インドで息子と同居、苦しい1年半の日印文化衝突を乗り越える(93)

(著者がインドから帰国したので、タイトルを「インドからの帰国記」としています。連載の回数はそのまま継続しています)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2022年4月8日】出発まで、コロナ下のアブノーマル帰国に関する手続きのほか、家の片付けなどの雑用に追われたが、いざ帰るとなったら、34年に及ぶインドの移住地プリー(Puri)に対する愛着未練、息子を後に残していくことの憂慮、さまざまな執着が押し寄せて参った。

第3波収束とともに、仕事のオファーが殺到したわが息子は、インドではプロのラップミュージシャンとして活躍(芸名Rapper Big Deal)、芸能人だけに交友関係が派手だ。

良いことの前には必ず、お試し体験とも言えるネガティブな事象が起きると知っていたが、これは私にとっては、かなりきつい試練だった。

特に息子への愛着に悩まされた。避難帰省していた息子とこの1年半、思いがけず同居することになり、ホテル経営や日常の買い物などを助けてもらい、喧嘩もしょっちゅうしたけど、共依存の濃密な時間を分かちあっていただけに、愛着が湧いてきて離れ難い未練に苦しめられた。

彼にとっても、この2年間はハードな日々で、音楽活動もままならず、心身の不調に悩まされることもあり、私が昵懇にしているヨガのインストラクターに個人レッスンを授けてもらったりしていたのだ。自身も体調不良に悩まされ、母子共に、試練の連続だった。ホテルは休業要請で閑古鳥、商売として立ち行かず、私たちは世界で1番大切な人を2人喪っていた。

息子は、コロナ前の2019年11月に父を、2021年8月に養母の伯母(父の姉)、私は同じく2019年11月に夫を、2021年10月に日本の母を亡くしていた。私は、夫は愚か、母の死に目や葬儀にも参列できなかったのである。世界でもっともかけがえのない存在2人と最後の対面はおろか、葬儀参列も叶わなかつたことは、私の心に深い傷を残していた。

息子とは、そんな辛く悲しい日々を支えあってきたのだ。かといって、べったりの日々を送っていたわけでもない。世代の差があり、芸能人で関係者の出入りが激しい彼とは、まったくライフスタイルが異なり、アジャストするのに苦労したものだ。私は静けさを好み、独りの時間を愛したが、息子は正反対、孤独に弱く、常にちやほやされていないと寂しい、田舎には友達がいないと常々不平を漏らしていた。

1年半の共同生活中、息子の友人と称する若い家族や男友達、ガールフレンドまで、私は常に外部者の脅威に晒されていた。正常時ではない、得体の知れないウイルスが跋扈(ばっこ)しているさなか、息子の友達といえども、愛想よくできるわけがない。

現地の医療システムに不信感を抱く外国人の私は、病気になっても医者にかかれないため、自らを守る必要があった。息子にとっては、親しき仲間でも、異人の私にとっては、キャリアかもしれないアウトサイダー、必ずマスク着用で最小限のあいさつにとどめ、3階の自室(息子の部屋は2階)で隔離を固辞し続けた。

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3キロほど離れたところに住む伯母(夫の姉)一家も、感染爆発時には、我がホテルに避難してきて、気を遣った。私は最小限のコミュニケーションにとどめ、自宅で隔離体制を崩さなかったが、同じ敷地内に日頃付き合いのほとんどない親族がいるというだけで、緊張するものだ。

息子にとっては幼少時育ててもらった伯母一家は家族同然、養母として慕う伯母のことを何かと気遣い、彼らと過ごす時間が大半で、私は疎外感に襲われた。息子を向こうに取られたようで、孤独感や寂しさを募らせた。

かてて加えて、パンデミック(世界的大流行)をものともせず、息子を遠方から訪ねる友人一派、つまり、息子との同居は、我が身の安全が脅かされることでもあったのである。特に日本の母が亡くなってまもなく、息子がバンガロールから呼び寄せた親友を家に引き込んで、2カ月近くも長逗留されたのには参った。1人静かに喪に服する時間を奪われたことはなんと言っても、しんどかった。

亡くなった夫は寡黙な質で、自立心旺盛、互いのことには干渉しない主義、空気のような存在で一緒にいて楽だったが、降って湧いたような息子との共同生活では、若い子どもに振り回され、いろいろと我慢しなければならないことも多かった。

そうなってみて初めて、夫の生存時、家で我が物顔に女王のように振舞っていた私こと妻に、夫は我慢を強いられていたのかもしれないと気づかされたが、その逆転のしっぺ返しをわが子から受けようとは思ってもいなかった。

少なくとも、夫は地味で性格的には日本気質も持ち合わせ、私とはうまかあったと思う。息子には日本人の血が半分流れているが、インドで生まれ育ったせいで典型的インド気質、若さゆえの華やかな活動、派手な交友関係もあって、独りを好む私には、一緒にいてきついタイプだった。世代の差に日印カルチャー衝突、険悪な空気になった一時期もあった。

(「インド発コロナ観戦記」は、前回(92)から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、今回からインドからの「脱出記」で随時、掲載します。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子はラッパーとしては、インドを代表するスターです。

2022年4月1日現在、世界の感染者数は4億8844万0819人、死者は614万3133人(回復者は未公表)です。インドは感染者数が4302万5775人、死亡者数が51万1181人(回復者は未公表)、アメリカに次いで2位になっています。編集注は筆者と関係ありません)。