備中が東京駅日本百貨酒場で料理と酒、平松一郎らも

【銀座新聞ニュース=2019年2月19日】岡山県(岡山県岡山市北区内山下2-4-6、086-224-2111)は2月23日に「日本百貨店さかば」(千代田区丸の内1-11-1、PCP丸の内グランアージュ、03-6206-3533)でスペシャルイベント「俺の『おかやま備中地酒BAR in とうきょう」を開く。

2月23日に「日本百貨店さかば」で開かれる「俺の『おかやま備中地酒バー・イン(BAR in)とうきょう」のフライヤー。

日本の総合商社7位の双日(千代田区内幸町2-1-1、03-6871-5000)グループのテレビショッピング支援企業のトライステージ(港区海岸1-2-20、汐留ビルディング、03-5402-4111)傘下の日本百貨店(港区海岸1-2-20、汐留ビルディング、03-5402-4111)が運営する「日本百貨店さかば」で岡山県備中地域の食材と酒をビュッフェ形式で味わえるイベントを開く。

当日は最初に岡山県備中県民局次長の清広雅史(きよひろ・まさし)さんが「おかやま酒蔵めぐり」を解説し、続いて生産者座談会「俺のおススメ、料理と地酒の楽しみ方」を開く。

出席者は「岡山地酒創庫イチローズ」(岡山県倉敷市宮前369-1、086-425-3535)代表の平松一郎(ひらまつ・いちろう)さん、「まからずやストアー」(岡山県浅口市寄島町3135、0865-54-2430)代表の岡辺智章(おかべ・ともあき)さん、「有限会社ミナミ」(岡山県新見市上市633-1、0867-72-8844)取締役の南将夫(みなみ・まさお)さん。

その後、平松一郎さんがワークショップ「俺のカクテル」を開き、自宅で楽しめる日本酒カクテルを提案する。

ビュッフェ形式に提供される料理は浅口市寄島産のかき飯、かきのお好み焼き、新見市産のイノシシ肉のロースト、ハンバーグ、ぼたん鍋など。

ウイキペディアによると、岡山県備中は地方行政区分だった令制国のひとつで、7世紀後半に、吉備国を備前国、備中国、備後国に3分して設けられた。はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしく、吉備道中国(きびのみちのなかつくに)と書いた木簡が見つかっている。また平安時代の「和名類聚抄」でも、備中国の和訓を「きびのみちのなかつくに」としている。

古代から開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった。造山古墳と作山古墳があることなどから、吉備の最有力豪族の拠点だったと推定される。その後も、瀬戸内海に面した交通の要を占め、天智天皇(てんち・てんのう、626-672)の時代に鬼ノ城が築かれ、律令制では上国とされた。 管下に都宇などの9郡がおかれ、後に鎌倉時代のころ、賀陽郡の一部を割いて上房郡、下道郡の一部を割いて川上郡が置かれ11郡となった。

備中国には山陽道の駅家は、津さか、河辺(かわのべ)、小田、後月(しつき)の4駅が置かれ、平安時代末には、妹尾兼康(せのお・かねやす、1123-1183)が出て、「十二か郷用水」を開いて村を潤した。室町時代、備中国は細川氏が代々守護であったが、守護代、庄氏・石川氏・上野氏や三村氏をはじめとする有力地頭など国人衆の独立性が強かった。

戦国時代中期には、尼子氏・大内氏の係争地となっていたが、1560年頃には毛利氏と同盟した三村氏(備中松山城を根拠とした)が備中国の支配をほぼ手中にした。しかし、その三村氏も1575年に織田信長(おだ・のぶなが、1534-1582)の誘いを受けて毛利氏と対立し、毛利氏によって滅ぼされた(備中兵乱)。

さらに羽柴秀吉(はしば・ひでよし、1537-1598)を先鋒に織田信長が進出してくると、備中国高松城が織田・毛利両軍の対峙の場になったが、織田信長の死による講和で、毛利輝元(もうり・てるもと、1553-1625)は備中の3郡を譲り、残りを保持した。

江戸時代の備中国は、数多い知行地に分割領有された。1617(元和3)年まで、幕府は備中国奉行を派遣して広域統治にあたらせた。その後、江戸時代初期には隣接の備後福山藩水野氏の領として現在の笠岡市や井原市の大半が領地で、他の備中国の小藩には、備中松山藩(池田氏、水谷氏を経て板倉氏)、成羽藩(山崎氏)、岡田藩(伊東氏)、足守藩(木下氏)、庭瀬藩(戸川氏、後に板倉氏)、浅尾藩(蒔田氏)があった。現在の高梁市にある松山城が備中国唯一の城で、残りは陣屋を構えた。松山城下は江戸時代はじめに備中国で最大の人口を抱えた。

倉敷は、城下町ではなかったが、徳川政権の直轄地として代官所が置かれ、幕府によって備前国から讃岐国に移管された小豆島なども統治した。江戸時代を通じて発展を続けた倉敷は、松山と肩を並べ、やがてこれを凌駕して備中最大の都市となって現在に至る。

現在の倉敷市西部にあたる玉島は、瀬戸内海の流通と結びついた備中松山藩の海港として栄えた。備中では綿作が広まり、江戸時代後期になるとその加工も盛んになった。また、製鉄も重要だった。

幕府調査による人口は、1822(文政5)年が33万7155人で、1872(明治5)年の調査による人口は、39万6880人であった。

1871年8月29日の廃藩置県により、藩領が生坂県、鴨方県、浅尾県、足守県、庭瀬県、浅尾県、高梁県、成羽県、新見県および岡山県、亀山県、福山県、亀岡県、麻田県の飛地となる。同年12月26日の第1次府県統合により、全域が「深津県」の管轄となり、1872(明治5)年6月5日に小田県の管轄となり、1875(明治8)年12月20日に第2次府県統合により「岡山県」の管轄となった。

時間は17時から21時30分で、料理は食べ放題で2000円、飲み物はワンドリンク500円。ただし、備中地域の地酒7種は無料で試飲できる。