永谷商事が神田すずが隅田川水上バスと浅草巡り

【銀座新聞ニュース=2019年10月3日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸上野広小路亭」(台東区上野1-20-10、上野永谷ビル、03-3833-1789)は10月10日に神田すずさんによる「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

10月10日に開かれる「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「「隅田川水上バスー秋の浅草散歩」を案内する神田すずさん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回り、その後、寄席で講談を鑑賞する。

今回は二ツ目の講談師、神田(かんだ)すずさんの案内で「隅田川水上バスー秋の浅草散歩」と題して、東京都観光汽船(とうきょうみやこかんこうきせん)豊洲乗船場から水上バス「ヒミコ」に乗って「隅田川十二橋巡り」を経て浅草まで移動し、その後、浅草の仲見世通りから浅草寺、かっぱ橋道具街を回って、お江戸上野広小路亭に移り、「しのばず寄席」を鑑賞する。

「隅田川十二橋巡り」とは通常は吾妻橋(あづまばし)、駒形橋(こまがたばし)、厩橋(うまやばし)、蔵前橋(くらまえばし)、両国橋(りょうごくばし)、新大橋(しんおおはし)、清洲橋(きよすばし)、墨田川大橋(すみだがわおおはし)、永代橋(えいたいばし)、中央大橋(ちゅうおうおおはし)、佃大橋(つくだおおはし)、勝どき橋(かちどきばし)の12橋を下ることをいう。

しかし、豊洲から水上バスで浅草に向かうと、35分かけて永代橋から墨田川大橋、清洲橋、新大橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋を過ぎて浅草乗船場に着く。

吾妻橋は1774年に架けられた橋で、それまでは「竹町の渡し」という渡し舟があった。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうちの最後の橋で、1786年の大洪水で永代橋、新大橋が流され、両国橋も大きな被害を受けたが、吾妻橋だけ無傷だった。初めは「大川橋」と呼ばれていたが、明治になって1876年に「吾妻橋」という名称が決まった。現在の橋は1931年に架け替えられた。

駒形橋はかつて「駒形の渡し」があった場所に関東大震災(1923年)後の1927年に架けられた橋で、橋の名は、橋の西にある「駒形堂」から付けられた。

厩橋は江戸時代の元禄期(1688年から1703年まで)から「御厩(おうまや)の渡し」とされた場所に、1874年に架けられた橋で、橋の名は「御厩河岸」という浅草蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があったことから付けられた。1872年に花見客を乗せた渡し舟が転覆(てんぷく)した事故が起こり、橋が架けられ、関東大震災後の1929年に現在の橋が完成した。

蔵前橋はかつて「富士見の渡し」の渡船場があった場所に、関東大震災後の1927年に架けられた。名称は「蔵前通り」から付けられている。橋全体が黄色に塗装されており、1954年から1984年まで蔵前国技館があったため、高欄には力士などのレリーフが施されている。

両国橋は1659年から1661年ころに架けられた橋で、千住大橋(せんじゅうおおはし)に続く隅田川2番目の橋だ。当初は「大橋」と名づけられたが、武蔵国と下総国(しもうさのくに)の2国を結ぶことから俗に「両国橋」と呼ばれ、1693年に「新大橋」が完成すると、正式に「両国橋」とされた。

江戸幕府は隅田川には千住大橋しか認めていなかったが、1657年の明暦の大火により、橋がなく逃げ場を失った人が亡くなり、その数は10万人とされた。このため、両国橋が架けられた。その後、何回か架け直され、今の橋は1932年に震災復興事業として架けられた。橋の途中に円形のバルコニーがあり、土俵になっていて俵も回してある。高欄の柱や車道・歩道の分離柵にも行司の軍配をデザインしている。

新大橋は元禄時代の1693年に架けられた隅田川3番目の橋で、松尾芭蕉(まつお・ばしょう、1644-1694)がこの橋のことを俳句に詠んでいる。新大橋は破損、流出、焼落などにより20回以上も架け替えられ、享保年間(1716年から1735年)には幕府が廃橋を決めたが、町民衆の嘆願により、諸経費を町方がすべて負担することを条件に1744年に存続が許された。

橋の中央近くに江戸時代、明治時代の新大橋のレリーフと橋のいわれが記された銅板がはめこまれている。この橋は、関東大震災や1944年から1945年にかけての東京大空襲の際にも、隅田川に架かる5大橋(永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋、千住橋)の中で、唯一被災しなかった橋で、「人助け橋」ともいわれている。現在の橋は1977年に完成している。

清洲橋はかつて「中州の渡し」という渡船場があった場所に、震災復興事業として永代橋とともに計画され、1927年に深川の清澄町と日本橋の中洲町を結ぶ橋として建設され、名称は公募した上で両方の町名から採られた。建設当時、「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるように設計され、そのモデルはドイツのケルン市にあった大吊り橋を基にしている。

墨田川大橋は首都高速道路の建設にあわせて1979年に架けられた橋で、隅田川では唯一の2層式構造となっている。

永代橋はかつて「深川の渡し」のあった場所に1698年に江戸幕府5代将軍徳川綱吉(とくがわ・つなよし、1646-1709)の50歳を祝って建設された隅田川4番目の橋だ。新大橋と同様、幕府は1719年に永代橋の廃橋を決めるも、町民衆の嘆願により、諸経費を町方がすべて負担することを条件に存続を許された。

しかし、1807年に深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こし、1500人以上が落下で亡くなった。1897年に鉄橋が架けられたが、道路橋として日本では初めてだった。関東大震災で被災し、1926年に現在の橋が再架橋された。

「仲見世通り」の仲見世は日本でもっとも古い商店街の一つで、江戸幕府が開かれてから、江戸の人口が増え、浅草寺への参拝客も賑わい、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられた。これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688年から1735年)の頃といわれている。

江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、20軒の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売り、次第に店も増え、日本でも一番形の整った門前町へ発展した。

明治維新後は、寺社の所領が政府に没収され、浅草寺の境内も東京府の管轄となり、政府は新しく東京に5公園を作り、公園法を制定して、以前からの特権が仲見世から取り上げられた。1885(明治18)年5月に、東京府は仲見世全店の取り払いを命じ、退店した後、煉瓦造りの洋風豊かな新店舗が同年12月に完成し、近代仲見世が誕生した。

しかし、仲見世は1923(大正12)年の関東大震災により壊滅し、1925(大正14)年に現在の鉄筋コンクリート造り、桃山風朱塗りの商店街に生まれ変わり、1945年の戦災で内部は全部焼失したが、仲見世の人々の努力によりいちはやく復興し、1985年秋には近代仲見世誕生100周年を記念して、電飾看板の改修、参道敷石の取替工事を行った。

1989年4月には「浅草絵巻」と題し、全店のシャッターに浅草の歳事を描き、1992年11月に建物の塗替えや看板類の改修工事を完成し、1994年10月に東京電力が協力し、「電柱撤去地中線化」も完成した。今の仲見世には東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗があり、長さは約250メートル、統一電飾看板と四季折々の装飾が石畳に映えている。

「浅草寺」は東京都内最古の寺で、山号は金龍山、本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)であり、元は天台宗に属していたが、大東亜戦争後、独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。

628(推古天皇36)年に宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像が、浅草寺本尊の聖観音像で、この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも)は出家し、自宅を寺に改めて供養し、これが浅草寺の始まりとされている。

その後645(大化元)年に勝海上人(しょうかい・しょうにん)という僧が寺を整備し、観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。平安時代初期の857(天安元)年ころに、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師、えんにん、794-864)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。

942(天慶5)年に安房守の平公雅(たいらの・きみまさ、生没年不詳)が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したと伝えられ、雷門、仁王門(現宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。1590(天正18)年に江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領500石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは1631(寛永8)年、1642(寛永19)年に焼失したが、1648(慶安元)年に五重塔、1649(慶安2)年に本堂が再建された。

1685(貞享2)年に表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられ、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したという。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。

明治期に入ると、1873(明治6)年に境内が公園地に指定され(浅草公園)、1885(明治18)年には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わり、1890(明治23)年に商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。

1917(大正6)年からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛し、1923(大正13)年の関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、避難民の協力によって境内は一部建築物が延焼しただけにとどまった。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲では旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失した。

戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退したが、地元商店街のPR活動などによってかつての賑わいを取り戻しつつある。2014年6月11日に浅草寺に存在する仏像がサウジアラビア人に破壊されるという事件が発生した。本堂の東側に「浅草神社(あさくさじんじゃ)」があり、拝殿、幣殿、本殿は重要文化財で、浅草寺の草創に関わった3人を祭神として祀る神社であり、明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。

1912(大正元)年に本堂裏広場奥に殉職した火消の慰霊と顕彰のために消防殉職者表彰碑が建立され、毎年5月25日に慰霊祭が行なわれる。浅草神社鳥居脇には2005年に秋本治(あきもと・おさむ)さんのマンガ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の単行本の発行部数が1億3000万部を超えたことから、それを記念するため「こちら葛飾区亀有公園前派出所」記念碑が建立された。

浅草神社境内には久保田万太郎(くぼた・まんたろう、1889-1963)句碑、川口松太郎(かわぐち・まつたろう、1899-1985)句碑、河竹黙阿弥(かわたけ・もくあみ、1816-1893)顕彰碑、初代市川猿翁(2代目市川猿之助、いちかわ・えんおう、1888-1963)句碑、初代中村吉右衛門(なかむら・きちえもん、1886-1954)句碑などがある。

「かっぱ橋道具街」の「かっぱ橋」は文化年間(1804年から1818年)にこの地で掘割(後の新堀川、現在は消滅)整備を行った合羽屋喜八(かっぱや・きはち)が合羽橋の名前の由来の一つとされており、湿地帯であるこの土地の住民のために私財を費やして整備を行った合羽屋喜八の良心に心を打たれた河童たちが、夜ごとに工事をして喜八を助けたという言い伝えが残っている。

かつて新堀川には合羽橋と菊屋橋が架かっていた。現在の合羽橋交差点付近に合羽橋があったとされ、合羽橋交差点で道具街と交差する「かっぱ橋本通り」沿いの曹源寺(通称;かっぱ寺)に合羽屋喜八の墓がある。

道具街の起源は、1912(大正元)年頃に数軒の古道具商が店を構えたこととされている。大東亜戦争後になって、今のような料理飲食店器具や菓子道具を取り扱う商店街へ発展した。1921(大正10)年にかっぱ橋通りに市電が開通され、1945年3月10日の東京大空襲により道具街は全焼した。

1947年に「浅草合羽橋電車通商工会」が設立され、1955年に「東京合羽橋商工業協同組合」に改組され、1963年に「東京合羽橋商店街振興組合」に改組され、1967年に組合員人数が110店にのぼり、1983年に第1回かっぱ橋道具まつりが開かれ、現在、和洋中華食器、陶器・漆器、料理飲食店用器具、包装用品・容器・装飾品、食品サンプル・白衣、菓子製パン機械器具、厨房設備・冷蔵庫・冷蔵ショーケース、和洋家具、金網・看板・のれん・竹製品、店舗設計施工・ショーケース・ディスプレイ、製菓材料・喫茶材料、菓子問屋など約135店が軒を並べている。

神田すずさんは東京都東村山市生まれ、2006年に神田(かんだ)すみれさんに入門し、前座見習となり、2010年9月に「二つ目」に昇進した。

時間は12時15分に東京都観光汽船豊洲乗船場に集合し、16時前後にお江戸上野広小路亭に移り、16時45分からの「しのばず寄席」を観賞する。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。希望者は永谷商事まで電話で申し込む。

しのばず寄席は前座の三遊亭あら馬(さんゆうてい・あらま)さん、二ツ目の桂伸べえ(かつら・しんべえ)さん、白鳥可奈子(しらとり・かなこ)さんと海老沢栄(えびさわ・さかえ)さん夫婦によるコミックソング、真打の立川キウイ(たてかわ・きうい)さん、神田すずさん、紙切り漫談師の青空麒麟児(あおぞら・きりんじ)さん、真打の桂歌助(かつら・うたすけ)さんが出演する。

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