ヴァニラで空山基、沙村広明ら「無惨絵」、芳年の血まみれ絵再現?

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【銀座新聞ニュース=2014年11月2日】ヴァニラ画廊(中央区銀座8-10-7、東成ビル、03-5568-1233)は11月3日から15日まで「無惨美展-残酷百景」を開催する。

江戸時代から花開いてきた「無惨絵(むざんえ)」の真髄である「無惨・残酷」をテーマに、空山基(そらやま・はじめ)さんら現代作家13人が「その妖しい美しさに焦点をあてて」描いた作品を展示する。

ウイキペディアによると、「無惨絵」とは、落合芳幾(おちあい ・よしいく、1833-1904)と「血まみれ芳年」と呼ばれた月岡芳年(つきおか・よしとし、1839-1892)という、浮世絵師の歌川国芳(うたがわ・くによし、1798-1861)の2人の弟子が1866年に版行された「英名二十八衆句」に掲載された血がしたたる凄惨な作品が最初といわれている。

歌川国芳により描かれた芝居小屋の中の血みどろを参考にし、これに触発されて制作された作品だ。全28枚をそれぞれが14枚ずつ担当し、多くの主題を、「東海道四谷怪談」や「夏祭浪花鑑」などの幕末の芝居に取材しているが、月岡芳年は血のりの感じを出すために絵の具にニカワ(獣類の皮、骨、腸などを煮出した液を冷まして固めたもの)を使用した。

このような無惨絵は、閉鎖的で流動しない泰平の世に倦み、理想的な美を追う反面、刺激的な悪や醜を見るといった時代の反映であり、人間の深層心理にも根ざしていると考えられる、としている。月岡芳年の作品群の中でも、無惨絵は芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ、1892-1927)、谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう、1886-1965)、三島由紀夫(みしま・ゆきお、1925-1970)ら近代作家の創作活動に強烈な刺激を与えたといわれている。

今回、出品するのは1947年愛媛県今治市生まれ、四国学院大学文学部英文科、中央美術学園を卒業、旭通信制作部を経て、ソニーの「アイボ(AIBO)」のデザインを手がけ、グッドデザイン賞グランプリ、メディア芸術祭グランプリを受賞した空山基さんをはじめ、イギリス・ロンドン生まれの画家、イラストレーターで、スキャンダラスな少女画で知られるトレヴァー・ブラウン(Trevor Brown)さん。

1956年長崎県生まれ、江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ、1894-1965)の「パノラマ島綺譚」をマンガ化し、2009年に「手塚治虫(てづか・おさむ)文化賞新生賞」を受賞した丸尾末広(まるお・すえひろ)さん、1969年東京都生まれ、主に成人を対象としたマンガを中心に描く駕籠真太郎(かご・しんたろう)さん。

1970年2月千葉県生まれ、1993年に多摩美術大学油画専攻を卒業、「無限の住人」で知られる沙村広明(さむら・ひろあき)さん、1963年京都府生まれ、カリフォルニア州サンタクララハイスクールに留学、創造社デザイン専門学校イラストレーション科、広告プロダクション「AC」を経て、墨画を描く東学(あづま・がく)さん、1972年広島県生まれ、和光大学を卒業、さし絵画家の村田修(むらた・おさむ)さん。

1976年宮崎県生まれ、筑波大学芸術専門学群美術専攻洋画コースを卒業、同大学大学院芸術研究科洋画専攻を修了、劇団「夢現舎」の美術全般を担当している山下昇平(やました・しょうへい)さん、人形作家のナナオヒシャク(ななお・ひしゃく)さん。

イラストレーターで、2010年に「たたらをふむ女神カナヤゴ」(新日本出版社)の表紙と絵、2011年に「海にはワニがいる」(早川書房)の表紙カバー、「おどって!ウズメ」(新日本出版社)の表紙とさし挿絵などを手掛けている里見有(さとみ・ゆう)さん、東海林人見(しょうじ・ひとみ)さん、中央東口(ちゅうおう・ひがしぐち)さん、チャーリー・フィリップス(Charlie Phillips)さんの13人だ。

また、昭和SM文化の開祖といわれる伊藤晴雨(いとう・せいう、1882-1961)の責め絵も特別出展する。

伊藤晴雨は1882年東京市浅草区生まれ、幼少時から絵が得意で、絵師に学んだり、彫金師の父親により、象牙彫刻師へ丁稚奉公したりする。1906年頃、開盛座の絵看板を描き、女役者の板東勝代
(ばんどう・かつよ、1893-没年不詳)と同棲、帝国新聞用達社に務め、1907年に「毎夕新聞社」に記者兼さし絵画家として入社、さし絵と演劇評論を担当した。

1909年に「やまと新聞社」にさし絵主任として入社、その後、やまと新聞のさし画主任、読売新聞の演芸部長兼さし絵主任、毎夕新聞のさし画主任、博文館の「演芸画報」と「演芸倶楽部」の嘱託などを務め、同年末に新派の背景画家であった玉置照信(たまおき・てるのぶ、1879-1953)の妻の妹であった竹尾(たけお)と結婚し、さし絵画家としての地位が固まる。

1916年に34歳で後に竹久夢二(たけひさ・ゆめじ、1884-1934)の愛人となる12歳のお葉(およう、佐々木カネヨ=ささき・かねよ、1904-1980)を愛人兼モデルにして責め絵を描き、1919年に最初の妻竹尾と離婚、2人目の妻・佐原キセ子(さはら・きせこ、1893ー没年不詳)と結婚し、責め絵のモデルにもする(1925年に離婚)。

1923年の関東大震災により、財産を失うも、江戸の風俗を書き記した「いろは引・江戸と東京風俗野史」を著したり、責めもさまざまな考証のもと行なうようになった。大正末期には「エログロブーム」で取り上げられ、「変態画家」として世間の注目を集めた。1924年に新国劇の看板、舞台装置を描く。

1926年に3人目の妻とし子(1935年死去)と結婚するも、精神を病み闘病により借金に追われるようになり、1928年に発行した「責の話」は発禁処分とされた(1929年に伏字入りのガリ版すりを刊行)。1929年も新国劇を退き、曾我迺家五郎(そがのや・ごろう、1877-1948)一座の顧問となる。

1945年の東京大空襲で家財一切を焼失した。戦後、カストリ雑誌や人間探求、奇譚クラブ、風俗草紙などに執筆、写真撮影会も開催していた。そこで撮影された緊縛写真を風俗草紙、風俗奇譚、裏窓などに掲載した。1951年に百万弗劇場で伊藤晴雨作・演出による「雪地獄生娘」と「火責め水責めの生娘」を上演した。1953年に「責めの劇団」を結成、公演している。 1960年にさし絵画家としての功績に対し、出版美術連盟賞を受賞し、1961年に亡くなった。

開場時間は12時から19時(土・日曜日、祝日17時)で、入場料は500円。

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