難解な「2001年宇宙の旅」、息長く、今や名作に(290)

【ケイシーの映画冗報=2020年5月28日】映画にかぎらず、名作が当初から名作と呼ばれるとは限りません。時間が経つことによって、評価が高まり、いつしかその世界を代表するような作品となることは、頻繁にではありませんが、たしかに存在しています。

「2001年宇宙の旅」((C)2018 Warner Bros. Entertainment Inc.)。

1968年、映像の鬼才スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick、1928-1999)監督が、SF小説の巨匠アーサー・C・クラーク(Arthur C.Clarke、1917-2008)と共同でストーリーを練り上げた「2001年宇宙の旅」(2001: A Space Odyssey)が上映された直後、アメリカでは高評価を得られませんでした。

「数百万年前の猿人の世界から、人類が進出した宇宙へ。さらには地球外生命体の産物“スターゲート”を通って無限の宇宙へ」という2時間21分の映画は、当初は観客から「内容は理解できない」と批評されました。

キューブリック監督は前作「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」(Dr.Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb、1964年)で、東西冷戦下での核戦争の恐怖を、コミカルさと辛辣さがない交ぜとなった“悪夢の喜劇”(キューブリック監督)として描き、高い評価を得ていました。

核戦争から宇宙へと作品世界を広げたキューブリック監督とクラークは当初から「誰も見たことがない世界」という表現を目指した結果、作品のさまざまな部分が暗中模索のまま“あやふやな着地点”で姿をあらわしたのです。

ウイキペディアによると、制作費が当初の600万ドル(1968年は1ドル=360円なので、21億6000万円)から1050万ドル(37億8000万円)に膨れ上がった。興行収入は1億9000万ドル(684億円)。日本の興収は2億6643万円。

ほぼ10歳の年齢差のあるキューブリック監督とクラークは、さまざまな点で違いがありました。

「博士の異常な愛情」のラストにおいて、ひたすら核爆発を見せるように、どこか悲壮感がただようキューブリック監督の世界観に対し、クラークのSF小説は楽観的なものがおおく、哲学的な思索もからめながら、人類が良い方向を目指していくという作風でした。

アメリカ出身ながら、後半生をイギリスで過ごしたキューブリック。イギリス生まれでしたが、スリランカに移住したクラーク。ちなみにキューブリックは喫煙者でしたが、クラークは大の嫌煙家でした。

そんな両者の手による、共同作業はやがてはげしく対立します。キューブリックは視覚でストーリーを表現しようと考えていましたが、クラークは作品の各所にナレーションを追加し、映像とストーリーを補完するべきとして、その原稿を準備しましたが、キューブリック監督は結局、一切のナレーションをカットしてしまいました。

キューブリックは物語を楽しむものではなく、映像を体験するものとして仕上げたのです。猿人に知性を与え、宇宙時代の人類に別次元へといざなう物体“モノリス”は劇中で複数が存在しますが、“それはなにか”を映像いがいに知る術がありません。回答や解釈は観客にゆだねられたのです。

劇場公開からしばらくして、本作はストーリーではなく、映像体験として、若い世代に支持されました。当時としては最高峰の技術で描写された猿人たち。地球から宇宙ステーションを経由して、月へ向かうという、実際の海外旅行を思わせるリアルな宇宙旅行。そして、謎の電波を探査するための2年間、8億キロもの宇宙の旅では、乗組員は人工冬眠で眠り、宇宙船は人工知能HAL(ハル)9000によって管理、運航されているという未来感。それらは観客にさまざまな解釈を与えたのです。

日本での公開当時、SF作家の星新一(ほし・しんいち、1926-1997)が、こう記しています。
「後半の筋がわからないのである。(中略)原始宇宙を見るというのもあれば、16世紀の地球へ帰ったというのもあった。(中略)といって、私にもわからなかったのだから、他人のことを批判はできない。私は前半で空間を、後半で時間を描いたのだろうと感じたものだ」(月刊「スクリーン」1968年7月号)

こうした一貫性のない批評は本作だけでなく、本年になって初公開から40年ぶりに上映された「地獄の黙示録」(Apocalypse Now、1979年)や、SF映画「ブレードランナー」(Blade Runner、1982年)、日本でもアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年放送開始)などでも見られます。

「説明不足」「難解だ」「原作に失礼」といったきびしい評価がある一方で、不思議と何度も観てしまう。監督や作者が意図してはいないのでしょうが、結果的には息の長い作品となっていくのです。

キューブリック監督はこのあと、「時計じかけのオレンジ」(A Clockwork Orange、1971年)で、自身の欲望に忠実で無軌道な若者と、現代の管理社会の関係を鮮烈に映像化し、話題をふりまくのですが、これはまたいつか。次回こそ、新作映画の話題を提供したいと考えています(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。