プランタンで藤田嗣治展、君代夫人所蔵品も

【銀座新聞ニュース=2012年2月20日】プランタン銀座(中央区銀座3-2-1、03-3567-0077)は2月21日から2月27日まで本館6階アートギャラリー「ギャルリィ・ドゥ・プランタン」で「藤田嗣治版画展-パリを魅了した異邦人」を開催する。

「エコール・ド・パリ」の画家で、彫刻家の藤田嗣治(ふじた・つぐはる、1886-1968)の版画シリーズを取り上げる個展で、今回は初期に作られた作品から、猫や子供シリーズなどの人気作品、夫人の藤田君代(ふじた・きみよ、1911-2009)が長年、秘蔵していたコレクションの一部を併せて展示販売する。

「エコール・ド・パリ」は1920年代を中心にパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、活動していた出身国も画風もさまざまな画家の総称で、厳密な定義がない。アンリ・ルソー((Henri Julien Felix Rousseau、1844-1910)やモーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo、1883-1955)、マリー・ローランサン(Marie Laurencin、1883-1956)、アメデオ・モディリアーニ(Amedeo C.Modigliani、1884-1920)らが代表的な画家だ。

ウイキペディアなどによると、藤田嗣治は1886年東京都生まれ、1910年に東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科を卒業、1913年にフランスへわたり、パリのモンパルナスに住み、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)らと交遊し、1917年に初めての個展を開催、1919年に「サロン・ドートンヌ」に初入選し、会員に推挙され、 1925年にベルギーのレオポルド勲章を受勲した。

1931年にパリを離れ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビアを訪ね、メキシコを経由してアメリカへわたった。1933年に帰国、1934年に二科会会員となり、1938年から1年間従軍画家として中国にわたり、1939年に日本に帰国した。その後、パリへ戻るが、第2次世界大戦(1939年から1945年)が勃発し、1940年にドイツに占領される直前パリを離れ、再度日本に帰国した。

帰国後は戦争画を制作し、敗戦後の1949年にニューヨークのブルックリン美術館付属美術館の教授として招かれた。1950年にパリへ移り、1955年にフランス国籍を取得、その後、日本国籍を抹消し、1957年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。1968年1月29日にスイスのチューリヒでガンのため81歳で死去、遺体はパリ郊外のヴィリエ・ル・バクルに葬られ、 死後に日本政府から勲1等瑞宝章が贈られた。

1935年に一時帰国した際に藤田君代と出会い、1936年に3度目の結婚(過去2人はフランス人でいずれも離婚)をし、1939年にパリに戻り、 1940年に帰国し、戦争画を「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」(藤田嗣治)が、戦後それをもとに戦争協力を批判され、パリに戻った後、フランス国籍を取得し、1959年から夫婦で洗礼を受け、「レオナール・フジタ」と名乗り、二度と帰国しなかった。

藤田君代はその後、パリ郊外の旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館したが、日本で「正しく評価しない以上、忘れてほしい」と出版物の刊行などを一切拒否してきた。近年、藤田君代監修で画集が発売されたり、2006年に国立近代美術館で戦争画が展示されたりしていた。産経新聞2009年4月25日号によると、4月2日に東京で死去した藤田君代の遺骨はフランスのランスにあるレオナール・フジタが眠るフジタ礼拝堂に埋葬された。

営業時間は11時から20時30分(日曜日は19時30分)で、入場は無料。