郷里で母の墓参りと夫の散骨、肩の荷下ろし、夢はイベリアへ(104)

(著者がインドから帰国したので、タイトルを「インドからの帰国記」としています。連載の回数はそのまま継続しています)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2022年8月9日】帰国からひと月半が過ぎた4月22日と23日、昨年10月他界した母の墓参りと、2019年11月に急死した夫の散骨をやっと、郷里福井で済ませることができた。

福井県の北端、三国港の北3キロの地点にある景勝地・東尋坊。岩に刻まれた名前は平泉寺(勝山市)の悪僧に由来する。怪力で民に悪事の限りを働く東尋坊に手を焼いた仲間の僧が結託して、海辺に誘い出し、切り立った岩場で酒盛り、泥酔させて恋敵の僧に断崖から突き落とさせたとの伝説が伝わる。

帰福にあたって、薬局で前日無料抗原検査、親族に会うためと、旅割で市内のいいホテルに泊まるためだ(近県者はワクチン3回接種証明<県人は2回>か陰性証明要)。

22日のお昼、とるものもとりあえず、次弟の車で足羽山の西墓地に向かった。金沢から持参した花を手向け、母の好物だったクリームパンやゼリー、エクレアをお供えして合掌、脇の墓碑に刻み込まれた母の法名、「釈静楽」が真新しく浮き上がっているのにも、掌を合わせた。石の前で拝んでも、形骸というか、虚しく、供物も本人に食べて貰えないと思うと、寂しかった。

来月は母の日、買い求めた花の中に赤いカーネーションが3輪混じっていたのを、少し早いけど、母は喜んでくれたろうか。

我が胸の中で母は生き続け、日頃祈りを捧げているので、冷たい墓石の前で手を合わせるだけの上滑りな儀式は、虚しいと感じただけだったが、帰国を報告し、危篤時はおろか、葬儀にも駆けつけられなかった親不孝を詫びて、形だけとはいえ、肩の荷が降りた。

「木の芽屋」というそば処に入り、山菜そばと田楽に舌鼓を打つ私の目の前の全面ガラス窓越しに、咲き残った八重桜のピンクの花びらが、春風にはらはらと舞い落ちる。もう桜は無理だと諦めていたが、思いがけず、故郷の桜時雨が楽しめた。冥土の母が、やっと帰ってこれた娘を歓迎してくれているような気がした。

今夜の宿泊先は、福井駅から徒歩10分のフジタホテル。福井県は、近隣の県にも割引サービスを広げており、おかげで私は、3650円という半額で泊まれたばかりか、2000円のクーポン券までもらえた。

東尋坊の断崖は俗に、自殺の名所として名高い。切り立った岩場は中ほどまで歩けるようになっているが、奥は危険防止区域のようで、崖から渦巻く海面を見て足がすくむ思いをした昔よ、いずこ。なお、右端の沖にわずかに見えているのが、雄島。

が、初めて試したフジタは期待に反して、使い勝手が悪く、室内は普通のビジネスホテルと変わらず狭めだった。ただし、14階の部屋からは、福井の街並みが見下ろせ、眺望抜群だった。”浦島太郎”の私にとっては、福井じゃないようなモダンなビル街の夜景を肴に独りワインも楽しめた。1階のロビーで、知人・友人とも、短時間ながら久々の再会を果たせた。

夜の街をぶらついて、2024年の来たる新幹線開通に向けての再開発で駅前が工事中で著しく変貌しているのには驚かされた。

翌23日は、亡夫の散骨に友人の車で東尋坊に向かった。日本海の荒波や風で侵食されてできた荒々しい岩肌が続く景観は、国の名勝、天然記念物だ。何十年かぶりに訪ねた別称「自殺の名所」は、若い時見た迫力に欠け、切り立った断崖も(一番高いところで25メートル)、往時は怖かった印象があるが、こんなもんだったかと、ちょっと拍子抜け。が、曇りがちとはいえ、日本海は文句なしに美しかった。

風が強いので、崖の上から散骨するのは諦めて、友人の提案で東尋坊の沖合いにある無人島、雄島(おしま)に行くのに渡る丹塗りの橋の上から落としたらどうかという意見に従った。雄島の面積は東京ドーム2個分ほど、1300万年前に噴出したマグマが冷え固まって形成されたそうで、東尋坊同様、越前加賀国定公園に含まれている。

1370年前に創建されたという由緒ある大湊(おおみなと)神社の鳥居を潜り抜けた後、長く急な石段を上って、拝殿並びに本殿へ。古来、航海の安全や豊漁を祈願する信仰の対象となってきたお社(やしろ)に、夫の散骨に参りました、よろしくお願いいたしますと恭しくごあいさつ、島は1周2キロ、散策できるようだったので、鬱蒼(うっそう)とした林の中をおぼつかなげな足取りで歩き出した。

半分くらい行って、見晴らしのいい岩場に出た。板がいくつも重ねられたような広々した岩場からは日本海が一望のもとに見渡せる。海は霞んでミルクブルーにもやっているが、美しい。眺望を愛でた後、引き返し、橋に戻って、中ほどのところで立ち止まり、小さな骨のかけらを凪(な)いだ海面目掛けて放った。シナモンスティックのかけらのような軽くて小さい骨の一片はちゃぽんと海中にのめり込んだ。

あれは2019年12月、夫の死後ひとつ月ほどたって、インドに戻った私の夢の中に故人は現れて、「もう一度福井に行きたかった」と、悲願を漏らしたのた。以来、夫の遺骨の一部を福井の日本海に散骨しようと思い続けてきた。

2019年に急逝した夫の遺骨の一部を、東尋坊沖に浮かぶ神の島、雄島へと渡る赤い橋(雄島橋、全長224メートル)の上から散骨、風に戻されることもなく、小さな骨のかけらは穏やかな海中に消えていった。

コロナ禍で妨げられたが、このたびやっと、夫の福井再訪の悲願を、肉体が滅びた後の遺骨という形だけど、果たすことができ、母の墓参り同様、ほっと肩の荷が降りる思いだった。

足となることを買って出てくれた友人には、感謝の言葉しかない。すべての儀式を終えた後は、寂しさが窮まった。かけがえのない家族2人を亡くしたことの悲哀や孤独感がひしひしと、帰りの車中で込み上げてきた。

〇奇跡の帰国旅程を改めて振り返って、渡りカラスはイベリア半島をめざす

帰国してはや4カ月半が過ぎたが、改めて振り返っても、ベストタイミングで帰ってこれて本当にラッキーだったと思う。長い隔離期間中「天任せ」の極意を学んだことが功を奏したようだ。不可抗力の事態に遭遇したとき、ちっぽけな人間の力ではどうにもできない。じたばたせずに、神様に下駄を預けてしまうこと、いわばサレンダーの境地だ。

頭で考えて四苦八苦していたときは、事態が悪化するばかりだったが、天任せになってからは、随分と気持ち的に楽にもなったし、膠着状態だった現実も徐々に好転し始めた。流れに身を委ねるだけで、勝手に周りが動き始め、帰国の日取り、「3月10日」が啓示のように天から降ってきた。

72時間前陰性証明が最大のネックだったが、それも絶好のタイミングで領事館からのヘルプが入り、難なくクリアできた。私はただ、天から降ってきたチャンスを逃さず、行動しただけである。

人知外の力が働いていたように思う。空港での長時間待機は免れ得なかったが、隔離ホテルの快適さといい、その後の帰省まで、何かに守られているように、思ったよりスムーズに進んた。

私が帰着した3月11日時点では、インドからの帰国者は、3日隔離が必要だったが、それから1週間とたたないうちに隔離免除となったことに対しても、広くて眺望のよい隔離ホテルで旅の疲れを癒せ、スマホ越しの厄介な厚労省への健康チェックをホテル任せでパスできたので、隔離なしで直帰するよりずっとよかったと思っている(住まいの金沢のマンションはWiFi未装備)。

随分と、天に助けてもらった。羽が生えたばかりの渡りガラスは、おっかなびっくり宙に飛び出したが、無事黄金のジパングの金の沢(昔犀川で砂金が取れたことが金沢の地名の由来。今も辰巳橋周辺で砂金が取れるらしい)に辿り着き、ほどなく黄金のチェリーブラッサムを満喫できた。

金の渡りガラスの次の目的地は、イベリア半島、インドのゴールデンパームツリーからジパングのチェリーブラッサム、そして、スペインのオリーブの木、太陽に顔を向ける金のひまわり畠へ、夢の飛翔が叶う日を待ち望んでいる。

著者注:3月11日成田着から4月22・23日の郷里福井での母の墓参りと夫の散骨まで、42日間の帰国後の感慨を綴ってきたが、ひとまずこれで終結し、今後は折々の日印比較コロナ観戦記を始め、書評・旅ルポ、徒然の随想並びに、母の1周忌報告などをお送りしたい。まだまだ続く連載記事、今後ともご愛読のほどくれぐれもよろしくお願い致します(モハンティ三智江)。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からインドからの「脱出記」で随時、掲載します。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子はラッパーとしては、インドを代表するスターです。

2022年8月3日現在、世界の感染者数は5億8059万9619人、死者は640万9680人(回復者は未公表)です。インドは感染者数が4408万7037人、死亡者数が52万6530人(回復者は未公表)、アメリカに次いで2位になっています。編集注は筆者と関係ありません)。