大丸松坂屋画廊で北大路魯山人展

【銀座新聞ニュース=2018年3月12日】大手流通グループのJ.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営するアートギャラリー「Artglorieux GALLERY OF TOKYO」(中央区銀座6-10-1、GINZA SIX、03-3572-8886)は3月21日まで「北大路魯山人の世界」を開いている。

「アールグロリュー ギャラリーオブトーキョー(Artglorieux GALLERY OF TOKYO)」で3月21日まで開催中の「北大路魯山人の世界」に展示されている作品「志野水指 共箱」。

書や篆刻(てんこく)、文筆、料理、陶芸などで才能を発揮した北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん、1883-1959)の作品を展示している。また、「アールグロリュー ギャラリーオブトーキョー(Artglorieux GALLERY OF TOKYO)」では、「芸術は、吾人の宇宙の生命を物語り、生気をもたらし、激励し発奮させる力である」という北大路魯山人の言葉を紹介している。

ウイキペディアによると、北大路魯山人は1883(明治16)年12月21日、父親・上賀茂神社の社家・北大路清操(きたおおじ・きよあや、せいそう)、母親・登女(とめ、社家・西池家の出身)の次男として生まれ、1869(明治2)年の版籍奉還の2年後の1871(明治4)年に今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止されため混乱期にあり、父親が東京に職を求めたり、京都に戻ったりという生活をしていたが、房次郎(魯山人)が生まれる4カ月前に自殺した(魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた)。

母親は滋賀県滋賀郡坂本村(現:大津市坂本)の農家に房次郎を預け失踪した。しかし、家で房次郎は放置状態にあり、預けた1週間後、この農家を紹介した巡査の妻が連れて帰り、出生から5カ月後の1883(明治16)年9月6日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる。しかし、この2カ月前の7月2日に服部巡査が行方不明になり、同年秋に巡査の妻が病死し、この2人の養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになった。

同じく北大路魯山人の「赤呉須山路花入共箱」。

3歳の春、上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を養姉に連れられて散歩をしている時、房次郎は「真っ赤な躑躅(つつじ)の咲き競う光景」を見た。房次郎はこの激しい色彩の渦を見て「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したという。そのころ義兄に精神異常が出てその後死亡した。1887年頃、房次郎が4、5歳の時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せる。この家で房次郎は義姉の母親から激しい虐待を受ける。

2、3カ月後、これを見かねた近所の人が上京区(現:中京区)竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人のところへ養子話を持ちかける。こうして房次郎は1889(明治22)年6月22日、福田房次郎となり、以後33歳までの約27年間、福田姓を名乗ることとなる。福田家では6歳の頃から炊事を買って出ることにより、炊事の中で味覚と料理の基本を学んでいく。

10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小、新町小)を卒業、春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ住み込みで出される。ある日奉公先の使い走りの最中、仕出し料理屋「亀政」(御池油小路西入ル森ノ木町)の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われる。その絵を描いたのは亀政の主人の長男で、のちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳(たけうち・せいほう、1864-1942)であった。

1896年1月に奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込むも、家計的な問題もあり断念し、養父の木版の手伝いを始め、扁額(へんがく)や篆刻(てんこく)などの基礎的な感覚を身に着け、一字書の書道コンクールで初の応募で天の位1枚・地の位1枚・佳作1枚を受賞した。応募を続け、次々と受賞し、14、5歳には稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始め、このころ西洋看板描きとしても活躍した。

20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れ、母の所在を知り、東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま、東京に残り書家になることを志す。1904(明治37)年に日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞し、この展覧会では「福田海砂(かいさ)」と号した(この号は翌年までの2年間のみ使用)。

その後、住み込みで版下書きの仕事を始め、実母の登女との関係もよくなっていく。1905(明治38)年、町書家・岡本可亭(マンガ家・岡本一平=おかもと・いっぺい、1886-1948=の父)の内弟子となり、その後、3年間住み込む。「福田可逸(かいつ)」の号を授かり、次第に可亭よりも仕事の発注が増え、帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになる。

1907(明治40)年に「福田鴨亭(おうてい)」を名乗って可亭の門から独立し、1908(明治41)年2月17日に結婚(1914年に離婚)、その年の夏に長男が誕生した。仕事は繁盛し、稼いだ収入を書道具、骨董品、外食に注ぎ込むようになる。また合間には書肆(しょし)に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭した。

1910(明治43)年12月、実母と共に朝鮮に旅立つ。母を京城(現・ソウル)の兄のところへ送り届け、朝鮮内を旅し3カ月後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め、3年ほど生活する。1911(明治44)年3月日本に残した妻に第二子が誕生、京城滞在1年弱で上海に向かい書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩(ご・しょうせき、1844-1927))に会う。

1912(大正元)年夏に帰国し、書道教室を開く。半年後、長浜の素封家・河路豊吉(かわじ・とよきち)に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで「福田大観(たいかん)」の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を残している。敬愛する竹内栖鳳もしばしば訪れ、訪れた栖鳳に款印(かんいん)を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊(つちだ・ばくせん、1887-1936)らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まった。

1916(大正5)年に、3年前に長男の兄が他界したことにより、母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで「北大路魯卿(ろけい)」と名乗り、「北大路魯山人」の号を使いはじめる(魯卿と数年併用している)。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。

また日本新薬の創設者、内貴清兵衛(ないき・せいべえ、1878-1955)と彼の別荘である松ヶ崎山荘で交流を深め、料理に目覚めていった。1917(大正6)年に便利堂の中村竹四郎(なかむら・たけしろう)と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、1921(大正10)年、会員制食堂「美食倶楽部」を発足した。

自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら制作した。1925(大正14)年3月20日には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」(現ザ・キャピトルホテル東急)を中村竹四郎とともに借り受け、中村竹四郎が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。

1927(昭和2)年には宮永東山窯から荒川豊蔵(あらかわ・とよぞう、1894-1985)を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始し、1928(昭和3)年に日本橋三越で「星岡窯魯山人陶磁器展」を開いた。しかし、魯山人の横暴さや出費の多さから、1936(昭和11)年、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎から内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は1945(昭和20)年の空襲により焼失した。

戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946(昭和21)年には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博した。1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ(1904-1988)と山口淑子(李香蘭、やまぐち・よしこ、1920-2014)夫妻(1955年に離婚)を一時星岡窯に寄寓させた。1954(昭和29)年にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会を開き、その際にパブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)、マルク・シャガール(Marc Chagall、1887-1985)を訪問した。

1955年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退し、1959年に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去した。生涯に1908年、1917年、1927年、1938年、1940年、1948年と6度結婚したが、すべて破綻し、2人の男児は夭折し、娘も長じて魯山人の骨董を持ち出したことから勘当し、最晩年にいたっても病床に呼ぶことすら許さなかった。1998年に管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。

開場時間は10時30分から20時30分(最終日は18時)まで。入場は無料。