銀座ニコン階段に藤岡亜弥の「雪の原爆ドーム」

【銀座新聞ニュース=2017年2月1日】カメラ大手のニコン(港区港南2-15-3、品川インターシティC棟、03-6433-3600)グループのニコンイメージングジャパン(住所・同、03-6718-3010)は2月1日から28日までニコンプラザ銀座(中央区銀座7-10-1、ストラータ ギンザ、03-5537-1469)内の階段フロアにある「銀座階段ギャラリー」で藤岡亜弥さんの作品を展示する。

2月1日から28日までニコンプラザ銀座内の階段フロアにある「銀座階段ギャラリー」に展示される藤岡亜弥さんの1枚。「負の世界遺産」として後世に原爆の悲惨さを伝える「原爆ドーム」。

ニコンイメージングジャパンが毎月、プロの写真家の撮影した作品1点を展示するのが銀座階段ギャラリーで、2月は広島県に在住して、写真家として活動している藤岡亜弥(ふじおか・あや)さんが撮影した「雪が降る中の原爆ドーム」を展示する。

原爆ドーム(広島平和記念碑)は広島県のさまざまな物産を展示するために「広島県物産陳列館」として開館した建物で、原爆投下当時は「広島県産業奨励館」と呼ばれていた。1910年に広島県会で建設が決められ、1915年4月5日に竣工、8月5日に開館した。設計はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル(Jan Letzel、1880-1925)で、ドームの先端までの高さは約25メートルあり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン(Sezession、分離派、19世紀末にドイツ・オーストリア各都市に興った絵画・建築・工芸の革新運動で、過去の芸術様式から分離して、生活や機能と結びついた新しい造形芸術の創造をめざした)風の細部装飾を持つ混成様式の建物だった。

藤岡亜弥さん

レッツェルを起用したのは、当時の広島県知事の寺田祐之(てらだ・すけゆき、1851-1917)で、前職の宮城県知事時代にレッツェルの設計した松島パークホテルを見て、物産陳列館の設計を任せることを決めたといわれる。同じ頃レッツェルは宮島ホテル(1917年竣工、現存せず)の設計も手がけている。設計料は4575円。当時広島市の土地は坪当たり24銭から4円で、石工の日当は90銭から1円10銭、新橋駅と広島駅間の汽車の運賃は3等で5円17銭、2等7円75銭、1等13円33銭で、広島市の人口は13万人であった。

1919年3月4日から物産陳列館で開かれた「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」では、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われた。これは、第1次世界大戦中に支那の青島で日本軍の捕虜となり、広島湾に浮かぶ似島の似島検疫所内「俘虜収容所」に収容されていたドイツ人の菓子職人カール・ユーハイム(後に株式会社ユーハイムを創業、Karl Joseph Wilhelm Juchheim、1886-1945)が考案した。

1921年に「広島県立商品陳列所」と改称し、同年に第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなり、1933年に「広島県産業奨励館」に改称された。この頃には美術展が開かれ、広島の文化拠点としても貢献した。しかし、1944年3月31日には奨励館業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所となった。

1945年8月6日8時15分17秒(日本時間)、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾「リトルボーイ」を投下、投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル、上空約600メートルの地点(現島外科内科付近)で炸裂した。建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3000度に達した。

0.8秒後には、前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30度時の音速は秒速349メートル)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされた。このため建物は、原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。

ドーム部分が全壊しなかった理由として、1)衝撃波を受けた方向がほぼ直上からだったこと、2)窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと、3)ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であり、銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により、屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったこと、などが挙げられ、ドーム部分は全体が押し潰されるほどの衝撃を受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物(被爆建物)として残った。

広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まり、その中でドーム状の鉄枠が残る産業奨励館廃墟は目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれていた。復興が進む中、全半壊した被爆建造物の修復あるいは除去が進められ、当初は産業奨励館廃墟も取り壊すべきだという意見が多かった。しかし、1949年8月6日に広島平和記念都市建設法が制定されると、恒久の平和を実現しようとする理想の象徴として広島平和記念公園構想が本格化した。

1953年に、所有権が広島県から広島市に移り、産業奨励館廃墟の除去は留保され、1955年には丹下健三(たんげ・けんぞう、1913-2005)の設計による広島平和記念公園(平和公園)が完成した。この公園は、原爆ドームを北の起点として原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館が南北方向に一直線上に位置するよう設計されており、原爆ドームをシンボルとして際立たせる意図があった。

その後、1960年代には風化が進み、崩落の危険が生じ、一部の市民からは取り壊してほしい、との意見があり、一時は取り壊される可能性が高まっていたが、市内の大下学園祇園高校の生徒・楮山ヒロ子(かじやま・ひろこ、1944-1960)が「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」と書き残した日記で、平和運動家の河本一郎(かわもと・いちろう、1923年生まれ)さんや「広島折鶴の会」が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会が永久保存を決議した。

1967年には保存工事が完成し、その後、定期的に広島市が補修工事を行ってきたが、1995年に国の史跡に指定され、1996年12月5日にユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。ユネスコの世界遺産(文化遺産)として、「2度と同じような悲劇が起こらないように」との戒(いまし)めや願いをこめて、特に「負の世界遺産」と呼ばれている。

藤岡亜弥さんは1972年広島県生まれ、日本大学芸術学部写真学科を卒業、1994年に日本大学芸術学部芸術学会奨励賞、台湾師範大学に留学、2004年にビジュアルアーツフォトアワード、ひとつぼ展に入選、2008年に文化庁の新進芸術家海外研修制度の研修員として4年間、アメリカ・ニューヨークに滞在し、2010年に日本写真家協会新人賞、2012年に帰国し、2016年に第41回伊奈信男(いな・のぶお)賞を受賞している。

開場時間は10時30分から18時30分(最終日は15時)。入場は無料。