なびす画廊で大家泰仁「雑木林の樹木」展

【銀座新聞ニュース=2012年4月7日】なびす画廊(中央区銀座 1-5-2、ギンザファーストビル3階、03-3561-3544)は4月9日から4月21日まで大家泰仁さんによる個展を開催する。

画家の大家泰仁(おおや・やすひと)さんが2010年から3年続けてなびす画廊で開く個展で、「雑木林と遠近」と題して、近くの雑木林で樹木を観察しながら描いている作品を展示する。

大家泰仁さんによると、樹木の成長は遅々としており、雑木林の中に入り、木々を眺めていると見飽きることはないという。「そこには言葉で説明のつかないような生物の気配がある。このような雑木林で体験した樹木の時間と空間、空気感のようなもの」を主題としている。

大家泰仁さんは1965年大阪府生まれ、1993年に武蔵野美術大学油絵学科を卒業、1996年と1999年に個展を開催し、2010年の個展がおよそ10年ぶりで、3年続けて個展を開く。現在、武蔵野美術大学通信教育課程の講師を務めている。

開場時間は11時30分から19時(土曜日は17時)で、入場は無料。日曜日は休み。

ミキモトが明治、大正、昭和のバラ柄和服展

【銀座新聞ニュース=2012年4月2日】ミキモト(中央区築地1-8-9、03-5550-5678)は4月5日から4月24日までミキモト銀座本店(中央区銀座4-5-5、03-3535-4611)の6階ミキモトホールで「着物に咲いたモダニズム」展を開催する。

明治、大正、昭和の着物や帯、羽織やじゅばんから、バラの柄のものだけを集めた約100点を展示する。ミキモトによると、明治の文明開化以降日本に入った西洋のバラは、新しい時代へのロマンや自由の象徴として、お洒落な女性の間で着物の柄に用いられたという。

四季を大切にする着物の世界で、春咲きと秋咲きのあるバラは「季節(とき)知らず」と言われ、四季を問わず身に着けることができる特別な柄で、今回は古典柄からモダン柄まで、時代の世相や着る人の個性を反映したさまざまなバラの着物を公開する。

ウイキペディアによると、「バラ」はバラ科バラ属の種(しゅ)の総称で、世界に約120種があり、6月の誕生花で、季語は夏とされている。バラが歴史に登場するのは古代バビロニアの「ギルガメシュ叙事詩」が最初で、この詩の中にバラのトゲについて触れた所がある。

古代ギリシア・ローマでは、バラは愛の女神アプロディテもしくはウェヌス(ヴィーナス)と関係づけられた。香りも愛好され、香油も作られた。プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ(Cleopatra 7 Philopator、BC70-BC30)はバラを愛好し、ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar、BC100-BC44)を歓待したときも、バラの花や香油を使用したと伝えられている。

ローマでもバラの香油は愛好され、第5代ローマ皇帝ネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus、37-68)はお気に入りの貴族たちを招いて開いた宴会では、庭園の池にバラを浮かべ、バラ水が噴き出す噴水もつくり、部屋はバラで飾られ、皇帝が合図をすると天井からバラが降り注ぎ、料理にもバラの花が使われていたと伝えられる。

中世ヨーロッパではバラの美しさや芳香が「人々を惑わすもの」として教会によってタブーとされ、修道院で薬草として栽培されるにとどまった。イスラム世界では、白バラは開祖のムハンマド(Muhammad、570ころ-632)を表し、赤バラが唯一神アッラー(allah)を表すとされた。十字軍(1096年から1272年)以降、中近東のバラがヨーロッパに紹介され、ルネサンス(14世紀から16世紀)のころには再び人々の愛好の対象とされ、カトリック教会では聖母マリアの雅称(がしょう)として「奇しきばらの花」(Rosa Mystica)と呼ぶようになった。

ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte、1769-1821)の皇后ジョゼフィーヌ(Josephine de Beauharnais、1763-1814)がバラを愛好し、パリ郊外のマルメゾン城((Chateau de Malmaison)にヨーロッパや日本や中国など、世界中から取り寄せたバラを植栽させた。ジョゼフィーヌ没後も彼女の造営したバラ園では原種の収集、品種改良が行われ、19世紀半ばにはバラの品種数は3000を超え、これが観賞植物としての現在のバラの基礎となった。

日本はバラの自生地で、品種改良に使用された原種のうち3種類(ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシ)は日本原産という。江戸時代初期に、仙台藩の慶長遣欧使節副使・支倉常長(はせくら・つねなが、1751-1622)がヨーロッパからバラを持ち帰り、そのバラは、伊達光宗(だて・みつむね、1627-1645)の菩提寺(ぼだいじ)の円通院(えんつういん)にある光宗の霊廟「三慧殿(さんけいでん)」の厨子(ずし)に描かれたため、同寺は「ばら寺」の通称で呼ばれている。

明治維新後に、明治政府は「ラ・フランス」を農業試験用の植物として取り寄せ、青山官制農園(現東京大学農学部)で栽培させた。その後、バラが接(つ)ぎ木で増やせることから、優秀な接ぎ木職人のいる東京郊外の川口市の安行や京阪神地域の郊外・宝塚市山本で栽培が行われるようになった。

期間中、14時と16時から作品の解説がある。

開場時間は11時から19時、入場は無料。

プランタンでクーパー陶磁器展、岩崎みわ子、萩尾紅子らも

【銀座新聞ニュース=2012年4月2日】プランタン銀座(中央区銀座3-2-1、03-3567-0077)は4月3日から4月12日まで本館6階アートギャラリー「ギャルリィ・ドゥ・プランタン」で「スージーズ・サロン アンティック展」を開催する。

イギリスの陶磁器デザイナーのスージー・クーパー(Susie Cooper、1902-1995)のアンティーク食器、シルバーウェア(銀食器)、宝飾品などと、木版画家の岩崎みわ子(いわさき・みわこ)さん、パステルで風景を描く萩尾紅子(はぎお・にじこ)さん、画家の菊池由紀子(きくち・ゆきこ)さんら5人が出展し、陶磁器に合わせて展示する。

スージー・クーパーは1902年イギリスのスタッフォードシャーのバーズレム生まれ、地元の美術学校「バーズレム・アートスクール」で学び、1922年に陶器のペインターとして陶器会社のグレイ社に入社、1923年にV&A美術館のイギリス陶器部門展示会で、デザインが認められ、グレイ社の陶器の裏にスージーの名前が描かれるようになる。

1929年にグレイ社を退社、1930年に「スージー・クーパー・ポタリー(Susie Cooper Pottery)」を設立、1938年に建築家のセシル・ベーカー(Cecil Baker、?-1972)と結婚し、1950年に「スージー・クーパー・チャイナ(Susie Cooper China)」を設立、ボーンチャイナの生産をはじめ、1960年ころから生産をウェッジウッドに委託した。

1964年に陶器の生産を中止、磁器の生産に集中し、1966年にウェッジウッドの傘下に入り、ウェッジウッドのデザイナー、商品プロデューサーを務める。1979年に大英帝国勲位を受勲、1987年に王立芸術学院より博士号を授与される。1988年にマン島に移住し、フリーのデザイナーとなり、1995年にマン島で死去した。

岩崎みわ子さんは1957年東京都生まれ、1984年から1989年まで神奈川国際版画アンデパンダン展、1985年に武蔵野美術学園版画研究科を卒業、1988年にCWAJ版画展に出品している。

萩尾紅子さんは1951年福岡県北九州市生まれ、東京のデザイン専門学校で学び、工作舎に入社、デザイン、編集、営業を経験し、30歳で独立、1991年に新潟県中郷村(現上越市)に移り住み、山崎計二(やまざき・けいじ)さんと出会い、画家を志し、1996年から個展を開き、2001年にスージ・アンティーク&ギャラリーで個展、2010年にプランタン銀座のスージー展に出品している。

4月8日の11時30分と15時30分からスージ・アンティック&ギャラリーの鈴江花也乃(すずえ・かやの)さんによるアンティークカップ&ソーサーのフラワーアレンジメント教室を開催する。定員は6人で、料金は3675円。申し込みはギャルリィ・ドゥ・プランタン(03-3567-7307)まで。

開場時間は11時から20時30分(日曜日は19時30分、最終日は18時30分)まで、入場は無料。

ヴァニラで少年が夢見た小松崎茂展

【銀座新聞ニュース=2012年4月1日】ヴァニラ画廊(中央区銀座6-10-10、第2蒲田ビル4階、03-5568-1233)は4月2日から4月14日まで小松崎茂の原画展「宇宙船地球号」を開催する。

画家、イラストレーターで、「箱絵」で知られる小松崎茂(こまつざき・しげる、1915-2001)が描いた「地球SOS」などの原画を展示する。今回は小松崎茂の弟子で、「昭和ロマン館」(千葉県松戸市小金清志町3-59、047-341-5211)館長でもあり、さし絵画家でもある根本圭助(ねもと・けいすけ)さんが協力している。

小松崎茂の宇宙船や戦車、飛行機などを描いた緻密なイラストは少年の夢をかきたて、1990年に発行された画集には石ノ森章太郎(いしのもり・しょうたろう、1938-1998)、ちばてつやさん、川崎(かわさき)のぼるさん、松本零士(まつもと・れいじ)さんといったマンガ家が賛辞の声を寄せ、小松崎茂の絵物語を愛読し、影響を受けたといった言葉が述べられている。また、藤子不二雄A(ふじこ・ふじお・えー、安孫子素雄=あびこ・もとお)さんはペンネームを「小松原滋」にしてサインもマネしたという。

ウイキペディアなどによると、小松崎茂は1915年東京都生まれ、1938年に「小樽新聞」に連載の悟道軒円玉(ごどうけん・えんぎょく、1866-1940)の講談小説「白狐綺談」のさし絵でデビューし、1939年には科学雑誌「機械化」のさし絵で、戦争物や空想科学を題材にした絵を描き、戦時中は国民向け雑誌に戦記小説のさし絵や軍艦、戦車、飛行機などの戦争イラストを発表した。

戦後は少年誌向けに表紙やさし絵を描き、1948年に子ども向けの絵物語ブームが起こり、1948年から1951年にSF冒険活劇物語「地球SOS」が月刊誌「冒険活劇文庫」(少年画報社、後に「少年画報」)に連載され、その後、「大平原児」や「平原王」、「第二の地球」など西部劇物語、科学冒険と幅広く執筆した。1950年代半ばに絵物語人気がマンガに押されたが、1960年代に戦争を知らない世代の子どもたちの間で戦記ブームが起こった。
1960年代から1970年代にかけてプラスチック製の子ども向けおもちゃが主流となり、プラモデルなどのボックスアート(箱絵、パッケージアート)などに使用されるイメージやイラストを手がけ、イラストレーターとして、第1次プラモデルブームに貢献した。1961年にタミヤが多額の金型開発費を投入したモーターライズ戦車プラモデル「パンサータンク」の箱絵を手がけ、ヒット商品となり、その後のタミヤの経営が軌道に乗るきっかけとなった。

東宝の特撮物では1959年に「地球防衛群」や「宇宙大戦争」、1961年に「モスラ」のメカデザイン、 1963年に「マタンゴ」などのキャラクターデザインやストーリーボードも手がけてた。1970年以降、日本のプラモデル産業の成長に伴い、世界各国での需要がある戦車や飛行機、艦船模型の輸出が活発になると、箱絵の背景に描かれた「箱に入っていない物」が誤解を招き、タミヤでは「背景には製品に含まれないアイテムは描かないこと」という通達を出した。

以後は、国内市場が主力の模型メーカーの戦車AFVや、キャラクター・トイ向けメーカーからの仕事が増えた。晩年もミックスアップ(MIX-UP)やCDジャケット、プレイステーション2のメタルギアソリッド2限定版付属冊子内イラストなどを手がけ、2001年に心不全で死去した。

開場時間は12時から19時(土曜日、祝日、日曜日は17時)。料金は500円。期間中、休みなし。