【銀座新聞ニュース=2019年2月28日】広島県(広島県広島市中区基町10-52、082-228-2111)は3月4日から9日の6日間、アンテナショップ「TAU」(中央区銀座1-6-10、銀座上一ビルディング、03-5579-9952)1階鮮魚コーナーで「瀬戸内ひろしま鮮魚フェア」を開く。
瀬戸内海ではオニオコゼ、キジハタ、カサゴ、クロダイ(瀬戸内海の漁獲量が日本の半分を占める)、タコなどが獲れるが、その中からオニオコゼ、キジハタ、カサゴ、クロダイ、タコ、ガザミ(ワタリガニ)、ワニ(サメ)を試食販売する。
また、3月1日から17日まで、店内のレストランで特別メニューを提供する。3階広島イタリアン「メリ プリンチペッサ(MERI Principessa)」では「瀬戸内のオコゼのフリット 彩り野菜のソース」(税込1944円から)、「瀬戸内のカサゴのアクアパッツァ」(1944円から)。地下1階の瀬戸内ダイニング「遠音近音(をちこち)」では「オコゼの唐揚げ」(3240円)、「カサゴの煮付け」(1620円)、「たこのお造り」(1620円)、「たこの柔らか煮」(864円)がある。
ウイキペディアによると、瀬戸内海は東西に450キロ、南北に15キロから55キロ、平均水深が約38メートル、最大で約105メートル(豊予海峡および鳴門海峡)の内海で、複数の島嶼群で構成され、豊かな生態系を持つことで知られている。医師であり博物学者であったシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796-1866)をはじめとして多くの欧米人から評価された景勝地という。
1860年に瀬戸内海を訪れた「シルクロード」の命名者でもあるドイツ人の地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen、1833-1905)の「支那旅行日記」には「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と紹介され、風光明媚な風景として知られる地域とされている。
瀬戸内海という概念が誕生したのは、江戸時代後期とされ、それまでは和泉灘や播磨灘、備後灘、安芸灘など狭い海域の概念として使われ、現在の瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在してなかった。江戸時代の「瀬戸内」は現在でいう「瀬戸内海」とは必ずしも重なっていない。1813年に書かれた佐渡の廻船商人の旅行記「海陸道順達日記」では尾道と下関の間を「瀬戸内」と呼んでいる。
「瀬戸内海」の概念が今日のようなものとして確立される契機となったのは、明治期に欧米人がこの海域を「インランド・シー(The Inland Sea)」と呼んだことによる。欧米人がこのように呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼び、これが明治時代の後半に広まっていった。ただし、当時の「瀬戸内海」は明石海峡から関門海峡までの海域を指し、現在のようなより広い海域に「瀬戸内海」の概念が拡張されるには、さらに時間を要している。
実業家で衆議院議員の小西和(こにし・かなう、1873-1947)の「瀬戸内海論」(1911年)が日本人による最初のまとまった論考で、この中で瀬戸内海を一つの大きなテーマとして捉えることの必要性を指摘し、瀬戸内海の多島美を積極的に評価した。また、「国立公園」を日本に作ることの必要性も指摘し、後に帝国議会に国立公園の設置を建議した。1931年に「国立公園法」が制定され、1934年3月16日の第1回指定で瀬戸内海は雲仙(現・雲仙天草国立公園)、霧島(現・霧島錦江湾国立公園)とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」とされた。
国際水路機関(IHO)が1953年に発行した「大洋と海の境界」において、瀬戸内海(英語版でSeto Naikai or Inland Sea)と表記され、その範囲は西端が下関海峡において、名護屋岬から馬島と六連島を通り村崎の鼻に至る線、東端が紀伊水道において、田倉崎と淡路島の生石鼻、同島の塩崎と大磯崎を結ぶ線、南端が豊後水道において、佐田岬と関崎を結ぶ線(豊予海峡)と定義された。
また、「領海及び接続水域に関する法律」では以下の10区分の海域で構成されている。紀伊水道、大阪湾、播磨灘、備讃瀬戸、備後灘、ひうち灘、安芸灘、広島湾、伊予灘、周防灘。また、瀬戸内海には大小あわせて3000の島があり、主な瀬戸内海の島としては、東部では淡路島、小豆島、中部では大三島、因島、大崎上島、生口島、向島、ホボロ島、西部では屋代島(周防大島)(屋代島)、倉橋島、能美島(江田島と一体)、厳島などがある。
営業時間は10時30分から20時。