ピカデリ「BLEACH」福士蒼汰、早乙女太一ら舞台挨拶

【銀座新聞ニュース=2018年7月11日】米映画業界第3位、ワーナー・ブラザースグループの日本の映画配給会社、ワーナー・エンターテイメント・ジャパン(港区西新橋1-2-9、日比谷セントラルビル)の「ワーナー・ブラザース映画」は7月21日に丸の内ピカデリー(千代田区有楽町2-5-1、有楽町マリオン、03-3201-2881)で「BLEACH」の公開記念舞台あいさつを開く。

7月21日から一般公開される「BLEACH」((C)久保帯人/集英社 (C)2018 映画「BLEACH」製作委員会)。

21日14時の回上映終了後に監督の佐藤信介(さとう・しんすけ)さんをはじめ、主人公の高校生「黒崎一護」役の福士蒼汰(ふくし・そうた)さん、護廷十三隊六番隊副隊長「阿散井恋次」役の早乙女太一(さおとめ・たいち)さん、28代目の当主「朽木白哉」役のミヤビ(MIYAVI)さんが舞台に登場してあいさつする。

「ブリーチ(BLEACH)」は久保帯人(くぼ・おびと)さんが「週刊少年ジャンプ」(集英社)に2001年36・37合併号から2016年38号まで連載されたマンガが原作で、2004年度の第50回小学館漫画賞(少年向け部門)を受賞し、単行本化された世界累計発行部数は1億2000万部を超えている。

物語は幽霊が見えてしまう高校生・黒崎一護がある日突然、人の魂を喰らう巨大な悪霊「虚(ほろう)」に遭遇するところからはじまり、命を狙われる一護と家族の前に死神を名乗る謎の少女・朽木ルキア(杉咲花=すぎさき・はな=さん)が現われ、虚に立ち向かうが、重傷を負ってしまう。

窮地に追い込まれたルキアは最後の手段として、本来は人間に与えてはならない死神の力の一部を一護に渡す。それ以来、一護は高校生活を送りながら死神代行として戦いの日々に身を投じていく。

佐藤信介さんは1970年広島県比婆郡(現庄原市)生まれ、武蔵野美術大学を卒業、在学中の1994年に脚本・監督を手がけた短編映画「寮内厳粛」が「ぴあフィルムフェスティバル」でグランプリ、その後、1997年に「東京夜曲」、2000年に「ざわざわ下北沢」や「ひまわり」などの脚本を手がけ、2001年に「ラブソング(LOVE SONG)」で商業映画監督デビューし、2001年に「修羅雪姫」、2003年に「コスミック・レスキュー・ザ・ムーン・ライト・ジェネレーションズ(COSMIC RESCUE the moon light generations)」といったSFアクションを監督して注目される。

その後、2005年に映画「春の雪」、2006年に「県庁の星」などの脚本も担当し、2009年に「ホッタラケの島 遥と魔法の鏡」で長編アニメ映画の監督を手がけた、2010年、2011年に「ガンツ(GANTZ)」2部作や2013年、2015年に「図書館戦争」シリーズの監督を務めた。2015年にはゾンビマンガを実写映画化した「アイアムアヒーロー」を監督した。

チケットはチケットぴあを通じて、最速抽選プレミアムを受付中で、12日11時締め切り。先行抽選も受付中で、13日11時締め切り。14日10時から一般発売する。料金は全席指定で2000円均一。

大丸松坂屋画廊で平野淳子「国立競技場」展

【銀座新聞ニュース=2018年7月10日】国内百貨店業界2位の流通グループ、J.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営するアートギャラリー「Artglorieux GALLERY OF TOKYO」(中央区銀座6-10-1、GINZA SIX、03-3572-8886)は7月12日から18日まで平野淳子さんによる個展「記憶-墨 和紙 絹 箔 版 そしてデジタルと・・・」を開く。

大丸松坂屋百貨店のギャラリー「アールグロリュー ギャラリーオブトーキョー(Artglorieux GALLERY OF TOKYO)」で7月12日から18日まで開かれる平野淳子さんの個展に展示される「記憶のカケラ」(墨、箔、雲母、デジタル)。

和紙に墨で描く画家の平野淳子(ひらの・じゅんこ)さんが国立競技場という歴史の背景になってきた建物の建て替え、という出来事に遭遇し、その場所の変せんを追ったシリーズ「〈記憶〉ゲニウスロキ(国立競技場)」について、刻々と変化する場所を写真におさめることからはじめ、そのイメージを凝縮し、現れては消え形を変える「記憶」を墨を使って表現した作品約40点を展示する。

「アートスケープ」によると、事物に付随する守護の霊という意味の「ゲニウス(Genius)」と、場所・土地という意味の「ロキ(Loc?)」の2つのラテン語をもととし、場所の特質を主題化するために用いられた概念という。物理的な形状に由来するものだけではなく、文化的、歴史的、社会的な土地の可能性を示している。

日本では「土地の精霊」または「地霊」などと訳される。18世紀のイギリスの詩人であり、建築を道楽としていた英国の詩人、アレグザンダー・ポープ(Alexander Pope、1688-1744)が「第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル(The Rt.Hon.Richard Boyle、3rd Earl of Burlington、1694-1753)への書簡」(1731年)という詩のなかで、庭園を設計するにあたりゲニウス・ロキの概念を用いたことにより注目されるようになった。

同じく個展に展示される「記憶の宮殿(マインドパレス)」(和紙、墨、箔、雲母、デジタル)。

ノルウェーの建築史家クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ(Christian Norberg-Schulz、1926-2000)の「ゲニウス・ロキ 建築の現象学をめざして」(1980年)で近代建築論の主題が空間から場所へと移行したことが述べられ、ロマン的、宇宙的、古典的視点から場所と建築の具体的な結びつきの事例を考察した。

ゲニウス・ロキは、普遍的な近代建築に対する地域主義やヴァナキュラー建築、ポストモダンの再評価とも連動する。日本では、英国の建築史を専門とする鈴木博之(すずき・ひろゆき)さんが、建築における場所性を重要視して、ゲニウス・ロキの概念を広めた。

ウイキペディアによると、国立競技場は1958年に完成され、2014年5月に閉鎖された国立霞ヶ丘陸上競技場(こくりつかすみがおかりくじょうきょうぎじょう)のことで、独立行政法人日本スポーツ振興センター (JSC) によって運営された。

明治神宮外苑、国立霞ヶ丘競技場、青山霊園のある一帯は江戸時代には青山氏の大名屋敷敷地で、1886(明治19)年に敷地跡の北側に青山練兵場が設けられた。明治天皇(めいじ・てんのう、1852-1912)崩御後に練兵場に明治神宮外苑を建設されることとなり、その敷地の一部を用いて1924(大正13)年に明治神宮外苑競技場が設けられ、大東亜戦争時の1943年10月21日に学徒出陣の壮行会会場となった。

1945年の日本の敗戦後は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収されて「ナイル・キニック・スタジアム」という名称で使用され、1952年の接収解除後は再び一般に開放され、明治神宮外苑部の管理下となった。1958年にアジア競技大会と国民体育大会の会場となることが決まり、1956年に明治神宮から文部省に譲渡され、新設の競技場が整備された。

競技場は1957年1月に起工し、1958年3月に竣工し、同年のアジア大会を開催され、1959年に東京国体のメインスタジアムとして陸上競技が開かれた。1964年に開かれた東京オリンピックのメインスタジアムとして使用され、11億7800万円かけてスタンドの増築が行われた。

聖火台(高さと直径2.1メートル、重さ2.6トン)は、埼玉県川口市の鋳物職人の故鈴木万之助(すずき・まんのすけ)が引き受け、彼の死去後に3男の故鈴木文吾(すずき・ぶんご)が完成させた。1958年から日本陸上競技選手権大会が開かれ、2005年まで断続的に利用された。サッカーの競技場としては1968年から天皇杯全日本サッカー選手権大会が開かれ、1969年1月1日に初めて天皇杯決勝戦が国立競技場で実施された。

1976年度から全国高等学校サッカー選手権大会も開かれ、上位進出を決めたチームのみが国立でプレーするため「高校サッカーの聖地」といわれた。1970年代から1980年代の「ラグビーブーム」では日本ラグビーフットボール選手権大会などの試合が開かれ、1980年から2001年まではトヨタ・カップ(サッカー)の会場として用いられた。陸上競技の会場としては走行レーンが8レーンしかなく、サブトラックが400メートルトラックでないために、現在の国際陸上競技連盟の規格を満たしていない。トラックを使用した国際陸上競技大会としては、1999年にスーパー陸上が行われてから、2013年にゴールデングランプリ東京が開催されるまで久しく行われなかった。

独立行政法人「日本スポーツ振興センター」が管理団体になってからは断続的に施設改修が行われ、2000年代からは音楽コンサートなどの利用も進められている。2005年に初めて「スマップ(SMAP)」がコンサートに使用したが、打診してから使用許可まで5年間を要した。コンサート以外のイベントとしては、2009年7月5日に石原裕次郎(いしはら・ゆうじろう、1934-1987)23回忌法要が開かれた。

2015年に解体され、その跡地に新国立競技場が建設される。2015年12月22日に大成建設、梓設計、隈研吾(くま・けんご)さんのチームによるA案に決定され、2016年1月29日に約24億9127万円で競技場整備の第I期事業を契約し、2020年春までに完成される予定で、総工費は1490億円となっている。

平野淳子さんは武蔵野美術大学日本画科を卒業、2014年、2015年に上野の森美術館大賞展で入選、2015年に損保ジャパン日本興亜美術賞フェイス(FACE)2015で読売新聞社賞などを受賞している。

開場時間は10時30分から20時30分(最終日は18時)まで。入場は無料。

TOHO日比谷「ミライ」初日に上白石萌歌、黒木華ら挨拶

【銀座新聞ニュース=2018年7月9日】阪急阪神東宝グループで、国内映画業界首位の東宝(千代田区有楽町1-2-2、03-3591-1221)は7月20日からTOHOシネマズ日比谷スクリーン12(千代田区有楽町1-1-3、東京宝塚ビル地下)で一般公開する「未来のミライ」の初日に、上白石萌歌さん、黒木華さんらによる舞台あいさつを開く。

TOHO日比谷「ミライ」初日に上白石萌歌、黒木華ら挨拶

20日16時10分の回上映終了後と19時20分の回上映前に、監督の細田守(ほそだ・まもる)さんをはじめ、「くんちゃん」役の声優を務めた上白石萌歌(かみしらいし・もか)さん、「ミライちゃん」役の声優の黒木華(くろき・はる)さん、「おとうさん」役の声優の星野源(ほしの・げん)さん、「おかあさん」役の声優の麻生久美子(あそう・くみこ)さんが舞台に登場してあいさつする。

「未来のミライ」はスタジオ地図の制作による日本のアニメ映画で、細田守さんによる長編オリジナル作品第5作だ。横浜の「兄妹」をテーマに、甘えん坊の4歳の男児・くんちゃんと未来からやってきた彼の妹・ミライちゃんの不思議な冒険を通して、さまざまな家族の愛のかたちを描いている。

5月8日から19日まで開かれた「第71回カンヌ国際映画祭」の「監督週間」に選出され、6月11日から16日の「アヌシー国際アニメーション映画祭2018」の長編部門コンペティションに選出されている。

物語はとある都会の片隅で、小さな庭に小さな木の生えた、小さな家に暮らす4歳のくんちゃんが、生まれたばかりの妹に両親の愛情を奪われ、戸惑いの日々を過ごしているところからはじまる。そんな彼の前にある時、学生の姿をした少女が現れる。

彼女は、未来からやってきた妹ミライだった。ミライに導かれ、時を越えた冒険に出たくんちゃんは、かつて王子だったという謎の男や幼い頃の母、青年時代の曽祖父など、不思議な出会いを果たしていく。

ウイキペディアなどによると、細田守さんは1967年富山県中新川郡生まれ、金沢美術工芸大学美術工芸学部美術科油絵専攻を卒業、1991年に東映動画(現東映アニメーション)に入社、アニメーターとしてアニメ制作を担当し、その後、演出に移り、1997年にテレビシリーズ「ゲゲゲの鬼太郎(第4作)」、1998年に「ひみつのアッコちゃん(第3作)」などの演出を手掛けた。

2000年にスタジオジブリの「ハウルの動く城」の監督に選ばれ出向するも、途中で制作中止となり、2002年に東映に復帰、「おジャ魔女どれみドッカーン!」を監督、2005年にアニメ映画「ワンピースザムービー(ONE PIECE THE MOVIE)オマツリ男爵と秘密の島」などを監督した。

2005年に東映アニメーションを退社して独立し、2006年にアニメ映画「時をかける少女」で第30回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞などを受賞した。2011年12月にアニメ制作会社「スタジオ地図」の立ち上げに関わり、2011年のアニメ作品「おおかみこどもの雨と雪」を監督、6月には自ら執筆した原作小説で小説家としてもデビューした。

チケットは応募フォーム(16時10分の回、50人)からの応募、抽選とチケットぴあを通じた販売があり、応募フォームによる締め切りは11日12時。料金は一般1800円、大学生・専門学校生1500円、高校生、ジュニア(3歳以上中学生)、障がい者1000円、シニア1100円。

チケットぴあ(http://w.pia.jp/s/mirai18sb/)による販売は17日11時締め切り。料金は一般2000円、大学生・専門学校生1700円、高校生、ジュニア(3歳以上中学生)、障がい者1200円、シニア1300円。

Compositionで稲垣友里、小川剛らが「VIVID」展

【銀座新聞ニュース=2018年7月8日】Gallery Art Composition(中央区佃1-11-18、ピアウエストスクエア、03-5548-5858)は7月13日から28日まで「C-DEPOT」によるグループ展「VIVID vol.2」を開く。

ギャラリーアートコンポジション(Gallery Art Composition)で7月13日から28日まで開かれる「C-デポ(DEPOT)」によるグループ展「第2回ビビッド(VIVID vol.2)」に出品される上脇田直子さんの「向こう岸を眺めて」。

絵画、立体、映像、写真、メディアアートなどさまざまなジャンルの作家によって構成され、19世紀末の「ウィーン分離派」の理念をもとに、アートと社会の架け橋として2002年に結成された「C-デポ(DEPOT)」の創立メンバーの金丸悠児(かなまる・ゆうじ)さんが選んだ作家6人が「ビビッド(VIVID)」をテーマに制作した作品を展示する。

今回、出品するのは水彩画を描いている井沢由花子(いざわ・ゆかこ)さん、稲垣友里(いながき・ゆり)さん、小川剛(おがわ・ごう)さん、上脇田直子(かみわきだ・なおこ)さん、河本蓮大朗(かわもと・れんたろう)さん、末宗美香子(すえむね・みかこ)さんの6人。

同じく河本蓮大朗さんの「ウィービング39番(weaving#39)。

ウイキペディアによると、「ウィーン分離派(Wiener Secession、Sezession)」は、1897年にウィーンで画家のグスタフ・クリムト(Gustav Klimt、1862-1918)を中心に結成された芸術家グループで、自ら展示施設を持ち、展示会を開き、新しい造形表現を追求した。ウィーン分離派は「ミュンヘン分離派」(1892年に結成され、保守的なミュンヘン芸術家組合から分離する形で誕生したため、この名がついており、現在も存在する)の結成に影響を受けているが、総合芸術を志向していた点に特徴がある。

世紀末のウィーンで展示会場を持っていたのは「クンストラーハウス(kunstlerhaus)」という芸術家団体で、ウィーンの美術界は印象派の影響もほとんど見られず保守的であった。1897年、クンストラーハウスの保守性に不満を持つ若手芸術家たちはクリムトを中心に「造形美術協会」を結成したが、クンストラーハウスがこれを認めなかったため、クリムトらはクンストラーハウスを脱退した。こうして生まれたのがウィーン分離派で、絵画、彫刻、工芸、建築などの芸術家が参加した。

同じく末宗美香子さんの「美女と野獣、のような」。

1898年に月刊誌「ヴェール・サクルム(Ver sacrum、聖なる春の意味のラテン語)」を刊行し、作家ヘルマン・バール(Hermann Bahr、1863-1934)らが執筆した。同年、第1回分離派展を開き、ウィーン市の土地を借り、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889-1951)の父親で実業家のカール・ウィトゲンシュタイン(Karl Wittgenstein、1847-1913)らの支援を受けて、専用の展示施設「セセッション館(分離派会館)」を建設した。

会員の建築家ヨゼフ・オルブリッヒ(Joseph Maria Olbrich、1867-1908)が設計したもので、入口上部には「DER ZEIT IHRE KUNST,DER KUNST IHRE FREIHEIT”(時代には芸術を、芸術には自由を)」のモットーが掲げられた。クリムトが脱退するまでの1898年から1905年までに23回の展覧会を開いた。クンストラーハウスは絵画と彫刻のみで工芸などの展示を行わなかったが、分離派は総合芸術を志向し、工芸品の展示も行い、会場のデザインをヨーゼフ・ホフマン(Josef Franz Maria Hoffmann、1870-1956)が手掛けた。

しかし、分離派の多くの会員が総合芸術を志向したのに対して、画家ヨーゼフ・エンゲルハルト(Josef Engelhart)ら純粋芸術を志向する会員が不満を抱き、1905年に画家カール・モル(Carl Moll、1861-1945 )がミートケ画廊(Galerie Miethke)の顧問となり、展覧会を企画したことを直接のきっかけとして、商業主義をめぐる論争が起こった。投票の結果、モルをはじめ、クリムト、オットー・ワーグナー、ホフマン、オルブリッヒら24人が脱退し、クリムトらは後に「オーストリア芸術家連盟」を結成した。

エンゲルハルトら残ったメンバーは「胴体分離派」と皮肉られたものの、その後も分離派の活動は続いたが、美術史上に残るのは主として1897年から1905年の活動とされている。

「C-デポ」は2002年に金丸悠児さんと杉山治(すぎやま・おさむ)さんによって結成された集団で、19世紀後半に絵画、彫刻、建築といった従来の優越的なジャンルと、デザイン、工芸、ファッションなどの実用美術の領域を連結させ、「ウィーン分離派」と同様に、「アート=多様性」を理念に掲げ、アーティストと社会の架け橋を作り、表現活動によって得た対価をいかに社会に還元するかを、独立の活動を通して提案し、実践し、毎年東京を中心にグループ展を開いている。2010年に事務所「C-デポターミナル(DEPOT terminal)」を設立している。

金丸悠児さんは1978年神奈川県生まれ、2001年に東京芸術大学デザイン科を卒業、在学中に劇団に所属し、舞台美術、宣伝美術、映像制作を担当、2003年に同大学大学院を修了、2002年に杉山治さんとともにアーティスト集団「C-デポ」を設立し、創立以来現在に至るまで、毎年開く「エクスシビション(EXHIBITION)C-デポ」のプロデュースを手がけ、修了後は画家として活動、2004年よりクリエイターチーム「ebc」の一員として、ebcアトリエの創設に携わる。

現在は、百貨店や画廊を中心に作品を発表している。動物や建物などを題材に独自の表現と手法で創作し、社会におけるアーティストのあり方を追求し、さまざまな活動に展開している。

井沢由花子さんは1982年東京都生まれ、多摩美術大学絵画学科油画専攻を卒業、2016年に損保ジャパン日本興亜美術賞で審査員特別賞、2016年、2017年にシェル美術賞で入選している。現在は水彩画をメインに制作。日々の出来事や家族が紡ぐ生命の記憶を、風景に落とし込み描いている。国内での個展・グループ展の他、台湾や韓国、上海などのアートフェアにて作品を発表。

稲垣友里さんは1989年愛知県生まれ、武蔵野美術大学造形研究科修士課程美術専攻油絵コースを修了している。つかみどころのない目に見えないものを手探りでたぐり寄せるように作品を生み出している。

小川剛さんは1981年神奈川県生まれ、東京芸術大学大学院を修了、2007年に東京芸術大学卒業展で東京都知事賞、2011年に三菱商事アート・ゲート・プログラムで入選、2013年に第8回タグボートアワードで入選、特殊フィルムとさまざまな素材・表面加工を組み合わせた立体作品・インスタレーションを制作している。

上脇田直子さんは1986年鹿児島県生まれ、筑波大学大学院人間総合科学研究科芸術専攻を修了、2007年に南日本美術展で奨励賞、2010年、2015年にトーキョーワンダーウォールで入選、2014年にワンダーシード2014で入選している。

河本蓮大朗さんは1991年神奈川県鎌倉市生まれ、横浜美術大学工芸領域テキスタイルデザインコースを卒業、2017年まで同大学彫刻コース研究生として在学、大学卒業制作で優秀賞、2017年に「SICF18」で森永邦彦賞、2018年に第13回タグボートアワードでグランプリを受賞している。

末宗美香子さんは1972年神奈川県生まれ、2001年に東京芸術大学大学院美術研究科デザイン専攻を修了、同大学卒業制作でデザイン賞、2001年に第18回グラフィックアートひとつぼ展でグランプリ、アンダーズ東京のポスター制作や企業とのコラボにて壁画を制作している。

13日17時からオープニングパーティーを開く。

開場時間は11時から19時。日・月曜日、祝日は休み。

注:「井沢由花子」の「沢」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として現代漢字(常用漢字)を使用しています。

丸善日本橋でヨーロッパ版画展、フローラダニカも

【銀座新聞ニュース=2018年7月7日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は7月11日から17日まで3階ギャラリーで「ヨーロッパアンティーク版画展 ボタニカルアートから西洋古典版画まで」を開く。

丸善・日本橋店で7月11日から17日まで開かれる「ヨーロッパアンティーク版画展 ボタニカルアートから西洋古典版画まで」に出品される作品。

ヨーロッパで17世紀から19世紀にかけて書物の中の図譜は、版画技術の発達とともに発展し、その細密さや手彩色の美しさは、今も変わらず魅了する。ベルギー出身で「バラの画家」として知られたピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (Pierre-Joseph Redoute、1759-1840)初版のバラ「ダマスクローズ」や「カンパニューラ」の美しい花々、ドイツ出身の希少な女流昆虫画家のマリア・メーリアン(Anna Maria Sibylla Merian、1647-1717)の作品、陶器の絵柄のもととなったデンマークの「フローラダニカ(Flora Danica)」、博物画、古い楽譜など歴史を経た味わい深い作品を展示販売する。

「ル・ノーブル」や「デンマーク/コペンハーゲン特派員ブログ針貝有佳」などによると、「フローラダニカ」とは18世紀啓蒙主義の時代に、デンマーク領土内の植物約3000種類を収めた銅版画の植物図鑑「フローラ・ダニカ(デンマークの花の意味)」を描いたロイヤルコペンハーゲンの食器のことで、王室がデンマークの植物図鑑の下絵を描いた絵付師ヨハン・クリストファ・バイエル(Johann Christoph Bayer、1738-1812)に、ロシアの女帝エカテリーナ2世(Yekaterina2 Alekseyevna、1729-1796)への贈り物として、全植物を食器に表現するように1790年に依頼したのがシリーズのはじまりで、彼は食器に植物を描き続け、12年間でその視力を失ったといわれている。

エカテリーナ2世の死により制作が中止されたが、1802点が完成された。その後、盗難や損壊などにより、現在残されているのは約1530点といわれている。成型、装飾はすべて手作業で行われ、多彩色は淡色から順に彩色を重ね、24金の金彩もあわせて7回の焼成を繰り返している。しかも、絵付けは2人で行っており、1人は花のモチーフを、もう1人がゴールドを描くなど、分けているため完成品には2人の名前が記載されている。中にはスープチューリンなどのように、フタ、本体、スープスタンドに、絵付師と箔置き師がいたため計6人が携わっていた。現在も王室晩さん会で用いられ、デンマークの至宝といわれている。

女子美術大学版画研究室などによると、ヨーロッパでは1300年代後半からキリスト教の教義を広める目的で、主に修道院や巡礼地、教会で聖地巡礼の記念や護符などを木版で作っており、これらの版画は、教義を説くだけでなく、無病息災、商売繁盛、家畜や旅の安全、五穀豊穣などを祈る「お守り」として家の入り口や台所、家畜小屋などに張られる実用品だった。

現存の一番古い版木は1370年頃の「プロタの版木」と呼ばれ、フランス中央部の都市、マコン(Macon)で階段の板として用いられていた。初期の木版画は1370年から1380年頃にフランスのディジョン(Dijon)で始まったと伝えられている。ヨーロッパ最古の木版画は1418年の「聖母マリア」で、刷り方は印鑑を押すようにしたり、平らな木ぎれやナイフで紙の裏からこすったりしていた。

15世紀後半にはストラスブルグでワイン製造用のブドウ搾り機のようにネジで締めあげて圧力をかけて刷る平圧式プレス機が用いられるようになり、この圧力を利用する印刷方法が後に凹版印刷、銅版画に発展することになる。

その後、フランスやフランドル地方では100年戦争が起こり版画も作られなくなるが、ライン川上流(バーゼルからストラスブルク)の地域で1400年頃作られた版画が残っている。1400年から1430年頃になると多くの木版画が登場し、木版本が作られるようになり、大工のギルドに属した職人により版木が彫られた。木版本は文字を木版で刷り挿し絵は手描きのものや、木版に手彩をほどこしてある。

印刷の分野で版画が普及するにつれて、1500年はじめには、もっと精巧なものが要求されるようになり、木版画の技術が発展し、ルネサンス美術の影響で技術的に優れたものが多く作られるようになり、1500年頃には最盛期に達した。1400年半ば頃から銅版での凹版画が登場し、1500年頃には技術的にも優れたものが多く作られ、木版画から銅版画の時代へと移った。普通の木版画は1500年代末頃から衰退したが、これは銅版画の方が精緻で克明な表現が可能だったことと、線描中心のデッサンを木版画にする場合の労力の大変さからきたのではないかと考えられている。

活版印刷以前に作られた本は、僧侶や貴族のための祈祷書などで羊皮紙に手書きされた豪奢なものだったが、その後、木版画が多く作られるようになると、トランプカードや宗教を題材としたものが多く作られ、民衆の間に広まっていった。1500年頃から木版画、銅版画ともに絵画の代わりに売買の対象となり、絵画はまだ宗教界や貴族たちだけのものだったが、版画は貴族たちだけでなく、一般の人々の収集の対象となりった。

有名なものは、イタリアのライモンディでラファエロ(Raffaello Santi、1483-1520)の原画をもとに製版し、銅版画を作り、ラファエロと親交のあったバヴィエロ・カロッチ(Baviero Caroti)が版元となって出版した。このような版元制度は、フランドル地方のアントワープでもH・コック(Hieronymus Cock、1510-1570)が1548年に店「四方の風」を開いており、この後、1500年後半、アントワープはヨーロッパ最大の版画制作の地となった。

1600年代になるとアントワープにクリストフ・プランタン(Christophe Plantin、1520ころ-1589)がヨーロッパ最大の印刷所を開設し、版画を制作し、同時に教会用印刷物を供給した。1600年代になると、彫刻凹版は次第に複製版画の傾向が強くなり、この頃盛んに行われたエッチング(腐刻凹版)と併用された。この方法は1700年代まで複製版画の方法としてよく行われた。1700年代末にはイギリスやフランスで木口木版が行われ、版木の特殊性から大きな作品が少なく、小品が主で、書籍のさし絵などに使われたが、その後の写真の普及とともに衰退した。

1798年にリトグラフが発明され、19世紀はリトグラフの時代といわれた。リトグラフはその後、イメージが主要な役割を演じるようになった新聞雑誌の発展に結びついた。1800年代半ばになるとフランスでそれまで印刷や絵画の複製に用いられていた版画の芸術性を見直す運動がおこり、多くの版画家が生まれた。1900年に入り、多くの画家が版画を手がけるようになった。

ウイキペディアによると、ボタニカルアート(植物画)とは古代エジプトや中国などで薬草を見分けるために図譜が作られたのがはじまりで、大航海時代になって、ヨーロッパ各国が世界各地を探検するようになり、植物学者と画家が一緒に組んで珍しい植物の詳しい絵が本国に送られ、それらの絵が英国やフランスで19世紀に大流行した。植物の姿を正確で細密に描く植物図鑑のための絵画とされている。

博物画は動物、植物、鉱物などの観察対象の姿を詳細に記録するために描かれる絵で、植物画(botanical art)と動物画(zoological art)に大別され、動物画はさらに外形を描く肖像画(portait)と内部を描く解剖画(anatomical art)に区分されている。

科学性が重視され、正確な観察には博物学や解剖学の知識も不可欠であり、学者の指示によって作画された。屋外で素早く写生する必要性から速乾性のガッシュが用いられ、後にこれを銅版画に起こし、点描で陰影をつけ手彩色も行われるようになった。19世紀に写真が登場しても、描いた者の手と認識を通した写真にはない説明性と抽象化があるため、今日でも図鑑や医学書などではイラストレーションが用いられ続けている。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。