ミッドナイト・エンジェル(1)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2021年11月26日】春雨のそぼ降る肌寒い晩だった。パンデミック下の時短要請で、風前の灯火のホストクラブ「エンジェルズ」を、初見の客が訪れた。黒ずくめの衣装の長い髪の肌が透き通るように白い女だった。傘を持たず、走ってきたものと思われ、雨除け代わりに被った黒絹のショールは細かい水滴を弾き、きらきら光っていた。

濡れたショールの下の化粧気のない顔は凄みのある美貌で、迎え出たラファエルこと神代蓮(くましろ・れん)は、どきりとした。女はマスクを着けていなかった。

黒地にスカル模様のマスクで顔半分を覆った蓮は、検温後手指消毒を促し、予備のマスクを手渡して、中に迎え入れた。とっさに持参したタオルで、女が全身に光る雨粒を拭うのを待つ。体全体にダイヤの細かいかけらをましたようで、神秘的な水の精を思わせた。

ゴージャスなシャンデリアがきらめく大理石のラウンジを抜けて、アクリル板で仕切られたソファー席へ案内する。テーブルに据えられたデジタル帳、業界用語で言うところの男本を立ち上げて、画面に現れたホストファイルの選び方を指南する。

純白の革張ソファーにゆったり腰掛けた女の全身から、雨の匂いと混ざった梔子(くちなし)に似た甘くほのかな香りが漂った。香水なのか、体臭なのかわからない、かすかな芳香だった。

生憎、その日は、8人しかいないホストの2人が休んでいた。近くのライバル店から感染者が出て、オーナーは売れっ子を守るため、1週間の隔離を命じたのだ。いずれ、この店も、従業員全員が検査を余儀なくされるだろう。

関西一の人気ホストだった社長は7年後、現役を引退し、琵琶湖のほとりの歓楽街でクラブをプロデュース、「エンジェルズ」は、癒し系のホストクラブとして、悩める姫たちのオアシスになった。

イケメン王子のトップはミカエル、大天使の名にふさわしく、エンジェリックな顔立ちで、愛くるしいキュートさが、人気の秘密だ。次点はガブリエル、精悍で長身、クールなところが受けている。3番手がラファエルで、癒し系という意味では、孤独な姫たちの恰好の慰め役、聞き上手だった。

ホストクラブの客の大半は風俗嬢が占めていたが、エンジェルズには素人の姫君が好んで、集まった。初見の客は90分5000円の飲み放題システムが受けて、女子大生も冷やかし半分にやって来た。たいていは1回こっきり、好奇が満たされれば終わりで、次に繋がることは少ない。まれにハマって指名ホストに入れ揚げるケースもあるが、ホスト遊びは生半可でない金がかかる。アルバイトくらいではとても追いつかず、借金地獄にはまった例もあった。

だから、素人なら、金があり余っている富裕層、政財界はじめ、医者や弁護士の夫人、女性起業家、まれに霊能者なんてのもいる。癒し系クラブという触れ込みが受けて、最年長には、膨大な遺産を相続した70代の未亡人までいた。

年齢不詳のミステリアスな美女が選んだのは、人気No.1のミカエルだった。こうした非常事でもない限り、トップ2人は指名客の予約以外受け付けなかったが、客が激減している今、初見でも指定されれば、倍の値段で接待していた。が、生憎、ミカエルは隔離を命じられ、非番だ。

次にガブリエルと来て、ありきたりの選択順に蓮は少し興醒めする。

「申し訳ありません。ガブリエルも本日お休みを頂いておりまして」
と頭を下げると、間髪を入れず、女はこっちを指差して、
「じゃあ、あなた」
と、灰色がかった不思議な瞳でじいっと見透かすようにした。真正面から値踏みされているようで落ち着かなかったが、不快ではなかった。寧ろ澄んだ瞳で見つめられることでぞくぞくした。

「僕こと、ラファエルをご指名頂き、ありがとうございます。生憎、ちょっと事情がありまして、今接客を控えさせて頂いております。申し訳ありません」

「あなた、ラファエルって言うの?」
女がびっくりしたように、一オクターブ高い声で投げた。

「はい」

「ホストファイルには、載っていなかったわね」

「はあ、一時的に外されておりまして」

口ごもってごまかす。実はオーナーから1週間の謹慎を言い渡されていたのだ。この間、案内係とヘルプに甘んじていたわけだが、理由はルール違反だった。ガブリエルの上客と、こっそり裏で通じたせいである。店では「爆弾」といわれるタブー行為で、バレてしまった以上、潔く罰を受けるしかなかったが、誘惑してきたのは実は、女の方だった。

40半ばの女経営者は、日頃から札束を惜しげなくばら撒く太客中の太客で、ガブリエルの大事なパトロンでもあった。が、酒癖のよくない痛客でもあり、扱いかねるところがあった。そんな事情から、ガブリエルも目移りしたのだと思うが、彼女は当然面白くなく、見せしめか、売り上げをせっていた3番手のラファエルにちょっかいを出してきたのだ。

規則違反とわかっていて、蓮はあえて、彼女の誘いに乗った。将来、独立するなら、資金援助するとの甘い言葉に、ぐらりと気持ちが揺らいだのだ。

枕営業、業界用語でいうところの「色マク」で客を繋ぎ止めるのは極力避けたかったが、魔が差したというか、しつこい女の誘いに負けて、渋々応じた。

無論、寝取られたガブリエルは黙っていなかった。社長の鉄槌が下ったのは、まもなくだった。踏んだり蹴ったりで、体を張って捕まえた金づるも元の鞘に戻った。ひとり悪者にされたのは、自分だけだった。割りをくらったようで、今も釈然としない。

そう、あれはまだ世界が今のような大混乱に陥る前のことだった。ガブリエルの26歳のバースデーに、ドン・ペリニヨンのシャンパンタワーをオーダーしたパトロン客がいた。黒のイブニングにふくよかな肉体をぴっちり包み込んだ50年配の有閑マダムは、ピラミッド状に積み上げられたぴかぴかのクリスタルグラスの塔を前に、惜しみなく注がれるピンクの気泡酒を満悦げに見下ろしていた。

傍らには、純白のタキシードで着飾ったりりしい貴公子、ガブリエルが100本の紅薔薇のブーケを手に、口元にクールな笑みを湛えて、寄り添っていた。

5段のグラスタワーの前に勢揃いしたホスト一同が恒例のシャンパンコール、歌うような節回しで、やんのやんのと、今宵のセレブカップルを囃し立てる。

「綺麗な姫とイケメン王子、似合いの2人、姫様、シャンパンありがとう、もっと注いで、どんどん注いで、もっともっと」

そのとき、横槍が入った。はすかいの席で見守っていた化粧の濃い華美な和服姿の新参姫が、つかつかとガブリエルに歩み寄り、分厚い札束をポンと投げ与えたのだ。

「これ、私からのプレゼント」

レジがカウントすると、福沢諭吉が300枚あって、それまでガブリエルをほぼ独り占めしていた有閑マダムのバースデーチップより100枚も多かった。

以降、ガブリエルの気持ちは、彼女に向いたというわけだ。

が、上には上がいる。新たに登場した若い姫に、地位を脅かされそうになって、ラファエルを利用したというわけだ。

ちなみに、ミカエルは別格、指名本数・販売単価ともダントツで、1000万プレーヤーのカリスマホスト、2位以下を大きく引き離し、王座は揺るがなかった。超然としたキングに太刀打ちできる者はいない。社長ですら、稼ぎ頭No.1には頭が上がらない。チーフ兼任のミカエルの働きで、店は持っているようなものだったからだ。

だから、陰湿な足の引っ張り合いを繰り広げていたのは、2位以下だった。天使クラブが聞いて呆れる、癒し系など所詮綺麗事、男同士の嫉妬は、女のそれより始末に悪い。水商売の裏事情はどこも、同じもんだ。

近頃、ホストというと、売れっ子だと、スター並みにチヤホヤされるが、現実はそんなに甘くない。売り上げ本位の成果主義、歩合制でシビア、蓮は、ミカエルがトップの座を保つため、血の滲むような努力をしているのを知っていた。勤務中は断じて飲酒せず、姫をひたすら喜ばせるサービスに徹底する。誠ストイックなくらいの奉仕ぶりだった。
(「ミッドナイト・エンジェル」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)