ミッドナイト・エンジェル(3)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2021年12月24日】1都3県での緊急事態宣言が解除されて、桜満開のシーズンを迎え、関西のみならず関東方面からの観光客も増えてきた。閑古鳥が鳴いていた店も、少しずつ賑わいを取り戻していた。

先月の検査結果は全員陰性で、近隣のホストクラブ感染騒動も、ひと月が経って落ち着いていた。皮肉にも、ライバル店が当座休業したことで、天使クラブはこの1年なかった活気を取り戻していた。御三家の人気ホストが勢揃い、都会からの一見客の接待に大わらわだった。

その夜、蓮が接待したのも、土地の者でないとひと目でわかる初見の若い娘だった。ちょっと見た目は、高校生かと見紛うような童顔で、受付が年齢確認しているから、未成年者が紛れ込むはずはなかったが、どきりとした。関西訛りがないため、関東方面からの観光客と思われ、京都の花見ついでに、気紛れに立ち寄ったものだろう。

桜シーズンは、京都の宿が満杯になるので、電車で20分の大津に宿をとる若い京都ファンも多かった。ついでに、琵琶湖周遊していく旅行者も多い。ちょっとした穴場で、宿代も安めだし、混雑している有名観光地よりも、空いていて余裕で周れる。かく言う自分もそうして、琵琶湖に魅せられたひとりだった。

それにしても、最近の若い娘は大胆だ。観光の乗りで、ホストクラブに単身乗り込んでくるのだから。もうじき30に手が届く自分としては、ついていけなくなることも稀でない。

大学の心理学科を卒業した蓮は本来は、カウンセラー志望で、天使クラブに引き抜かれたのは、ほんの偶然からだった。ルックスに自信があったため、小遣い稼ぎに学生時代からホストのバイトを始めたところ、人気が出て、腰掛けのつもりがどっぷり水商売にはまってしまったのだ。

とにかく、実入りがよかったし、学生には、分不相応な贅沢ができた。しかし、バイト時代も含めると、5年も夜の世界で揉まれるうちに、ホスト同士の陰湿な足の引っ張りあいに嫌気がさして、足を洗いたくなった。

気持ちに踏ん切りをつけるため京都旅行、立ち寄った琵琶湖で、天使クラブがホスト募集している貼り紙を見て、何かにおびき寄せられるように入店、即決で新しくオープンしたばかりの一風変わった癒し系クラブに勤めることになったのだ。衝動的な、何か運命に突き動かされるような決断だった。

水商売から足を洗うつもりが、田舎町のちょっと変わった店に都落ちすることになってしまったわけだ。琵琶湖の海と見紛う壮麗さに魅了されたのと、社長の人柄、男っぷりに惚れ込んだこともあった。

「初めまして、ラファエルです」

改めて自己紹介すると、あどけない姫ははにかんだ笑みを洩らし、心持ち頭を下げた。ショートカットの髪にピンクの花びらが一枚貼り付いているのに気づいた蓮は、さりげなく手を伸ばして、取ってやった。

「桜の髪飾りがついていたよ」

「あら」

姫は虚をつかれたように、掌に落とされた薄紅(くれな)いの花弁を見つめ、小首を傾げる可憐な仕草で、

「どこでついたのかしら」
と、ぼんやり独りごちるようにつぶやいた。頬が掌中の花弁よりも鮮やかな紅に染まっていた。

内気な質らしく、自分から積極的に話しかけてこず、蓮はまずあいさつ代わりに、姫が興味を持ちそうな話題を振ったが、上の空で生返事、何か悩みを抱えていそうな気がした。冷やかし半分に天使クラブを覗いたとは思われなかった。久々に、癒しを必要とする本来の客かもしれないと思った。

「何か相談事があるなら、遠慮せずにどうぞ。ここは、そのためのサロンでもあるわけだから」

姫はうつむきがちにもぞもぞしていたが、意を決したように、小声で喋り出した。

「雑誌でこの店の記事を読んだんです」

「あ、そうなんだ。じゃ、天使クラブのことは前もって知ってたんだね」

「はい。オーナーさんがホスト時代に、パニック障害のお客さんがいて、親身にフォローして治したってエピソード読んで、ここに来れば、助けてもらえそうな気がして」

ラファエルは息を呑んで、少し身構えた。

「私、高校のときから、不安が突発的に襲ってくる病気に悩まされていて、パニックに見舞われるたび、息苦しくて動悸が激しくなって、今にも死にそうで怖いんです。通院して定期的に薬も飲んでいるんだけど、いっこうに治らなくて」

癒しを求めるいろんな客がこれまで訪れたが、大抵は誰もが持つ、人間関係や仕事、恋愛・家庭、経済上の悩みで、精神障害を患うほどの深刻な問題を抱える客には、幸か不幸か、これまで遭遇してこなかった。大半はホスト遊びで金をばらまくお気楽な姫たちばかりだった。無論、彼女たちとて、孤独という心の闇を抱え、ひとときにも慰めを欲しているのだが。

パンデミック(世界的大流行) 下、自身も先行きの不安を抱えているだけに、目の前の可憐な姫の不安定な精神状態により、共感できるような気がした。

「今、大学もオンライン授業で、私のことをよく理解してくれてる親友とも会えないし、引きこもりがちになって、前より不安が増してるみたいなんです」

未知のウイルスが猛威を振るう中、自粛を強いられた人たちの中には、鬱になるケースも増えていると聞いた。こういうご時世だ、パニック障害持ちの人にはさぞかし、辛いだろう。

「ずっと、ここのこと、気になっていました。でも、東京だったし、なかなか訪れる機会も、何より勇気がなくて。でも、いよいよどうにもならなくなって、緊急事宣言が解除されたのを機に、思い切って訪ねてみたんです。あ、私、はづきと言います、羽に月と書いて羽月」

それが、蓮と九条羽月の運命的な出会いだった。

90分の接待後、蓮は、羽月と連絡先を交換し合い、できるだけの助力をすることを約束した。とにかく、触れればガラスのようにもろくて壊れてしまいそうな純真な乙女が放っておけなかったのだ。

店から帰った後、早速パニック障害についてネットで検索してみた。おおまかな概要をつかんだ後も、休日ごとに図書館で関連本を読み漁って、にわか勉強した。

本来、人は緊急事態に遭遇したとき、対処する生存本能が備わっているが、パニック障害とは、何一つ危険な事態に直面していないにもかかわらず、脳が誤作動の過剰反応を起こしてしまうことらしかった。

たとえば、銃を持ったテロリストに遭遇したとき、恐怖のあまり、目の前が真っ暗になって、動悸が激しくなったり、息苦しくなったりするのは、自然の反応だ。蓮だって、そういう非常時に直面すれば、パニック状態に陥り、体が過剰な自己防衛反応で震えだしたり、息苦しくなったりするだろう。

仮に銃を頭に突きつけられたら、極度の緊張と恐怖のあまり、女性なら失神してしまうかもしれない。そういうパニック反応が平常時でも、起こるということだから、これは当事者にとっては、かなり辛いだろうと容易に想像できた。

発作が起きたときの応急処置としては、精神安定剤のほかに、ミント系のキャンディやガム、ラベンダーや柑橘系の香り、深呼吸、バタフライハグなど、それで何とか危機を切り抜けられる人もいるらしいが、最悪のときは救急車を呼ぶこともあるようだ。

羽月は、店にしょっちゅう来れる距離になく、スネかじりの学生で経済力もないだけに、連絡はもっぱらLINEを通してだった。

蓮には、何故か羽月のことを放っておけなかった。ひと目見たときから、気になってしかたがなかった。客とは、擬似恋愛という売り上げのための営業戦略は使っても、真剣な恋に陥ることは、これまで禁じてきたが、タブーを忘れるほど、のめり込んでいた。

東京でのホスト時代、姫の顔はみな福沢諭吉にしか見えなかったし、天使クラブに移ってからも客との恋愛はタブーで、少しでも感情が動きそうになると、自らを戒めてことさらに金づると思い込もうとしてきたが、自制心がまるで働かなくなっていた。

頼ってきたか弱い生き物を何とか助けてやりたかった。純真無垢な少女のような羽月に、ラファエルとしての計算なしで、蓮に戻って本物の恋に落ちたのだ。これまで女性は掃いて捨てるほど寄ってきたけど、結局は、外見に惹かれてだけのことで、本当に愛してくれた異性はいなかった気がする。

自分の方も、ホストをしていたせいで、女性の嫌な面、金に汚かったり、打算的だったり、嫉妬深かったりする欠陥ばかりが目について、幻滅させられることが多かった。だから、まったく計算外に恋に落ちた顛末(てんまつ)が自分でも不思議で、信じられなかった。

こんな純粋に人を愛したのは、高校時代の初恋以来だ。結婚の約束までしたのに、心ない親やモラル一本槍の教師の圧力によって引き裂かれた。大人に歯向かうだけの勇気もなく、涙を呑んで別れた。彼女は不甲斐ない未成年の恋人に失望し、二度と会わないと投げつけて離れていった。思春期の傷はトラウマとして刻印され、以来、恋愛不信になった。

ふっと思う。社長も、こんな気持ちだったのかもしれないと。京都のホスト時代出会って恋に落ちた姫とは。ガラスの檻の人魚姫、触れればもろく崩れてしまいそうな砂糖菓子に似た繊細なハート、羽月の心臓は、彼女の上気した美しい頬、桜の花びらより濃いめの、ちょっとした傷にもすぐ血が滲み出しそうな、ピンク色をしているような気がした。

折を見て、羽月のことは、社長には、相談するつもりだった。
(「ミッドナイト・エンジェル」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)