日本橋三越が「第九」中止、西川幾子がベートーベン生誕250周年演奏(2)

(演奏者の情報を追加し、見出しも一部変えます)
【銀座新聞ニュース=2020年12月25日】国内最大手の百貨店グループ、三越伊勢丹ホールディングス(新宿区新宿5-16-10)傘下の三越伊勢丹(新宿区新宿3-14-1)が運営する日本橋三越(中央区日本橋室町1-4-1、03-3241-3311)はこのほど、12月29日に開いてきた台東区民合唱団による「第36回三越の第九」を中止することを決めた。

日本橋三越が毎年12月29日に実施してきた「三越の第九」の過去の風景。

「三越の第九」は1985年12月からスタートし、毎年、日本橋三越本店で台東区民合唱団約200人が参加して、ドイツの作曲家、ベートベン(Ludwig van Beethoven、1770-1827)の「交響曲第九番」の第4楽章を歌唱するイベントだが、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から中止を決めた。

2019年は東京芸術大学指揮科准教授の酒井敦(さかい・あつし)さんが指揮し、ピアノ奏者で、東京芸術大学講師の山口佳代(やまぐち・かよ)さん、東京芸術大学音楽学部作曲科の山中麻鈴(やまなか・まりん)さんがピアノを演奏していた。

「三越の第九」を中止した代わりに、コロナの終息と、次回に「第36回三越の第九」が開催できるよう願いを込めて、29日12時30分と14時30分から本館1階中央ホールでピアノ奏者の西川幾子(にしかわ・いくこ)さんによる「パイプオルガンで奏でる第九&ベートーベン生誕250周年特別コンサート」を開く。

ウイキペディアによると、ベートベンは1770年12月12月16日ころに「神聖ローマ帝国」(800年から1806年までドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在した西ローマ帝国の後継国家)ケルン大司教領(Erzbistum Koln)のボン(Bonn)で生まれ、父親のヨハン・ヴァン・ベートーヴェン(Johann van Beethoven、1739、または1740-1792)は宮廷歌手(テノール)、母・マリア・マグダレーナ(Maria Magdalena van Beethoven、1746-1787)は宮廷料理人の娘だった。

1774年ごろより父親から苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受け、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年より作曲家のクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(Christian Gottlob Neefe、1748-1798)に師事し、1787年にウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart、1756-1791)を訪問したが、母が肺結核で危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し、アルコール依存症となり失職した父に代わって、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支えた。

1792年7月にロンドンからウィーンに戻る途中でボンに立ち寄ったハイドン(Franz Joseph Haydn、1732-1809)にその才能を認められて弟子入りし、11月にはウィーンに移住し(12月に父が死去)、まもなくピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ=virtuoso)として名声を博した。20代後半頃より持病の難聴が徐々に悪化し、28歳の頃には最高度難聴者となった。音楽家として聴覚を失うという絶望感から、1802年には「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためて自殺も考えたが、彼自身の音楽への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得た。

1804年に交響曲第3番を発表し、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、「傑作の森」(ロマン・ロラン=Romain Rolland、1866-1944)=による表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。40歳頃には聴覚を失い、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。しかし、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や「ミサ・ソレムニス」(Missa_solemnis、1823年)といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲などの作品群を完成した。

1826年12月に肺炎を患い、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、1827年3月23日には死期を悟って遺書を認め、病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま3月26日、肝硬変のため生涯を閉じた。享年58歳(満56歳没)。

「交響曲第九番」はベートーベンの9番目にして最後の交響曲で(第10番は未完成)、1824年に初稿が完成した。交響曲とはソナタの形式で書かれた器楽のための楽曲で、第1楽章がソナタ、第2楽章がスケルツォ、第3楽章が緩徐楽章、第4楽章に4人の独唱と混声合唱を導入した。第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはドイツの詩人、シラー(Johann C. F.von Schiller、1759-1805)の詩「歓喜に寄す」が3分の1程度を抜粋して使われている。

西川幾子さんは京都府生まれ、4歳からピアノをはじめ、中学生で「全日本学生音楽コンクール」西日本大会中学校の部第1位になり、東京芸術大学を卒業、イタリアの「シエナ・キジアーナ音楽院」でディプロマ(卒業証書)を取得、1995年と1998年に京都と東京でソロリサイタルを開き、1996年から7年間、筑波大学付属駒場中・高校で講師を務め、2000年「音楽事務所 夢工房」を設立した。現在、ピアノ活動と並行して、音楽イベントプロデュースを行っている。