ、パラリンピック界を代表する選手と、シドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子(たかはし・なおこ)さんと元女子プロテニス選手の杉山愛(すぎやま・あい)さんらが出演して、MCの久保純子(くぼ・じゅんこ)とともにパラリンピックの魅力を訴えた。

当日は東京都知事の舛添要一(ますぞえ・よういち)さんのあいさつのあと、記念撮影をしてから、1丁目の車道に設けられた臨時のテニスコートで、3月に右ひじの手術をしたばかりの国枝慎吾選手は解説に徹し、高橋尚子さん、タレントの武井壮(たけい・そう)さん、杉山愛さんとともに、上地結衣(かみじ・ゆい)選手と斎田悟司(さいだ・さとし)選手のデモンストレーションプレーを見ながら、ルールなどを説明した。選手による車いすの車輪の角度の違い、フランスの選手が1500万円の車いすを購入した話なども紹介した。

その相手をした斎田悟司さん。

その相手をした斎田悟司さん。

車いすテニスは健常者のコートと同じサイズのコートを使用するが、2バウンドまで許されるなど、健常者のテニスとの違いを説明した。また、デモンストレーションプレーとはいえ、上地結衣選手は斎田悟司選手に打ち勝つと両手を挙げて喜んでいた。

一方、2丁目ではウィルチェアーラグビーの日本代表、池崎大輔(いけざき・だいすけ)選手、今井友明(いまい・ともあき)選手、山口貴久(やまぐち・たかひさ)選手、池透暢(いけ・ゆきのぶ)選手が、ウィルチェアーに乗った一般来場者に、車いすをぶつけて、ウィルチェアーラグビーの激しさを体験してもらった。とくに、一般女性の中には、あまりの激しい衝突に悲鳴をあげる人もいた。

同じく一般人にウィルチェアーに乗ってもらい、選手が衝突する衝撃体験をしてもらう。

同じく一般人にウィルチェアーに乗ってもらい、選手が衝突する衝撃体験をしてもらう。実際のプレーの激しさを想像することができる。

ウイキペディアによると、パラリンピック(Paralympic Games)は、国際パラリンピック委員会(International Paralympic Committee、IPC)が主催する主に肢体不自由の身体障害者(視覚障害を含む)を対象とした競技大会の中で、世界最高峰の障害者スポーツ大会で、2004年のアテネ大会から夏季オリンピックと共同の開催組織委員会が運営するようになった。

起源は1948年7月28日にロンドンオリンピック開会式と同日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で行われたストーク・マンデビル競技大会とされている。戦争で負傷した兵士たちのリハビリの一環として「手術よりスポーツを」の理念で始められた。

ストーク・マンデビル病院には、第2次世界大戦(1939年から1945年)で脊髄を損傷した軍人のリハビリのための科が専門にあり、ドイツから亡命したユダヤ系医師ルートヴィヒ・グットマン(Ludwig Guttman、1899-1980)の提唱により、車椅子の入院患者男子14人、女子2人によるアーチェリー競技会が行われた。

この競技会は毎年開かれ、1952年に国際大会となり、第1回国際ストーク・マンデビル競技大会が開かれた(参加国はイギリスとオランダの2カ国)。1960年に国際ストーク・マンデビル大会委員会が組織され、この年のオリンピックが開催されたローマで、第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開かれ、この大会を現在、「第1回パラリンピック」と位置づけている。

第2回大会は、1964年に夏季オリンピックが開かれた東京で、第13回国際ストーク・マンデビル競技大会が行われた。ただ、大会は2部構成で、第1部が国際ストーク・マンデビル競技大会、第2部はすべての身体障害を対象にした日本人選手だけの国内大会として行われた。現在、国際的には第1部のみがパラリンピック東京大会とされている。

当大会をオリンピック開催都市と同一都市で行う方式は、東京大会後は定着せず中断してしまうが、1972年のハイデルベルク大会で復活した。1976年、国際ストーク・マンデビル競技連盟と国際身体障害者スポーツ機構との初の共催でトロント大会が開かれ、同年、第1回冬季大会、エーンシェルドスピーク大会も開かれた。

1984年のニューヨーク・アイレスベリー大会は当初アメリカの2都市での開催予定であったが、諸事情により2国開催となった。1988年、ソウル大会より正式名称が「パラリンピック」となった。また、IOCがパラリンピック大会に直接関わる初めての大会となり、この大会から再び夏季オリンピックと夏季パラリンピックの同一開催地が復活した。冬季大会が冬季オリンピックと同一都市で開催されるようになるのは1992年のアルベールビル冬季大会からである。

1989年には国際パラリンピック委員会(IPC、本部・ドイツ・ボン)が設立され、これ以後、継続した大会運営が行われるようになった。1998年の長野パラリンピックにおいて、クロスカントリースキー種目だけ初めて知的障害者の参加が認められた。2000年のシドニーオリンピック時にIOCとIPCとの間で正式に協定が結ばれ、オリンピックに続いてパラリンピックを行うことと、IPCからのIOC委員を選ぶことが両者間で決められ、オリンピック開催都市でのパラリンピック開催が正式に義務化された。

一方で、長野大会で参加を認められた知的障害者について夏季大会でも数種目が採用されたが、その中のバスケットボールで、スペインチームが複数の健常者を入れて金メダルを獲得した不正行為が発覚した。これにより金メダルの剥奪だけでなく知的障害者参加のすべての種目が追放され、再び知的障害者はパラリンピックへの道を閉ざされた。

2001年にはIPCとIOCは、スイスのローザンヌで合意文書に調印し、パラリンピックとオリンピックの連携を強化した。2008年夏季大会、2010年冬季大会からIOCはパラリンピックについて運営・経済両面においてIPCを支援し、パラリンピックの構成や保護を強化するとともに、パラリンピック競技大会の組織委員会はオリンピックの組織委員会に統合されることになった。

2012年のロンドンオリンピック時のパラリンピックでは知的障害者に閉ざされていた門戸が12年ぶりに再び開かれ、陸上競技と水泳、卓球の3競技が実施された。しかし、2014年の冬季大会のソチパラリンピックに知的障害者の参加する競技の採用はなかった。

ただ、障害者スポーツの競技大会は、聴覚障害者のためのデフリンピックや、知的障害者のためのスペシャルオリンピックスなど各障害ごとに別々の理念と大会と歴史が存在している。また、パラリンピックは開始当初から車いす選手のために実施されてきた大会であり、障害者スポーツのすべてではない。日本では、従来から厚労省所管となっていたが、文部科学省に移管され、オリンピックとの一元化が図られることになった。

パラリンピックの競技種目は、同一レベルの選手同士で競い合えるようにするため、障害の種類、部位、程度によってクラス分けが行われている。クラス分けは競技種目によって異なるが、陸上競技であれば視覚障害、肢体不自由、知的障害などに大別され、肢体不自由でも原因が脳性麻痺であるか手足の切断であるかなどで区分され、さらに障害の軽重により種目ごとに及ぼす影響で階級化される。

たとえば、肢体不自由などの障害の場合は「LW」などの競技ごと・障害の種類ごとの記号と度合いを数字で表す。障害種は「運動機能障害」「脳性麻痺」「切断など」「視覚障害」「車いす」などがある。現在は聴覚障害者・精神障害者の出場は不可であり、知的障害者に関しては参加可能となっている。