丸善日本橋で静岡の工芸展、駿・遠・豆州の流れ、竹千筋細工等

【銀座新聞ニュース=2020年7月26日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(東京都中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は7月29日から8月11日まで3階ギャラリー特設会場で「静岡県郷土工芸品振興会」(静岡県静岡市葵区五番町3-11、054-252-4924)による「『ふじのくに』に伝わる匠の技 静岡県の郷土工芸展」を開く。

丸善・日本橋店で7月29日から8月11日まで開かれる「『ふじのくに』に伝わる匠の技 静岡県の郷土工芸展」のフライヤー。

「静岡県郷土工芸品振興会」(静岡県静岡市葵区五番町3-11、054-252-4924)が静岡県に点在する工芸品をまとめて展示販売する。7月29日から8月4日が「駿河和染(するがわぞめ)」(静岡市染色業組合・静岡県静岡市葵区川越町4-19、054-252-6092)、「駿河塗下駄」(静岡塗下駄工業組合・静岡県静岡市葵区清閑町9-22、054-253-4917)、「森山焼(もりやまやき)」。

5日から11日が「駿河竹千筋細工(するが・たけせんすじ・ざいく)」(静岡竹工芸協同組合・静岡県静岡市葵区五番町3-11、054-252-4924)、「駿河漆器(するがしっき)」(静岡漆器工業協同組合・静岡県静岡市葵区田町7-71、054-253-8707)、「賤機焼(しずはたやき)」(秋果陶房・静岡県静岡市葵区柳町95、054-271-2480)。

「駿河指物(するがさしもの)」(静岡木工芸組合・静岡県静岡市葵区幸町1-8、054-254-8702)、「志戸呂焼(しとろやき)」(静岡県島田市金谷)、「掛川手織葛布(かけがわ・ておりくずふ)」(掛川手織葛布組・静岡県掛川市掛川551-2、掛川商工会議所内、0537-22-5151)。

静岡県は駿州(すんしゅう、駿河国で駿府といわれた今の静岡市)、遠州(えんしゅう、遠江国=とおとうみのくに=で、現在の浜松市あたり)、豆州(ずしゅう、伊豆国で現在の沼津市付近)の3州が1871(明治4)年の廃藩置県(第1次府県統合)で足柄県の管轄になり、1876(明治9)年の第2次府県統合により、今の形の静岡県が成立した。

静岡県郷土工芸品振興会によると、駿州では、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)隠居城である駿府城に隣接する浅間(せんげん)神社造営に際し、優れた名工や図工を全国各地から招へいし、その優れた技術が今日の静岡市の伝統工芸のルーツといわれている。

また、浜松を中心とした遠州では、昔から織物産地として有名であり、その中から優れた伝統工芸織りが誕生した。現在、静岡県では自動車、楽器、家具、精密機械などの地場産業が発達しており、その温床となったのが、こうした伝統工芸であったとされている。

こうした流れを汲んで、静岡には多彩な伝統工芸品があり、優雅で雅やかな雛具、雛人形、蒔絵、漆器、自然の風合を生かした織り、染物、日常雑貨の価値を持ちつつ洗練された美しさを有する陶器、指物・各種木工芸製品など、それぞれが伝統技法にそって現在も脈々と受け継がれているとしている。

もう一つの地場産業である家具製造は、浅間神社造営の際の名工の技術を伝承したものであり、静岡県の伝統工芸品は、その作品が優れているというにとどまらす、静岡の産業のルーツでもあるという側面を持っている。

静岡県郷土工芸品振興会によると、「駿河和染」は今川時代(今川義元=いまがわ・よしもと、1519-15660=を中心とする時代)には木綿が盛んに作られ、八幡織木綿、中島紬などの織物の名もみられ、織物とならんで染色業も発達し、紺屋町ができ、型染や手描きの紋染が行われ、近郊農村では染料の藍の栽培が盛んに行われた。

江戸時代には、武家のために幟(のぼり)、旗差物(はたさしもの)、町家のためにのれん、伴天、作業衣など、また、祝儀物として筒描きによる定紋入り風呂敷などが染められ、旧安倍川の川筋に沿って多くの紺屋が繁盛したといわれている。

明治になると、交通の発達から他産地からの進出、機械染色の出現など近代化の波のなかで、紺屋の仕事も減少したが、大正後期に起こった民芸運動で、芹沢けい介(県工業試験場技師、人間国宝、せりざわ・けいすけ、1895-1984)が静岡やその他の地域に残る染色技術と芸術性の発掘に努力し、その成果が実って、新たな静岡における和染興隆の端著となった。

「駿河塗下駄」は漆塗、蒔絵という伝統的な技法によって作られており、美しい色彩とユニークなデザインがかもし出す独特の世界が最大の魅力という。明治の初期、下駄職人の本間久次郎(ほんま・きゅうじろう、1853-1909)は、大衆向けにつくられていた高下駄、吾妻下駄に漆塗りを施して売り出し、これが静岡での塗下駄の発祥となった。以来、静岡といえば塗下駄といわれるほどの盛況期を迎えた。

これにより静岡の漆器は明治から大正時代にかけて輸出漆器として名をあげたが、第一次大戦後に輸出が不振になり、このために木地、塗り、蒔絵の職人たちが製造過程の似かよった塗下駄の製造に転換し、それぞれに趣向をこらした製品づくりを競ったことが発展を促す契機ともなった。

「森山焼」は1909(明治42)年、初代中村秀吉(なかむら・しゅうきち)によって始められた焼物で、森山焼の名称は、森町森山の地名を取って命名され、遠州七窯の一つ、志戸呂焼の流れを汲み、現在4つの窯元がある。

創始者、中村秀吉は森山の土が陶器に適していることから志戸呂より初代鈴木静邨(すずき・せいとん)を招き、陶業を始めた。最初は、粗陶器(土管、水瓶など)から出発し、失敗を重ねるうちに、一般家庭用の茶器、花器、酒器、食器などの小物を焼き、1915(大正4)年、天皇即位奉祝のために花瓶と置物を献上したところ、御嘉納となり、破格の感謝状を与えられた。

その後も良器の生産に努め、各地の陶磁器展に出品し、一段と声価を高めて「森山焼」の存在を世に知らしめた。

「駿河竹千筋細工」は1840(天保11)年に岡崎の藩士、菅沼一我(すがぬま・いちが、?-1856)が静岡に立ち寄り、宿泊先「はなや」の息子、清水猪兵衛(しみず・いへえ)に技術を教えたのが始まりとされ、清水猪兵衛は多くの門弟を育て、菓子器や虫籠を作って、世間に広めたといわれている。1873(明治6)年4月にウィーンで開かれた国際博覧会に、日本の特産物として出品され、竹ひごのかもしだす繊細な雰囲気、東洋特産の竹の妙技は好評を博し、これを契機に多くの製品が海外へ輸出された。1976年に竹千筋細工は、伝統的工芸品の指定を受けた。

「駿河漆器(静岡漆器)」は書家でもあった中川梅綠(なかがわ・ばいろく)が興したといわれ、花鳥草木の図柄を用いるようになり、天保年間(1831年から1845年)には江戸より蒔絵師を招へいし、技術の向上が図られた。幕府の保護をうけて販売経路も広がり、参勤交代の大名達に好まれた。

さらに開国とともに海外へも輸出され、1867(慶応3)年4月にパリ万国博覧会に出品するなど、国内外へその名を広め、静岡の漆器は明治期には海外向けに生産され、1884年の万国博覧会では銀牌を受賞した。漆器業組合主催の漆器共進会が開かれたり、乾燥機を試験的に用いるなど生産性の向上も試みられ、1947(昭和22)年には「静岡蒔絵工業協同組合」が設立されている。

漆器が静岡に根を下ろすことになった一番の要因は、浅間神社造営で、拝殿のすべてを金銀でちりばめ、総漆塗りを施した仕事は、全国各地から漆工たちを集めて行われた。造営後も、漆作業に気候が適し、住み良いため漆工たちが定着し、技を磨く一方、広く土地の人達に漆工技術を教えたといわれている。

当時は、竹籠などに漆塗りを施した簡単な日用品だったが、技術が進むにつれ、さまざまな製品が作られるようになった。

「賤機焼」は交跡(こうし)焼といって、温度が約900度で釉薬と土との馴染みが悪く、脆かったため、製品として残るものは少なかったが、江戸時代から現在まで続くものに「鬼福」という意匠がある。

徳川家康が駿府に在城の頃、賤機山麓(現在の浅間神社のある山麓あたり)に25石の朱印地と賤機焼の称号をもらい、徳川家の御用窯として太田七郎右衛門(おおた・しちろうえもん)が賤機焼をはじめた。数百年にわたり徳川家の御用窯として保護をうけ、代々駿府城や久能山東照宮、浅間神社の御用窯として栄えたといわれている。

賤機焼は、文政(1818年から1831年)の終わり頃に急に衰退した。これは安倍川が大氾濫し、そのとき窯場も流れ去ったためとされている。一時途絶えた賤機焼は、明治に入り、太田万治郎(おおた・まんじろう)の手で再興されたが、かつてほどの盛況は蘇えらせることはできず、明治中期、静岡県は郷土産業の一つとして賤機焼の再興を考え、八番町に窯を築いていた青島庄助(あおしま・しょうすけ、?-1912)を招いた。

2代目の青島五郎(あおしま・ごろう)は、常滑(とこなめり)の技術を導入し、従来の賤機焼に創意を凝らし、新しい焼物を試み、3代目青島秋果(あおしま・しゅうか)の手によって、地方色豊かな焼物に生まれ変わった。

蒔絵は漆器に漆などを塗り、金銀の粉などを蒔(ま)き、絵や模様などを描いたものをいうが、「駿河蒔絵」は1828(文政11)年頃、信州飯田の画伯天領(がはく・てんりょう)が駿府に住む塗師、中川専蔵(なかがわ・せんぞう)に蒔絵の技術を教えたのがきっかけと伝えられている。

1830(天保元)年に江戸から小林留吉(こばやし・とめきち)、弟の小林遷次郎(こばやし・せんじろう)の兄弟が駿府を訪れ、漆器蒔絵の技術を伝授したことから当時の蒔絵技術が向上していった。この2人から教えをうけた人たちによって、後に駿河蒔絵の流派が生まれ、それぞれに特徴をもった蒔絵が生みだされた。

色粉蒔絵、トントン錆上(さびあげ)、高一(たかいち)、型紙など量産のための技巧と、平蒔絵、研ぎ出し蒔絵、錆上蒔絵、高蒔絵などの技法は他の産地の追随を許さないものがあるという。

「駿河指物」は浅間神社の造営の際に、全国より優秀な技術を持つ職人が集められ、この地に永住したのが指物工芸の発祥となり、作品は古来からの貴族的な雅さと現代風のクールで直線的な味わいを醸し出している。

「駿河指物」といわれている静岡の木工指物は、浅間神社造営にあたった工人達が技術を広めたことが契機となり、駿河の特産指物工芸の発祥となったと伝えられている。

指物師は、日本独特の指金(物指し)を用いて、さまざまな道具を作るが、江戸時代の指物職人が主に作ったのは、大名などが道中の駕籠で使用した机箪笥といわれるものや針箱、硯箱、文箱、煙草盆などだった。

漆器の木地製造を受け持った指物師が長い間培った精緻な技は、明治に至り鏡台づくりを契機に、やがて静岡を全国有数の総合家具産地へ発展させる源流ともなり、現在は茶道具などの製作に活かされている。

「志戸呂焼」は、渋みがあり、深みがある古式豊かな風情を漂わせているのが特徴で、志戸呂焼が誕生したといわれる室町時代前から焼き物が盛んだったようで、多くの窯跡が残っている。

昔、大井川の西金谷の宿一帯が「志戸呂郷」と呼ばれており、そこで作られた焼き物であったことから、「志戸呂焼」と名付けられた。小堀遠州(こぼり・えんしゅう、1579-1647)に好まれ、「遠州七窯」の一つに数えられている。

志戸呂焼は第1期が15世紀後半で鉄釉(てつゆう)、灰釉(はいゆう)により天目茶碗、水注などが焼成された。第2期は16世紀後半で筒茶碗、徳利、香炉、小皿などがつくられた。第3期は17世紀前半から明治時代までとされ、黒釉を用いて壺、甕(かめ)、碗、皿などが生産された。

志戸呂焼は、大部分が褐色または黒釉を使った素朴な釉調で、いずれも古代色豊かな雰囲気を持っているのが特徴とされている。志戸呂焼に使う陶土は金谷一帯でとれ、鉄分が多く、なおかつ堅く焼けるので、湿気を嫌う茶つぼには、最適の土といわれている。

「掛川手織葛布」は、葛布が山野に自生するマメ科の植物葛の靭皮(じんぴ)繊維を織り上げた布のことで、地元では「カップ」と呼ばれ、掛川が葛布の特産地として歴史的に初めて認識されたのは鎌倉時代といわれ、武士の乗馬袴地に用いられた。

戦乱の時代には沈滞し、徳川の治世となると、葛布業も次第に回復し、掛川は東海道の宿場町としても栄え、時の藩主が葛布を掛川の特産品として保護奨励し、丈夫で水に強い葛布は裃地(かみしもち)や袴地、道中合羽などに珍重された。

明治に入ると、葛布は武家階級の転落と生活様式の急転によって大打撃を受けたが、襖地(ふすまち)として蘇り、明治30年代、襖からヒントを得て作った壁紙が「カケガワ・グラス・クロス」としてアメリカの壁紙界で好評を得た。

しかし、原料の葛苧(くずお)をほとんど韓国から輸入に頼っており、1965(昭和40)年過ぎ、韓国が日本への葛苧の輸出を禁止したため、掛川葛布は衰退した。

開場時間は9時30分から20時30分(4日と最終日は15時)。

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