加島美術が従軍画家の小早川秋声展、「国之楯」など、松竹京子らトーク

【銀座新聞ニュース=2019年8月30日】加島美術(中央区京橋3-3-2、03-3276-0700)は8月31日から9月16日まで「小早川秋声ー無限のひろがりと寂けさと」を開く。

加島美術で8月31日から9月16日まで開かれる「小早川秋声ー無限のひろがりと寂(しず)けさと」に展示される「国之楯」。陸軍が注文したが、最終的に受け取りを拒否した「国之楯」は1943年に完成後、題名を2度も変更し、絵にも手を加えて、1968年に最終的に「国之楯」として完成した。

大正から昭和にかけて活躍し、「国之楯」をはじめとした戦争画で知られる日本画家、小早川秋声(こばやかわ・しゅうせい、1885-1974)は、「従軍画家」として戦地に赴き、従軍中の兵士の「日常に寄り添った静的な戦争を描」いた。

加島美術によると、小早川秋声の兵士への「目線は慈しみと尊敬に満ち、激しい描写よりもかえって観る者の心の深い部分に直接訴えかけ」るという。ある種「無常のもの」として人の生死を捉え、戦争の残酷さや悲惨さを静かに見つめ、自身の息子と同年代の兵士をいとおしみ共に悲しんだ記憶が、作品として残っているかのようとしている。

小早川秋声は画壇に属さず、画商を通さなかったために、その画業に関する資料が少なく、展示会などでまとまって作品を見ることができる機会も少なかったという。今回は戦争画だけではなく、数々の洋行の経験が活かされた風景画なども展示する。また、戦時中、陸軍省が発注しながら、受け取りを拒否した「国之楯」も披露する。これらの作品はいずれも展示ケースなしで、直接鑑賞できる。

また、小早川秋声没後25年の1999年に編さんされた画集「秋声之譜」(企画・日南町美術館 発行・有限会社米子プリント社)を会期中に限り、通常定価3500円のところ、2000円で販売する。

同じく展示される「巴里所見」。絵に画家の感じた楽しい雰囲気が漂っている。

ウイキペディアによると、「国之楯」(1944年、1968年に一部改作)は日本兵の遺体を全面に取り上げた、戦争画の中でも異色の作品で、黒一色で塗りつぶされた背景に、胸の前で手を組んだ日本兵が大きく横たわっている。顔には「寄せ書き日の丸」が深く覆いかぶさり、この名も知れぬ兵士がお国のために死んだ事実が明瞭に示される。

当初は「軍神」という題名で、遺体となって横たわる兵士の頭部背後には金色の円光、背後には桜の花弁が降り積もるように山なりに描かれていた。元々は天覧に供するために陸軍省から依頼された作品で、師団長や将校たちは、この絵の前で思わず脱帽・敬礼し、搬出を手伝いに来た女性は絵を前に泣き崩れたという。

しかし、戦死者の画は戦争表現や「死の美化」に必須な一方、厭戦感を引き起こすとして、軍部・美術家共にひじょうに神経質な命題で、最終的に陸軍省は本作の受け取りを拒否し、小早川秋声の手元に残された。

このため、小早川秋声は背景を黒く塗りつぶし「大君の御楯」と改題、1968年に「太平洋戦争名画集 続」(ノーベル書房)に収録される際、一部改作して「国之楯」と再び題を変えて、現在の状態になった。こうした改題・改作は、戦中から戦後の社会通念の変化に伴い、尽忠報国から追悼・哀惜へと作品を転化させる操作とみられる。

小早川秋声は1885(明治18)年兵庫県神戸市生まれ、父親が鳥取県の光徳寺住職だったが、母親の実家、神戸市の九鬼隆義(くき・たかよし、1837-1891)子爵邸内で出産された。1894(明治27)年に9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入り、1900(明治33)年に務めを終え、光徳寺に帰郷するも、画家になる夢を捨てられず、寺を飛び出し、神戸の九鬼家に戻った。

1901(明治34)年に真宗高倉大学寮(現大谷大学)に入学、1907(明治40)年に特科隊一年志願兵として騎兵連隊に入隊、陸軍予備役少尉になり、その後の年次訓練などで大正期に陸軍中尉に昇進している。

1905(明治39)年4月に20歳で四条派に属する、後に京都絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授になる谷口香喬(たにぐち・こうきょう、1864-1915)の画塾「自邇会」に入り、1909(明治42)年に京都絵画専門学校開設の年に入学するも、同年に退学してしまう。水墨画を学ぶため中国へわたり、1年半ほど過ごし、中国の教育家、厳修(げん・しゅう、1860-1929)邸に寄宿しながら、北京皇室美術館で東洋美術を研究し、その合間に名勝古跡を巡る。1912(明治45)から日本美術協会展に出品する。

1915(大正4)年に山元春挙(やまもと・しゅんきょ、1872-1933)主催の「早苗会」に参加、のちに同会幹事を務めた。1914(大正3)年の第8回文展で初入選、以後、文展に4回、帝展に12回、新文展に3回入選し、一方で九鬼家の援助で経済的に恵まれ、当時の日本人としては異例なほど頻繁に海外へ出かけている。1914年から3年間、たびたび中国へ渡って東洋美術を研究し、1920(大正9)年からの3年間はヨーロッパを外遊、1921年にベルリン国立アルトムゼーム研究室で2年学び、帰途にはインドやエジプトにも立ち寄った。

1926(大正15)年3月から7月にかけては、日米親善のためアメリカに渡っており、絵は文展・帝展の中でも異彩を放ち、中国やヨーロッパに題材を求めた異国情緒漂う作品も珍しくない。私生活では1922(大正11)年に渡欧中ながら結婚、1923年の帰国後、京都市左京区下鴨森前町に豪邸を建てる。1931(昭和6)年の満州事変後から1943(昭和18)年まで、関東軍参謀部、陸軍省の委嘱により、従軍画家として中国や東南アジアなどの戦地に派遣され、戦争画を描いた。

一般に画家の従軍が本格化するのは、1937(昭和12)年の日中戦争後であり、小早川秋声の従軍はかなり早い。一般に戦争画は、華々しい戦闘場面や勇壮な日本兵の活躍を描いた作品が多いが、小早川秋声の作品にはそうした絵があまりなく、戦場での兵士の苦労や、兵士の死を悼む作品が散見される。終戦時の小早川秋声は、自分が「戦犯」として捕らえられるのを疑わなかったという。

小早川秋声は将官待遇で従軍していたため、戦地でもぜいたくができたはずだが、共に戦う者として自身にも厳しい従軍生活を課していた。従軍生活の長さからくる凍傷で体調を崩し、1944(昭和19)年に肺炎をこじらせ、1946(昭和21)年に日展委員となるも、多作や大作がこなせるまでは回復せず、戦後は依頼による仏画を手がけたといわれる。1974(昭和49)年に老衰により亡くなった。享年89歳。

9月7日15時から小早川秋声研究者の松竹京子(まつたけ・きょうこ)さんと「現代美術資料センター」を主宰する笹木繁男(ささき・しげお)さんによる「小早川秋声という画家:その画業」と題してトークイベントを開く。モデレーターは泉屋博古館分館(港区六本木1-5-1)の分館長の野地耕一郎(のじ・こういちろう)さんが担当する。

開場時間は10時から18時。入場はトークイベントも含めて無料。トークイベントは事前に電話などで申し込む。

注:「小早川秋声」の「声」と「国之楯」の「国」はいずれも正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。

注:「谷口香喬」の「喬」は正しくは左側に「山」へんがつきます。

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