丸善日本橋で中村いすず「天草更紗」展、自ら復興

【銀座新聞ニュース=2022年5月18日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は5月18日から24日まで3階ギャラリーで中村いすずさんによる「南蛮の風 天草更紗ーポルトガルへ想いを寄せて」を開く。

丸善・日本橋店で5月18日から24日まで開かれている中村いすずさんの「南蛮の風 天草更紗ーポルトガルへ想いを寄せて」に出品される天草更紗。

染織家で「天草更紗 染元 野のや」(熊本県天草市佐伊津町2212-2、0969-24-8383)を主宰する中村いすずさんが再現した「天草更紗」の作品を展示販売する。

「天草更紗 染元 野のや」によると、「更紗(さらさ)」とは海外から舶載(はくさい)された外来の模様布のことで、安土桃山時代(1568年から1600年)にポルトガル人などがヨーロッパや中近東、インドなどの更紗を、長崎出島を通じて天草に伝えたとされている。その後、江戸時代(1603年から1868年)に入り、技術を身に付けた職人の手で本格的に天草更紗が制作されはじめ、庶民に愛される布になっていったとされている。

その後、後継者がなく途絶えていた時期もあったが、本渡(現天草市)の中村初義(1885-1970)が中村染工場を開業し、本格的に天草更紗の復興に取り組み、1922(大正11)年に「天草共進会」に初めて更紗を出品し、1933(昭和8)年の熊本工芸展で完全復興を遂げ、熊本県より1964年3月10日に重要文化財に認定された。しかし、1965年以降、中村染め工場が閉鎖に追い込まれ、天草更紗は途絶えた。

平成に入り、中村いすずさんの元に天草市長や文化協会から復元の依頼があったが、天草更紗の型(独自性のある残存更紗裂(きれ)もない)は一切残っていなかったため、郷土史家などが収集していた資料を手掛かりに復元に取り組み、苦労しながら、2002年に「平成の天草更紗」として再び復興した。

中村いすずさんは天草で更紗を染めることは戦前の手技を取り戻しつつも、現代に合った新しいシステムを制作することと考えている。野のやは、これを「平成の天草更紗」とし、野のやが手がける商品は「平成の天草更紗」として新たに復興している。

ウイキペディアによると、「更紗」とは、インドが起源の、木綿地に多色で文様を染めた布製品をさす。また、その影響を受けてアジア、ヨーロッパなどで制作された類似の文様染め製品もさす。大航海時代(1415年から1648年)にインドから各地へ広がり、日本ではインド以外の地域で制作されたものを、産地によりジャワ更紗、ペルシャ更紗、日本産は和更紗などと称した。

ただ、日本で「更紗」の名で呼ばれる染織工芸品には、インド更紗のほか、ジャワ更紗、ペルシャ更紗、シャム更紗などさまざまな種類があり、何をもって「更紗」と呼ぶか、定義を確定することは困難とされている。一般にはインド風の唐草模様、樹木、人物などの文様を、手描きや蝋防染を用いて多色に染めた木綿製品を指すが、日本製の更紗には木綿でなく絹地に染めた、友禅染に近い様式のものもある。

1778(安永7)年には更紗の図案を集成した「佐良紗便覧」が刊行されており、茶人、武家など富裕な階層に独占されていた更紗が、この時代には広く普及し始めたことがわかる。

「和更紗」で、早くから作られたものに鍋島更紗があり、江戸時代後期になると日本各地で更紗の模倣品が制作されるようになった。天草更紗、長崎更紗、堺更紗、京更紗、江戸更紗などが著名である。文様の表出には、手描きや木版のほか、日本独特の技法である伊勢型紙を用いた型染めがある。

「天草更紗」は江戸時代末期の文政年間(1818年から1830年)に始まったとされるが、染織工芸家の大和田靖子さんの40年以上かけた研究「天草更紗の検証」(2010年9月発表)と「天草の更紗」(2014年5月発表)によると、江戸時代、オランダや中国から長崎経由で輸入される際に長崎奉行が鑑定・評価する手本として幅2寸(6.06センチメートル)ほどの切れ端を「端物切本帳」に貼り付け、荷札のサンプルを作成した。

それが現在、東京国立博物館や長崎歴史文化博物館などに残っている。旧家の大庄屋松浦家(天草市天草町)や武田家(天草郡苓北町)などに残る更紗を1点ずつ、「端物切本帳」の模様と布地を照らし合わせた。

その結果、輸入更紗とそれを真似て日本で作られた和更紗の2種類に分類できることが分かった。 さらに型紙も発見されず、鍋島更紗などと肩を並べるような独自性のある「これぞ天草更紗の技法なり」というものは見当たらず、更紗の中で特別のものとするには無理があると疑問視し、結論づけている。

昭和の初めから1950年代にかけて復興更紗として注目を浴びた中村初義は、染料を混ぜた糊「色糊」を使用した型染めで、明治以降ドイツから化学染料が輸入された後、染めの加工工程を簡略化し、安くて大量生産の技術を用いたものであった。

中村初義は1964年熊本県の無形文化財に指定(1975年に指定解除)されるが、大和田靖子さんは「例え更紗の模様であっても技法が伴わなければ厳密な意味で、更紗ではなく、『更紗模様』『更紗風』と表現して然るべき」としている。

近年、「天草更紗の復興・復活」という言葉でもって江戸期の更紗と関連付けるような印象を与える天草更紗創作の動きもあるが、「技法が伴わなければ更紗ではない。本来ならば植物染料を刷毛で摺り込むのが本当で、糊に色を混ぜてヘラで型に摺り込む技法は江戸時代にはなかった」と疑問視する(「天草更紗の検証」)。

和更紗は、元は男性の下着や、女性用の帯、和装小物、風呂敷、布団地などに用いられ、素材はインド更紗と同様に木綿が原則であった。しかし、大正時代末期頃から更紗文様が絹製の帯などにも染められ、更紗が着尺にも染められるようになり、更紗の着物が普及するようになるのは第2次世界大戦(1939年から1945年)後のことであるが、これは文様が「異国風」であるという点以外、一般の着物と大差ないものとしている。

中村いすずさんは2002年に工房「天草更紗 染元 野のや」を設立、代表を務めている。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日17時)まで。