灘五郷組合、銀座で17蔵「灘の酒」イベント、「にほんしゅ」の漫才も

【銀座新聞ニュース=2017年8月25日】神戸市、西宮市の清酒メーカー26社などで構成される「灘五郷酒造組合」(兵庫県神戸市東灘区御影本町5-10-11、078-841-1101)は9月15日、16日の2日間、時事通信ホール(中央区銀座5-15-8)で「日本一の酒処!灘の酒フェスティバル2017in銀座」を開く。

灘五郷酒造組合が9月15日、16日の2日間、時事通信ホールで開く「日本一の酒処!灘の酒フェスティバル2017イン(in)銀座」。画像は7月に開かれた灘五郷酒造組合主催の「神戸サケスタイル(KOBE SAKE Style)-灘の酒 七夕ナイト・イン・ソラ(Night in sola)」の会場風景。

兵庫県の西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷、今津郷の5地域からなる灘五郷(なだごごう)灘五郷酒造組合に所属する17蔵が「まだ知らない、神戸と西宮で醸された“灘の酒”の魅力を発見!」をテーマ に、「灘の酒」(純米大吟醸酒、大吟醸酒、域限限定酒、スパークリング日本酒、純米酒、原酒、梅酒、リキュールなど)を飲み比べできるイベントだ。

首都圏の日本酒初心者から上級者に「灘の酒」の魅力を知ってもらい。ブランド力の向上を図り、「灘の酒」の需要拡大をめざすのが目的としている。
会場では「灘の酒」の歴史や最新の取り組みまで伝えるセミナー、お燗ブース、食と酒器のブースなど灘の酒に合う料理やおつまみから、日本酒を引き立てる酒器まで用意して、新しい日本酒の飲み方を体感できる。

また、食のブースでは神戸と西宮に本社を持つ食品メーカーが六甲バターのQBBチーズや、ネスレ日本のキットカットなども配り、日本酒との相性のよさを知ってもらう。

15日の乾杯式では鏡開き、振る舞い酒も予定し、特設販売ブースで購入することもできる。

メーンホールでは15日には和酒コーディネーターで酒サムライ、兵庫県出身のあおい有紀(ゆうき)さんの司会進行(MC)により、バイオリン奏者の竜馬(りょうま)さんが演奏する。また、2017年ミス日本酒準グランプリの加藤香(かとう・かおり)さんも出演する。

16日は日本酒スタイリストでタレントの島田律子(しまだ・りつこ)さんの司会進行により、箏奏者の吉永真奈(よしだ・まな)さんとバイオリン奏者のソング(Song)さんが演奏する。さらに、兵庫県出身の日本酒専門漫才コンビ「にほんしゅ」の酒蔵紹介&漫才、2016年ミス日本酒の田中沙百合(たなか・さゆり)さんが出演する。

ウイキペディアによると、灘五郷は「灘の生一本」で知られる日本酒の生産地で、兵庫県神戸市の東灘区、灘区と同県西宮市を合わせた阪神間の地域をさし、酒造りに適した上質の酒米(山田錦)と上質のミネラル水(宮水)が取れ、寒造りに最適と呼ばれる「六甲おろし」が吹き、製品の水上輸送に便利な港があったことから、日本酒の名産地として栄えた。

かつては伊丹・池田が摂津の代表的な酒どころだったが、幕府が江戸に移って以降、当時の技術で品質を落とさずに江戸まで酒を輸送するのが困難となり、伊丹・池田よりも輸送所要日数にして2、3日は短縮可能な灘地区が、江戸時代中期以降の上方酒の主流となった。

江戸時代中期には灘では絞油業も栄えて、絞油業を大坂に独占させて江戸への油の一元的供給を図ろうとした江戸幕府と対立したが、後に江戸への直接販売が認められるようになった。

1995年の阪神大震災では、白壁土蔵造りの酒蔵、赤煉瓦の酒蔵など伝統的な景観が損なわれ、震災後に中小蔵元の廃業も見られたが、多くの有名メーカーが軒を連ね、日本一の酒造業地帯であることに変わりはない。仕込みの時期には新酒の香りも漂い、それが環境省のかおり風景100選にも選ばれている。

国税庁によると、2015年度の日本酒の生産量は44万4353キロリットル、兵庫県が12万6747キロリットルで、シェア28.5%と全国1位となっている。

灘五郷酒造組合によると、灘地方における酒造りの歴史は、伝承的には古く元弘・建武の昔(1330年頃)より行われており、室町時代にはすでに酒造が始まっていたとの記録がある。その後、寛永年間(1624年から1643年)、伊丹の雑喉屋文右衛門(ざこうや・ぶんうえもん、生没年不詳)が西宮に移り住み、最初の酒造りをはじめた。

以後、明暦(1655年から)から享保(1736年)に至る60余年間に灘地方で創業し今日に至る酒造家が多いことから、灘の酒の勃興期はこの期間とされている。江戸時代の初期には、池田・伊丹地域が江戸向けの酒造地として栄えたが、灘地域も独創的な精米や仕込みの技術を駆使して優良な酒を生み出し、名声を高めた。

江戸時代の中期以降、灘五郷が池田・伊丹に替わって新たに台頭した。その範囲は西摂沿岸の「灘目」と呼ばれた地方で、東は武庫川河口より、西は旧生田川界隈の約24キロに至り、この沿海が総称して「灘」と呼ばれていた。「灘目」とは「灘辺」という意味であり、初めて「灘」の名称が用いられたのは1716(正徳6)年とされ、明和年間(1764年から)には「灘目」と称されるようになった。

上方酒造業者の株仲間が結成された1772(明和9)年には灘目は上灘、下灘として二郷を形成し、そこに今津郷を加えた三郷が、後の灘五郷を形成した。当時は、この三郷が灘酒造業の中核をなしていた。1828(文政11)年に、上灘は東組、中組、西組の三組に分化し、東組の魚崎、中組の御影、西組の新在家、大石が中心となった。

この上灘三組と下灘、今津をもって江戸時代の灘五郷が形成された。当時の灘五郷は、今津、西宮、魚崎、御影、西郷からなる今日の灘五郷とは地域的に若干異なっていた。

灘酒造業が江戸向けの銘醸地として発展したのは、亨保期の18世紀以降で、要因となったのは、高度な酒造技術や西宮の一角から湧き出る良質な水=宮水が挙げられる。それに、これまでの足踏み精米に比べ、水車によって精白度を高めるとともに、精米量の増大により量産化の道を大きく開いた、六甲山系の急流を利用した水車の存在と、船積みの便に恵まれていた上に、西宮に樽廻船問屋ができ、その発着点になるなど、輸送体制が着実に強化されたことも大きい。

江戸へ輸送する際には海路を使った樽廻船で運ぶことができ、陸地からの輸送よりも早く大量に出荷することができ、その際に樽の杉香が清酒に移り、熟成されることにより酒質も向上し、「灘の酒」は江戸後期には江戸の酒の需要の8割を供給したといわれている。

江戸の繁栄とともに酒造業界は発展を続け、灘目一帯には千石造りの酒造蔵が建ち並んだ。明治維新になると、新政府は、江戸時代の酒造株に対して酒造鑑札書替料を徴収し、灘五郷の株高50万石余りに対し、10万両以上という巨額の出費を命じ、酒造家が応じた。

これは酒造鑑札が「永世の家督」として保証されることを期待したからだが、1872(明治4)年に旧酒造鑑札は没収され、新鑑札が交付され、新しい鑑札は、新規免許料金20両と、免許料として酒造稼人1人につき毎年5円を納めると、誰でも酒造業を始めることができた。これにより、酒造特権はなくなり、開業が自由化されたため、全国の地主が一斉に酒造業をはじめた。

政府は1872年に「清酒・濁酒・しょう油醸造鑑札収与並ニ収税方法規則」を交付し、酒造業についても全国的均一化の政策を実施し、1876(明治8)年にこの規則を集大成し、営業税、酒造税、鑑札及び醸造検査をまとめた「酒類税則」を交付した。

1881(明治13)年に酒造検査の徹底化と罰則規定が強化された「酒造規則」が交付されると、酒税の軽減を要求する酒造家の減税闘争が各地で高まった。これに対して、政府は増税で対応したが、灘酒造家は酒税の引き上げに耐えられる企業型の大規模酒造家グループと、重税が経営の圧迫となる零細な小規模酒造家グループとの経営格差から対応が二分され、江戸時代から続く有力酒造資本家は幕末維新期の経営不振を脱し、営業税の増徴を強行した政府の政策に乗りながら資本を蓄積し、灘酒造業は起死回生の道を歩み出した。

灘酒造業では、西宮郷が日本摂酒会社や西宮造酒会社を設立し、煉瓦造りの模範的酒造工場の建設や、精米工程への蒸気力の導入と石炭の使用など、設備の近代化に乗り出した。また、酒造技術を革新するため、日本酒類試験所と称する「醸造研究所」を創設、設備の近代化により、江戸時代の酒造蔵から酒造工場へと一新した。市場も急拡大し、日清戦争から日露戦争にかけて資本主義の急速な発展と国内経済の成長に伴い、灘酒造業は大正期の好景気を迎えた。

昭和に入り、世界的な経済恐慌により、酒造業界も影響を受け、需要の減退に加え、酒造金融の行き詰まりとともに酒造税の滞納者や転廃業者が続出した。1937年の日支戦争を発端とし、1938年には国家総動員法が施行され、戦時体制下に入り、戦時統制のもと、酒造業の生産統制と酒税増徴が段階的に実施された。

1937年から1938年には酒価安定と酒税保全のための自主的生産統制が実施され、1939年から1940年には「原料米使用高決定方式」による酒造原料米の自主規制と酒価の公定が行われ、1941年から1942年には「酒類配給統制則」に基づいた配給機構が整備され、1943年には「清酒製造業整備要綱」に基づいて酒造業界の大規模な再編が実施された。

1943年には企業の再編と並んで、統制経済による酒不足を解決するため清酒醪(もろみ)へのアルコール添加が認められ、1944年には全国へと普及された。アルコール添加の酒は、従来の米のみから醸造された清酒と比べてサッパリとして飲みやすく、しかも量産につながるという理由を政府が認めた結果だった。

1945年の阪神大空襲により、灘五郷の酒造業の存続は危機的な状況に陥るという、壊滅的な打撃を被ったが、全国酒造用割当米の規制という時期を乗り越え、灘の生産量は1945年の清酒造高5万石から、1951年には12万石超、1954年には20万石台、1959年以降は30万石へと復興していった。

1963年より2次にわたって合理化と構造改革のための5カ年計画を実施し、業界の再編に向けて大きく動いたとしている。

参加する醸造元とブランドは大関(おおぜき)の「大関」、日本盛(にほんさかり)の「日本盛」、白鷹(はくたか)の「白鷹」、辰馬本家酒造(たつうまほんけしゅぞう)の「白鹿(はくしか)」、松竹梅酒造(しょうちくばいしゅぞう)の「灘一(なだいち)」。

北山酒造(きたやましゅぞう)の「島美人(しまびじん)」、万代大沢醸造(まんだいおおさわじょうぞう)の「徳若(とくわか)」、沢の鶴(さわのつる)の「沢の鶴」、太田酒造の「千代田蔵(ちよだぐら)」、小山本家酒造の「浜福鶴(はまふくつる)」、桜正宗(さくらまさむね)の「桜正宗」。

白鶴酒造(はくつるしゅぞう)の「白鶴」、菊正宗酒造(きくまさむねしゅぞう)の「菊正宗」、剣菱酒造(けんびししゅぞう)の「剣菱」、神戸酒心館(こうべしゅしんかん)の「福寿(ふくじゅ)」、泉酒造の「仙介(せんすけ)」、安福又四郎商店(やすふくまたしろうしょうてん)の「大黒正宗(だいこくまさむね)」。

時間は15日が19時から21時30分。16日が13時から15時、16時から18時の2部制。定員は各回とも350人。参加料は15日が3000円(前売2500円)、16日が2500円(同2000円)。チケットはパスマーケット(https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01ieqwz0r5q1.html)、またはピーティックス(http://nadafes2017.peatix.com/)で購入できる。