丸善日本橋で永森の大島紬バッグ、平野のアクセサリー展

【銀座新聞ニュース=2019年4月17日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は4月17日から23日まで3階特設会場で永森みさおさんと平野恵子さんによる「大島紬の革バッグと天然石アクセサリー」を開く。

丸善・日本橋店で4月17日から23日まで開かれる「大島紬の革バッグと天然石アクセサリー」に出品される永森みさおさんの作品。

大島紬(おおしまつむぎ)と革を使ってバッグを制作している永森(ながもり)みさおさんと、天然石、アコヤパール、南洋真珠を組み合わせたアクセサリー、天然石を使った彫金アクセサリーを制作し、天然石工房「マリンスター」を主宰する平野恵子(ひらの・けいこ)さんが新作を中心に展示する。

ウイキペディアによると、大島紬とは、鹿児島県南方の奄美群島(主に奄美大島)の伝統工芸品としてつくられる織物で、手で紡いだ絹糸を泥染めしたものを手織りした平織の絹布、もしくはその絹布で縫製した和服をさす。

染色の工程で糸に鉄分が染み込むため着崩れや虫食いしが起きにくく、孫子の代まで長く使える。独特の黒褐色を基調とした繊細な折柄の美しさも評価され、日本の絹織物のうちでも高級品として知られる。安い物で一反30万円程度、最高級品は数百万円する。現代では「色大島」「白大島」など色調・柄の多様化が進んでいる。

同じく平野恵子さんの作品。

1980年に伝統的工芸品に指定された際、1)絹100%、2)先染めした糸を手織りする、3)平織り、4)締機(しめばた)で手作業によりタテ・ヨコ絣の加工をしたもの、5)手機(てばた)でタテ・ヨコ絣をカスリ合わせて織り上げたもの、と定められた。奄美大島には事業者でつくる「本場奄美大島紬織物協同組合」がある。

「大島紬村」によると、460年ころに唐から養蚕を導入し、661年ころに古代染色が始まり、奄美でもテーチ木染が始められた。952年に桑園が奨励され、奄美でも養蚕が行われ、1595年に江戸時代の初め頃から、特に奄美では古代手紬の製法技術が著しく進歩し、琉球各村に紡績織物工場の設立を奨励した。

1720年ころに薩摩藩が「紬着用禁止令」を出し、島役人以外の紬着用を禁じている。
。1829年ころに、絣(かすり)の技術を取り入れ、1871年ころに第1次技術革新期がはじまり、廃藩道県に伴い、生産販売が自由化され、家内工業から工場生産へ移行(鹿児島で生産)し、泥染め法が開発された。1895年ころに手紬糸から玉糸を使用、市場で人気が高まり、1902年に絣締機が発明される。

1929年に泥大島紬に部分的な着色法が開発され、合成染料が取り入れられ、派手な変化に富んだ柄模様ができ、1940年に「奢侈品製造禁止令」が出され、優秀品の生産が停止される。1945年に大戦により、大島紬の生産が停止され、1950年に米軍政下資金により原料糸入手(本場奄美大島)され、織口となった。1954年に「紬組合」を改組し、「本場奄美大島紬共同組合」が設立された。1955年に技術革新により、伝藍染の抜染法が開発され、合成染料による色大島が出現し、白地大島も生産された。

ただ、ウイキペディアでは、「大島が紬と言えるのは明治初年くらいまでであり、現在では撚糸を使い、紬とは言えなくなっている(「大島絣」)。それまでの大島製作法は現在の結城紬(茨城県)とまったく同じものであり、ただ製糸する時に使う糊が結城では米糊、大島では海苔(ふのり)、イギスといった海草を使う違いのみとしている。

永森みさおさんは杉野学園ドレメを卒業、アパレルメーカーに勤務、パタンナーとして働き、2012年より会社の傍ら、真渋工房でバッグの制作について学び、その後、独立して2015年2月より大島紬と革を使ったバッグ「ラム(lam、ベトナム語で「作る」の意味)」ブランドで活動を開始、百貨店を中心に販売している。

平野恵子さんは彫金、天然石アクセサリーを趣味で作ってきたが、2007年12月に彫金、天然石アクセサリーの工房「マリンスター」を開設、百貨店などで展示販売している。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。

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