丸善日本橋で九谷焼展、山本芳岳、浅蔵一華、井上雅子ら

【銀座新聞ニュース=2020年6月2日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は6月3日から9日まで3階ギャラリーで「先人たちの英知を受け継ぎ、進化しつづける 第四回丸善・九谷焼展 優美な色絵の世界」を開く。

丸善・日本橋店で6月3日から9日まで開かれる「第4回九谷焼展」のフライヤー。一部の出品者と略歴、作品を載せている。

「石川県九谷陶磁器商工業協同組合連合会」(石川県能美市泉台町南13、石川県九谷会館、0761-57-0125)などが後援するイベントで、「豪快かつ色調渋く独特の魅力があり」(丸善)、佐賀県有田町の赤絵磁器「柿右衛門(かきえもん)」、佐賀県有田町、伊万里市の高級磁器の「色鍋島(いろなべしま)」、京都の京焼色絵陶器の「仁清(にんせい)」と並んで、日本の色絵陶磁の代表的なものとなっている「九谷焼」の花器、茶わん、香炉、酒器などの美術品から湯呑、茶碗、皿などの日用品まで、現在の九谷焼の巨匠から若手作家の作品を展示する。

九谷焼は「呉須(ごす)」と呼ばれる藍青色(らんせいしょく)で線描きし、「五彩」と呼ばれる赤、黄、緑、紫、紺青の5色で絵の具を厚く盛り上げて塗る彩法で、絵柄は山水、花鳥など絵画的で大胆な上絵付けが特徴的とされている。

石川県・九谷で生まれた九谷焼は、360年の歴史があり、明治期には貿易品として海外に輸出されるようになり、「ジャパンクタニ」として世界に名を轟かせている。一方で、1869年より、国内外の逸品を紹介してきた丸善では、「伝統を継承しながら現代の暮らしに合わせて変化をし続ける九谷焼の魅力に迫」るとしている。

出品される仲田錦玉さんの作品。

今回は日展評議員、日本現代工芸美術作家協会評議員の浅蔵五十吉(あさくら・いそきち)さんの長女で、九谷焼伝統工芸士の浅蔵一華(あさくら・いっか)さん、その夫で九谷焼伝統工芸士の浅蔵宏昭(あさくら・ひろあき)さん、日本陶芸美術協会会員の石冨俊二郎(いしとみ・しゅんじろう)さん、九谷焼伝統工芸士の井上雅子(いのうえ・まさこ)さん、九谷焼作家の川上真子(かわかみ・まこ)さん。

九谷焼作家の木戸優紀子(きど・ゆきこ)さん、九谷焼作家の早助千晴(はやすけ・ちはる)さん、九谷焼伝統工芸士名工の山本芳岳(やまもと・ほうがく)さん、その長男、山本浩二(やまもと・こうじ)さん、その次男の山本秀平(やまもと・しゅうへい)さん。

九谷焼伝統工芸士の三浦晃禎(みうら・てるただ)さん、九谷焼伝統工芸士の山中国盛(やまなか・くにもり)さん、加賀九谷理事長で、同連合会副理事長、九谷焼伝統工芸士会会長の山本篤(やまもと・あつし)さん、吉田純鼓(よした・じゅんこ)さん、伝統工芸士の針谷絹代(はりや・きぬよ)さん、九谷焼伝統工芸士の仲田錦玉(なかた・きんぎょく)さん。

ウイキペディアなどによると、九谷焼は石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器で、大聖寺藩領の九谷村(現石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、加賀藩の命により、藩士の後藤才次郎(ごとう・さいじろう、1634-1704)を佐賀・有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年ころ)、藩の殖産政策として、江沼郡九谷村で開窯したのが始まりとされる。

しかし、約50年後(18世紀初頭頃)突然、廃窯となり、窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っており、この間に焼かれたものは、現在「古九谷(こくたに)」と呼ばれている。

古九谷の廃窯から、約1世紀後の1807年に加賀藩が京都から青木木米(あおき・もくべい、1767-1833)を招き、金沢の春日山(現金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。 同じ頃、能美郡の花坂山(現小松市八幡)で、新たな陶石が発見され、今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、1819年に磁器を、1820年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。

1832年ころに小野窯に陶匠として招かれる、寺井村(現能美市寺井町)生まれの九谷庄三(くたに・しょうざ、1816-1883)は能登の火打谷(現志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見し、後の九谷焼に多大な影響を与え、1840年ころに故郷に戻り、寺井窯を開いた。ヨーロッパから入った顔料を早い時期から取り入れ、彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後にヨーロッパに輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。

明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873年のオーストリア・ウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時にヨーロッパの技法も入り込んだ。1872年ころから型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ、1892年ころから、獅子を始めとする置物の制作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。

また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平(すなこ・きちへい、生没年不詳)、初代諏訪蘇山(すわ・そざん、1851-1922)らの参加を得て成果を上げ、1876年には「石川県勧業場」と名を改めた。1887年に金沢工業学校(現石川県立工業高校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。

現在、九谷焼は陶器と磁器があり、上絵付けを九谷でしたものを「九谷焼」と呼んでいる。陶器は原料が陶土(粘土)で、温かみがあり、全体に厚くぽってりした感じで、指ではじくと、鈍い音がする。一方の磁器は原料が陶石(石の一種)で、白く堅い感じがあり、薄くて軽くて丈夫で、指ではじくと「チン」と金属質の音がする。

また、茶わんの「わん」の漢字は「苑(本来は草冠がない)」と「皿」を合わせる、「石」と「宛」を合わせる、「土」と「宛」を合わせる、「木」と「宛」を合わせる4種類があり、「皿」のわんは基本的にフタがない茶碗をさし(後世にはフタ付もある)、「抹茶わん」などに使われている。「石」の茶わんはフタ付の磁器、「土」の茶わんは素焼きでフタ付の器、「木」は木製のフタ付の漆器をさしている。

期間中、新型コロナウイルスの感染防止のため、作家は来場しない。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)、入場は無料。

注:「山中国盛」の「国」は正しくは旧漢字です。