永谷商事、田辺一邑と赤坂の史跡を歩く、氷川神社等

【銀座新聞ニュース=2019年6月21日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は6月26日に田辺一邑さんによる「講談師と歩く 歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

永谷商事が6月26日に開く「講談師と歩く 歴史と文化の散歩ラリー」で「歴史の名残を辿る 赤坂編」を案内する田辺一邑さん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開催している「講釈師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画だ。

今回は真打の講談師の田辺一邑(たなべ・いちゆう)さんが「歴史の名残を辿る 赤坂編」と題して、東京メトロ南北線「六本木一丁目」駅から「南部坂」(赤坂2丁目と六本木2丁目の境界)かfen「勝海舟邸跡」(港区赤坂6-10-39)を経て、「赤坂氷川神社(あかさかひかわじんじゃ)」(港区赤坂6-10-12、03-3583-1935)、「赤坂サカス」(港区赤坂5-3、03-3746-6666)、「日枝神社」(千代田区永田町2-10-5、03-3581-2471)と回り、そこから「お江戸日本橋亭」に移り、午後から「日本橋お江戸寄席」を鑑賞する。

「南部坂」は港区赤坂福吉町と麻布今井町との境にある坂で、江戸時代初期、近隣の氷川神社の辺りに南部家中屋敷があったことことから、「南部坂」と呼ばれた。1644(正保元)年の江戸絵図には赤坂・南部坂の坂上、現在の赤坂氷川公園・氷川小学校のあたりに「南部山城守下屋敷」が記されているが、約30年後の1673(寛文13)年2月の寛文図では同所が「浅野采女」に変っている。

一方、はじめ麻布盛岡町(後年の地名)の現在の有栖川宮記念公園には「浅野内匠下屋敷」があったが、ここが寛文図では「南部大ゼン」に変っている。この南部邸と浅野邸の入れ替わりは、1656(明暦2)年2月に南部山城守重直(なんぶ・やましろのかみ・しげなお、1606-1664)の中屋敷(赤坂築地)と浅野内匠頭長直(あさの・たくみのかみ・ながなお、1610-1672)の下屋敷(麻布)との相対替(あいたいがえ)が行われたことによる。つまり、赤坂の南部坂は1656年以前の命名であり、麻布の南部坂はそれ以降の命名であると解される。

赤坂の南部坂は、「忠臣蔵」の名場面のひとつ、大石良雄(おおいし・よしお、大石 内蔵助=おおいし・くらのすけ、1659-1703)が瑤泉院(ようぜんいん)に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台として知られる。瑤泉院は浅野長矩(あさの・ながのり、1667-1701)の切腹以降、実家の三次藩下屋敷に引き取られていたが、この屋敷は赤坂・南部坂の頂上付近、現在の氷川神社境内にあった。現在、この坂の南西側は駐日アメリカ大使館の官舎(宿舎)になっている。

「勝海舟邸跡」は勝海舟(かつ・かいしゅう、1823-1899)が1859(安政6)年から1868(明治元)年まで住んだ氷川神社裏の大邸宅跡で、現在はアイリッシュバーの前の植え込みに標柱がある。

1862(文久2)年12月に、坂本龍馬(さかもと・りょうま、1836-1867)が訪れたのがこの勝海舟邸で、幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽(まつだいら・しゅんがく、1828-1890)に紹介状を受けた、坂本龍馬と門田為之助(かどた・ためのすけ、1838-1867)、近藤長次郎(こんどう・ちょうじろう、1838-1866)が勝海舟の屋敷を訪れて、門人となった。

1868(慶応4)年4月4日に、土方歳三(ひじかた・としぞう、1835-1869)が流山で官軍に捕縛された近藤勇(こんどう・いさみ、1834-1868年5月17日)の助命嘆願のために勝海舟を訪れたこともあった。

また、1868年5月に勝海舟の留守中に、上野戦争で新政府軍の一隊が勝海舟をもとめて邸内に侵入した際に勝海舟の妹で佐久間象山(さくま・ぞうざん、1811-1864)の未亡人、瑞枝(みずえ、旧名・順=じゅん、1836-1908)が家人を励まして、平然として隊員を説得したという。

「赤坂氷川神社」は951年に蓮林僧正(れんりんそうじょう)が霊夢を見て、現在の赤坂4丁目あたりに創建したと伝えられ、1066年に関東に大かんばつが起こったため、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来祭事が行われるようになったという。

1730年に8代将軍徳川吉宗(とくがわ・よしむね、1684-1751)が現在地にうつすよう命じ、社殿も造営され、徳川吉宗直々に参拝した。以後、歴代、朱印状を下付され、開運、厄除、良縁の鎮守神として信仰された。社殿は東京都有形文化財に指定されている。麻布氷川神社、渋谷氷川神社などとともに「江戸七氷川」に数えられ、1868年に「准勅祭社」に列せられた。

「赤坂サカス」は1994年に東京放送(現東京放送ホールディングス)がTBS放送センターへ本社演奏所が移転した後の旧社屋跡地(2003年まで「赤坂メディアビル」)の再開発を目的に、土地所有者である東京放送とディベロッパーである三井不動産によって再開発された複合施設だ。

2008年3月20日にグランドオープンし、一時閉館していた赤坂ブリッツ(BLITZ)や、赤坂アクト(ACT)シアターも全面リニューアルオープンし、2009年にグッドデザイン賞を受賞した。「サカス」は桜を咲かすという意味と、赤坂にたくさんある坂の意味もある。

「日枝神社」は創建年代が不詳だが、1478年に太田道潅(おおた・どうかん、1432-1486)が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まりとされている。徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。

1604年に江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。社地は1635年までに600石となった。1657年の明暦の大火により社殿を焼失し、1659年に赤坂の松平忠房(まつだいら・ただふさ、1619-1700)の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。

1868年11月に東京奠都の際に准勅祭社に指定され、1871年に神祇官直下から東京府管轄に移され、1882年に官幣中社になり、1912年に官幣大社に昇格した。1945年に東京大空襲で社殿が焼失し、1958年に再建された。所蔵されている太刀「銘則宗」は国宝に認定されてる。

田辺一邑さんは1961年静岡県浜松市生まれ、1984年に横浜市立大学文理学部文科独語独文学専攻を卒業、日航情報開発などで10年以上システムエンジニアとして勤め、1997年に田辺一鶴(たなべ・いっかく、1929-2009)に入門して前座名が「一邑」、2000年に「二ツ目」、2009年に「真打」に昇進、2010年10月に静岡県浜松市「やらまいか大使」に就任した。

時間は10時から16時で、10時に東京メトロ南北線「六本木一丁目」駅前に集合する。昼までにお江戸日本橋亭に移り、13時30分からお江戸日本橋亭で田辺一邑さんらの寄席となる。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

13時30分からお江戸寄席は前座に続いて、前座の三遊亭遊七(さんゆうてい・ゆうしち)さん、二ツ目の三遊亭楽大(さんゆうてい・らくだい)さん、田辺一邑さん、真打の三遊亭遊之介(さんゆうてい・ゆうのすけ)さん、ギター漫談のあさひのぼるさん、真打の三遊亭鳳楽(さんゆうてい・ほうらく)さんが出演する予定。