ライブラリー夜話 クルーズ船X

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2023年1月6日】金沢港クルーズターミナルに着いたとき、細かい雨が本降りになりかけていた。私はバスから降りると、傘を差して建物の脇の道から埠頭に出た。

遠目からも見えていた大型客船は目前にすると、圧倒的な迫力で迫ってきた。2年前に新設されたこのクルーズターミナルに客船が寄港するのは初めてらしかった。

昨夜は地元民のためのワンナイトクルーズに出て午前中に戻ってきて、夕刻には出港すると聞いていた。次の寄港は9月とのことだったので、見逃すまいと雨を押して出かけたのだ。

私は海外在住だが、7年前に金沢市内に中古マンションを購入し、帰国時のベースとして使ってきた。が、この2年以上世界を襲った疫病流行のせいで、出入国が至難になり、帰れずにいたのである。3月半ばにやっと、金沢入りし、以来、日本にとどまっている。

客船には、下手にロープが張られ近づけないようになっていたため、霧雨にけぶる雄姿をしばし仰いだ後、屋根が日本海の波をかたどってカーブしたガラス張りのターミナルビルに入った。

昨日の日曜は入港したクルーズ船を歓迎すべく、地元民か踊りで歓待、色風船が飛ばされたらしいが、今日は見学客も少なく、がらんとしていた。

展望デッキ室に出ると、目の前に巨大な船体が視界を占拠するように居座って、改めてその威容に圧倒される。船は黒塗り、縁に赤い線が入っている。ルーフも入れると、八層の造りのようだ。橙のファンネル(煙突)が可愛らしく、船首には日の丸旗が閃いていた。

欄干から身を乗り出しながら見つめていると、少し離れた脇で盛んにハンカチを振っていた女性が近づいてきた。
「昨夜のワンナイトクルーズでお会いしましたわね」

女性は黒のつば広の帽子に、同じ黒のレースのミディ丈のワンピースを纏って、そこだけ白いレースのハンカチーフを握りしめながら、言った。
「いえ、あの、私は」
人違いですと言いかけて、さえぎられ、
「昨晩のコース料理は、最高でしたわね。旬の食材を活かした前菜、メインは能登産の黒毛和牛のステーキ、お肉が柔らかくてジューシーで、シャンパンが進みましたわ。それにあのデザートときたら」

女は私に口を差し挟ませずに、うっとり夢見るような目つきで、ジェラートやプチケーキ、抹茶プリンがひと皿に盛られたデザートがいかにボリュームたっぷりで美味だったかを、延々と讃えている。

「あなたも、お別れに参ったんでしょう。ほら、あそこの円(まる)窓に白の制服姿のコックさんが見えるわ、昨日のシェフかもしれなくてよ」
白い手に握り締めたハンカチーフをまたしても、船に向かって盛んに振り出した。

私はそのとき、なぜか申し開きをする気力を失って、女性が昨夜、船内で会った同乗客の振りをすることにした。どっちにしても、この独りよがりな一風変わった女性は、違うと言っても受け入れないだろう。

頭から私が昨日会った客だと思い込んでいる、というか、思い込みたがっている、その芝居に一枚噛んでもいいと思った。人生、どうせ退屈なんだ、海外で長い隔離生活を強いられただけに、私はこの未知の女性が振りかけるスパイスをひととき楽しむことにした。

きっと、彼女は、誰でもいいのだ、話し相手が欲しいに違いない、昨夜の同乗客というのは大義名分、口実だ。なら、喜んで乗ってやろう。

それに、彼女にはなんというか、不思議な雰囲気が備わっていた。浮世離れした、謎めいた感じ、明らかに地元民でないとわかるソフィスティケートされた異国情緒ムード。私はアジアに居住していたが、この女性はヨーロッパ辺りにベースがありそうだ。もしかしたら、あの沈没したタイタニック号から抜け出してきた富豪夫人?とでも思わせるような、この世のものならぬ雰囲気がまとわりついている。

「ねぇ、あなた、あの船が東南アジア青年交流の船に使われていたって、知ってらっしゃる」
女が意外なことを言い出した。

「え、そうなんですか?」
それは初耳だった。

「今のモデルは3代目、主人とは青年の船で知り合ったのよ」

船を繋いでいたロープが外され、いよいよ離岸のときが来た。ハンカチを振り続ける女に触発されたように、私も盛んに手を振り始めた。すると、乗組員が手を振り返してくれるのだ。それがうれしくて、私は両腕を掲げると、大きく振り回した。見物客はみな、手を振り、乗組員は愛想よく応えている。

ふと、送る側でなく、見送られる側になりたいと思った。
「船にはお客さんはいませんね。どこへ行くんでしょう」
「函館らしいわ」
「北海道かぁ、いいですね」

こっそり潜り込ませてもらって、密航というわけにはいかないだろうか。あの映画「タイタニック」の主人公・ジャックのように、船倉にこっそり忍び込む妄想に取り憑かれる。その妄想をかき破るように、海上の空に汽笛が鳴り渡った。橙色のファンネルから白い煙がたなびいている。

大型客船はゆっくりと、岸を離れる。白とグレーの羽が美しいカモメが船の周りをしきりに飛び交う。

「あぁ、行ってしまうわ」
女が涙声で放ち、手にしていたハンカチを目元に当てる。

「私、船を見送るとき、いつも涙が出てきちゃうのよ」
岸を離れた船は徐々に、小さくなっていく。女はいつまでも、デッキに立ち尽くしていた。

私は中に入り、海に臨むレストランでコーヒーを飲んだ。ライトアップタイムまで粘るつもりだった。

1時間後にデッキに出ると、女の姿はなかった。きっと、帰ったのだろう。不思議な女(ひと)だった。まるで異界から紛れ込んだかのような。年齢不詳の妖艶な雰囲気を携えていた。

夜の端緒が被さったとき、デッキのフロアに一定間隔に埋め込まれた丸いライトが灯り、港全体が明るいこがね色の輝きに包まれた。黄色から赤、青、緑と色を変えて、ライトアップされた港や橋、灯の点った貨物船、クレーンは幻想的で美しく、感嘆の息が洩れた。

最後に辺り一帯が紫に染まったとき、雨に濡れた舗道にゆらゆら波のようなパープルライトが浮かび、見とれていると、紫の靄を割って、銀色に光る小型客船が現れた。

目の錯覚かと、何度こすっても、シルバーに輝く小さな客船は徐々に輪郭を明瞭にしていく。雨はいつしか、止んでいた。

船底の乗降口が開いて、仮設桟橋が渡され、中から乗組員が三々五々姿を見せ始めた。そのうちのロマンスグレーの紳士に、波止場からいきなり駆け寄る人影があった。紫の光からこがねに変わるグラデーションに、黒いドレスが不思議な色調に光り輝いた。

2人は熱く抱擁し合い、接吻を交わしている。濡れた舗道に、女の手から落ちたハンカチが、浄らかな白薔薇のようにふわりと盛り上がった。

女が待っていたのは、この男、だったと知って、私は踵を返した。下手な脇役は消えるのみだ。急いで、バス停に向かう。ところが、最終バスは出た後だった。

どうしようかと途方に暮れていると、背後から肩を叩かれた。
「よろしかったら、僕の車に同乗なさいませんか。街まで送って行きますよ」
ベージュの背広姿の温厚そうな紳士が立っていた。さっきデッキから見下ろした男のような気がして、とっさに黒いドレスの女を探したが、どこにも姿は見当たらなかった。紳士の好意に甘えるしかない。

黒いリムジンまで案内された。レディーファーストの完璧な作法で乗り込まされる。
「もう1人来ますんで」
と紳士が言い、矢庭に現れたのは案の定、あの黒いドレスの女だった。

「仰せの通りに、彼女をバス停で拾ったよ」
「ありがとう。昨夜のワンナイトクルーズで同乗した方よ」
「バスがなくて、お困りのようだったから」
私の頭越しに2人は会話を交わし、お抱えのドライバー付きのリムジンは出発した。

2

私は繁華街で降ろしてもらうつもりだったが、紳士がどうしても夕食をご馳走すると言ってきかない。送ってもらった上、ご馳走にまでなっては申し訳ないと、何度も辞退したのだが、相方の女が口を差し挟んだ。
「乗船時間が2時間後に迫っているから、上陸地で束の間2人の花に囲まれて楽しく会食したいのよ。ご迷惑でなかったら、どうぞ付き合ってやって」

連れていかれたところは金沢一の高層ホテルの上階に入った高級寿司店だった。カウンターの後ろの嵌めガラス越しに丹精された箱庭を見ながら、極上の寿司をビールやワインとともにつまんだ。

紳士は饒舌で若い頃アジア青年の船で立ち寄ったラオスやカンボジア、タイの思い出話をした。
「私たちの馴れ初めのあの船で、一晩クルーズを楽しみ、最後まで見送れて感無量だったわ。この人ときたら、どこへとも知れず消えて、いつまでたっても私のもとへ戻ってこなかったんだから」

女が拗ねたような口振りで投げて、白ワインを一気に空けた。

「こうして戻ってきたんだから、もういいじゃないか」
「25年ぶりの再会、いったい何年待たせたら、気が済むの。そして、また、すぐに行ってしまう」
「今度は、君を迎えるつもりで来たんだよ」
「どこへ行くの」
「遠い遠い世界さ」
「なぜ前は連れて行ってくれなかったの」
「君はまだ若かったからね。僕の世界に来たら、こっちに戻れなくなってしまう」
「あなたは長い間、そこで何をやってきたの」
「小さいけれど、居心地のいい旅籠屋を」
「宿屋のご主人、あなたが?」

女が素っ頓狂な声をあげて、高笑いした。
「似合わないわ」
「しょうがないよ。僕の役目だから」
「役目?」
「そう。僕の旅籠屋はね、光の世界に行けないで幽界をさまよっている人たちを、ひととき泊めて癒す場所なんだよ」

無言で2人のやり取りに耳を傾けていた私は思わず、訊いていた。
「向こうには、そんな場所があるんですか」
「そう、あなたのご主人も見えられて、体と心と魂の傷を癒された後、光の世界へと旅発っていかれましたよ」

私の目からどっと涙が噴きこぼれた。
「どうして、今夜あの銀色の船で一緒に彼を連れてきてくれなかったんです」
駄々をこねる幼女のように、私は口を尖らしながら抗議した。

「ちゃんと、光の世界に送り届けましたから、彼は今とっても幸福なんですよ。さまよっていたときは、あなたのことを心配して、なかなか愛着が断ち切れないでいたようだったから。あなたには、おわかりだったはず、何度も彼の存在を感じられたでしょう」
「ええ、数え切れないくらい。耳慣れた咳払いがしたり、どこからともなく愛用していた煙草の匂いが漂ってきたり、携帯にシグナルを送ってきたり」
「でも、僕の旅籠屋に来てからは、落ち着いたんだ」
「一周忌を迎える前日、夢の中で最期のお別れの挨拶にきてくれたんです。何も言わずに、ただぎゅっと私を抱擁してくれて。あれが本当に最期の最期でした」
私の顔は涙でびしょ濡れだった。

「私をいっしょに連れて行ってくれませんか。あの銀色の小さな船であちらの世界へ」
紳士は返事をせず、腰を上げかけた。
「長居してしまったようだ。もう行かなくては」
「私は今度こそ、あなたにお供できるのね」

泣き濡れている私に同情の眼差しを注ぎながら、女はおずおずとおもねるように尋ねた。
「お姫さま、君のご随意に」
女の顔が喜びにぱっと輝くのを、涙の海に溺れた私は妬ましげに、目の端でとらえていた。

しかし、2人が立ち上がったとき、半ば強引に見送りに行くと、言い張った。渋々ながら、紳士は応諾した。

3

クルーズターミナルに逆戻りしたのは、2時間をゆうに超えた頃だった。紳士はリムジンの中で戻れなくなってしまうと、焦っていた。しかし、港に猛スピードで着いたとき、銀色の船はまだ岸に着けられていた。

中の乗務員が早くと手招きしている。紳士は女の手を引いて、乗降口へと消えた。最後に振り返って、こちらに向かって手を振る2人に、私は力一杯手を振り返した。なろうことなら、2人の後についていきたかった。密航が許されるものなら、こっそり船倉に忍び込みたかった

2人が船に乗り込むと、仮設桟橋は折り畳まれ、中に取り込まれた。すぐにロープが外され、船が離岸し始める。霧雨の彼方に、小さな客船はたちまち掻き消えて、私はその場に泣き崩れた。

どれほどの時が経ったろう。明るくまばゆい光に包まれているのに気づいた。目を開けていられないほどのまぶしく強い光輝、その輪の中に懐かしい人が立って、至福の笑みをこぼしていた。私はその神々しい笑みに救われた。

光の世界から逢いに来てくれたのだと、思った。姿形は見えないけど、私は確かにその存在を感じていた。

道に出ると、タクシーが停まっていた。私はとっさに乗り込みながら、先程の辛さや悲しみか嘘のように薄れ、癒されるのを感じた。傍らには、見えない存在がいて、煙草の微臭が漂っている。守られているのに安堵し、いつかのように金沢の街を手を繋いで歩こうと思った。大きくて温かな掌の感触を思い出し、夜明けまで歩き続けようと思った。
(「フィクションワールド」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げている続きで、「インドからの帰国記」とは別に、短編など小説に限定して掲載します。本人の希望で画像は使いません)