無印有楽町で独バウハウスの精神を継承する日用品展

【銀座新聞ニュース=2017年2月17日】「無印良品」を展開する良品計画(豊島区東池袋4-26-3、03?3989?4403)は2月17日から4月27日まで「無印良品有楽町店」(千代田区丸の内3-8-3、インフォス有楽町、03-5208-8241)2階の「Found MUJI」で企画展「Germany From 1919」を開く。

2月17日から4月27日まで「無印良品有楽町店」の「ファンド・ムジ(Found MUJI)」で開かれる「ジャーマニー・フロム1919(Germany From 1919、1919年のドイツ)」で紹介される現代ドイツのイメージ。

1919年にドイツ・ワイマール(1949年から1990年まで東ドイツ)に「バウハウス(BAUHAUS)」が開校して、まもなく100年が経とうとしている。バウハウスは、造形的作業は最終目標を建築とするという考えのもとにスタートし、デザイン、工芸、美術、芸術や演劇などさまざまな要素を結びつけ、世界に多大な影響を与えることになるデザイナー、建築家、舞台美術家、芸術家を数多く輩出したことで知られる。

1933年に学校が閉鎖された後も、その哲学を受け継ぐ人々によって20世紀の生活様式に影響を与え、身近なところにもバウハウスの精神や考え方が感じられる「もの」や「こと」があるかもしれないとしている。良品計画では、新しいものを発見する「ファウンド・ムジ(Found MUJI)」で、プロデューサーの中原慎一郎(なかはら・しんいちろう)さんと旅し、見つけてきたバウハウスの精神を継承すると思われる、耐熱ガラス、ビアマグ、ビールジョッキ、ブラシ、ノート、磁器ポット、ゆで玉子割り、木製動物などさまざまな生活用品をドイツの文化とあわせて紹介する。

ウイキペディアによると、バウハウスとは、1919年にドイツ・ワイマール(ヴァイマル)に設立された、工芸、写真、デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った国立学校で、その流れを汲む合理主義的、機能主義的な芸術を指すこともある。

バウハウスはドイツ語で「建築の家」を意味し、中世の建築職人組合である「バウヒュッテ (Bauhutte、建築の小屋)」という語を、建築家で「バウハウス」の創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めたヴァルター・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius、1883-1969)が現代風に表現した。

元来はドイツ帝国のワイマール大公ヴィルヘルム・エルンスト(Wilhelm Ernst von Sachsen-Weimar-Eisenach、1876-1923)がベルギーの建築家でアール・ヌーヴォーに造詣の深いアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(Henry van de Velde、1863-1957)を招いて、1902年に私設の「工芸ゼミナール」を設立させたことにはじまる。これが1908年に「大公立美術工芸学校」に発展し、1911年にはヴェルデ設計による工芸学校の校舎が建てられた。

ところが、1914年にヴァン・デ・ヴェルデがケルンでのドイツ工作連盟展で、英国のアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受け、規格化を重視したドイツ工作連盟のヘルマン・ムテジウス(Adam Gottlieb Hermann Muthesius、1861-1927)と衝突し、1915年にドイツを去ることになり、工芸学校をグロピウスに託した。

第1次世界大戦(1914年7月から1918年11月)後にドイツ革命(1918年11月3日から1919年8月11日)が勃発、ドイツ帝国が崩壊して大公の統治が終わり、ワイマール共和国が成立した。これに伴い、1919年に工芸学校と美術学校が合併して「国立バウハウス・ワイマール」が設立(ヴェルデ設計の旧工芸学校の校舎を使用)され、同年に「バウハウス創立宣言」が出された。

予備課程を担当したスイスの教育者、ヨハネス・イッテン (Johannes Itten、1888-1967)の方針から、初期の教育内容は、合理主義的(機能主義的)なものと表現主義的(神秘主義・精神主義的、芸術的、手工業的)なものとを混合した。1922年にソ連の高等芸術学校ヴフテマス(1920年から1930年)から招いたワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866-1944)がロシア・アヴァンギャルドの構成主義的な造形教育をはじめ、グロピウスがオランダのデ・ステイル(De Stij、テオ・ファン・ドースブルフ=Theo van Doesburg、1883-1931=が絵画よりも建築を重視し、垂直と水平だけでなく、対角線を導入した要素主義=エレメンタリズム=を主張)の影響を受け、より合理主義的・機能主義的な考え方をとるようになった。

しかし、グロピウスとヨハネス・イッテンが対立し、1923年にイッテンがバウハウスを去り、ハンガリーを亡命したハンガリー・アヴァンギャルド構成主義者で、1919年からバウハウスで教鞭をとり、1923年に教授に就任したモホリ=ナジ・ラースロー(Moholy-Nagy Laszlo、1895-1946)が予備課程を担当した(1928年に辞任)。これにより、合理主義・機能主義が、バウハウスの中心的な教育傾向となり、これは工業デザインや大量生産に合致した。

やがてワイマールのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転、「デッサウ市立バウハウス」となった。「デッサウの校舎」(1926年)はグロピウスが設計したもので、グロピウスはスイスの建築家、ハンネス・マイヤー(Hannes Meyer、1889-1954)を後任に指名し、1928年に校長を退いた。学校はナチスにより1933年に閉校され、わずか14年間しか存在しなかったが、その活動は現代美術に大きな影響を与えた。

マイヤーは唯物論の立場から「バウエン」(Bauen、建築、構築)を唱え、すべてを規格化、数値化、計量化し、合目的性、経済性、科学性を重視させた。これによりドイツ表現主義的な審美性はなくなり、造形の呼称は「美」に代わって「形成」 (Gestaltung) とされた。マイヤーの手腕によりバウハウスは初めて黒字を生み、国際的な評価が高まり、同校のデザイン活動は最高潮に達した。1929年6月に共産主義者のマイヤーの後援でバウハウス内に「ドイツ共産党細胞」という同好会が結成され、バウハウスはナチスら右翼勢力に敵視されるようになった。

1930年にマイヤーが解任され、建築家のルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、1886?1969)が校長に就任、1932年にデッサウ校が閉鎖され、ベルリンへ移転して私立学校になった。ミース・ファン・デル・ローエの方針はマイヤーの「バウエン」を継承しつつも、政治色を払拭するものだった。しかし、1933年にはナチスにより閉校される前に、ミース・ファン・デル・ローエにより解散された。

グロピウスはバウハウス閉鎖後、事務所にいた日本人建築家、山口文象(やまぐち・ぶんぞう、1902-1978)とともにドイツを脱出、1934年に英国に亡命し、山口文象は日本に帰国した。マイヤーはソ連に亡命し、ミース・ファン・デル・ローエは1933年にアメリカに亡命した。1996年にワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群の一部として、世界遺産(文化遺産)に登録されている。

ワイマール校舎は、旧東ドイツの時代は建築・土木工科大学として機能し、東西併合後にバウハウスの流れを汲む国立の総合芸術大学としての再編が計画され、1996年に建築、土木工学、アート&デザイン、メディアの4領域を有するバウハウス大学として、改めてバウハウスの名を掲げた。また、日本で最初にバウハウスへ留学した人物としては、東京美術学校助教授だった水谷武彦(みつたに・たけひこ、1898-1969)が知られ、帰国後、美術学校でバウハウス流の造形教育を行った。

開場時間は10時から21時。