日露戦争の戦時動員など時代に翻弄された人々も描いた「二百三高地」(296)

【ケイシーの映画冗報=2020年8月20日】昭和のころ、夏の映画興行に「東宝8.15シリーズ」という東宝の戦争映画がありました。怪獣映画で特撮技術を確立した東宝が、特撮の見せ場に「歴史を知る視点」を加えたシリーズでした。明確なピリオドはありませんが、30年以上、作品は途絶えています。

8月27日まで丸の内TOEIで、デジタルでリバイバル上映中の「二百三高地」((C)東映)。1904年から1905年のの日露戦争の中でも、ロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る激戦地のひとつとなった戦いを描いている。

映画にかぎらず、エンターテイメントでは、ひとつのヒット作によって、類似の作品が生まれいずることがまま、あります。たしかに“柳の下の……”の事例もありますが、“前例が生まれたので、実現にこぎつけた”という作品もあるので、やはり“作品の中身”で評価するのが適切ではないでしょうか。

1904年、中国大陸と朝鮮半島の権益をめぐり、南下政策を続けるロシアと日本が戦端を開くことになりました。国力で日本の10倍というロシアとの戦いは、本土が近く、近代的な軍事組織をもっていた日本が有利に進めましたが、ロシアの艦隊基地である旅順港と、そこを守る旅順要塞の存在が大きな問題となっていました。

旅順にロシア艦隊があるかぎり、海上補給が危険ということで、日本軍は旅順を攻めることを決断し、指揮官に乃木希典(のぎ・まれすけ、1849-1912。演じるのは仲代達矢=なかだい・たつや)を任命します。

乃木は10年前の日清戦争(1894年から1895年)でおなじ旅順を攻略(このときは清国軍)したのですが、今度の対戦相手であるロシア軍は、あらゆる面で強大な敵でした。

十分な準備のないまま敢行した総攻撃で、1万5000人以上の戦死傷者という大きな損害を出した乃木は、無理攻めをせず、準備期間をおいての再攻撃を考えますが、さまざまな要素をふくんだ戦争の現状がそれを許すことはなく、一つの要塞が戦争全体にまで影響を与え、日本の存亡のかかった戦場となっていくのでした。

今夏、リバイバル公開された本作「二百三高地」が劇場公開されたのは1980年。日露戦争の終結から75年というタイミングで、この年の邦画では第3位の配給収入記録というヒットとなりました。

まだ“日露の戦場を知る”人物がギリギリ、ご存命だったころです。また、日露戦争が一応は日本の勝利に終わっていたことも大きかったでしょうし、40年後の大東亜戦争の帰趨よりも“前向き”なストーリーとなることもプラスだったのかもしれません。

こうした「戦争映画」が邦画として制作されると、自国の戦争ということもあってか、“戦争翼賛”や“軍国思想”といった論調が生まれてきます。

少なくとも、個人的には本作においては、その評価は適当ではないと考えます。かたくなにロシアとの戦いを避けようとする政府の重鎮であった伊藤博文(いとう・ひろぶみ、1841-1909。演じるのは森繁久彌=もりしげ・ひさや)が、陸軍随一の天才といわれた児玉源太郎(こだま・げんたろう、1852-1906。演じるのは丹波哲郎=たんば・てつろう)の正確な情勢判断から、「戦争やむなし」という判断に傾くところは、国際社会の「理想と現実」を訴えていると思いますし、日露の開戦からはじまった戦時動員により、一般市民が続々と軍に招集される状況など、大きな時代の流れに翻弄される市井の人々も描かれています。

そして、もうひとつ。この作品が現在を描いたものではなく、20世紀初頭の情勢下にある日本が舞台であることも、忘れてはならないでしょう。アジアやアフリカのほとんどは欧米列強の植民地や属領であった時代です。

人種差別や民族差別も公然とおこなわれていました。本作で伊藤博文を演じた森繁久弥の舞台での代表作「屋根の上のヴァイオリン弾き」も19世紀末、ロシア領を追われるユダヤ人一家を描いた作品です。

歴史に詳しい友人によると、日露戦争あたりまでの対外戦争は、世界景気に好影響を与えたそうです。日本は旅順で使う砲弾を、大量にイギリスやドイツから買いましたし、ロシアも良質な軍艦用の石炭を、日本の同盟国であるイギリスからの密輸で調達していました。交戦国への投資によって利益を確保するといった「経済活動」の一面もあったのだそうです。

「難攻不落と称せられた旅順の陥落は(中略)外債募集にも好影響を与えた」(「日本の戦争 図解とデータ」)

このように、「勝ち馬に乗る」ことを意図して国際資本が動いたのだそうで、ロシアも日本も、海外に戦費を求めていたのでした。

「この戦勝で日本の国際的地位も上り、虐げられた有色人種を鼓舞したが、慢心も生じた」(前掲書)

このことも忘れてはいけないと強く感じます。本年は大東亜戦争の終戦からちょうど75年でもあります。次回は「狂(くるい)武蔵」を予定しています(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、「日露戦争」は1904(明治37)年2月8日から1905(明治38)年9月5日にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争で、朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされた。

満州南部と遼東半島がおもな戦場となり、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられ、最終的に両国はアメリカの仲介の下で調印されたポーツマス条約(1905年8月10日から9月5日まで交渉)により講和した。

講和条約により、日本は朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、ロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を獲得し、東清鉄道の旅順-長春間支線の租借権も得た。しかし、賠償金を得られず、戦後外務省に対する不満が軍民などから高まった。

「二百三高地」をめぐる戦いは日本の第3軍(満州軍)が1904年11月28日に攻撃を開始し、12月5日に陥落させた。しかし、「結果的に二百三高地の占領は戦略的にも戦術的にも日本側に寄与しなかった」と結論づけている。

ロシア側の旅順艦隊は黄海海戦と、大弧山や海鼠山からの観測射撃で大損害を被っていたが、これを修理する設備は旅順港にはなく、旅順艦隊は黄海海戦後は乗員や火砲を陸揚げして防衛戦に投入させており、実質消滅していたためだ。

こうしたことから、二百三高地に主攻撃を替えずとも、このまま東北方面への攻撃を継続することでもロシア側の予備兵力を消耗させることはできており、逆に主攻撃を替えたことで寄り道をしたことになり、「仮に二百三高地への攻撃に変更しなかったら、史実よりも早くロシア軍は降伏していた可能性もあった」と厳しく指摘している。