「妖怪人間ベム」で亀梨和也、杏、鈴木福が舞台挨拶

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【銀座新聞ニュース=2012年11月30日】東宝(千代田区有楽町1-2-2、 03-3591-1221)は12月15日にトーホー(TOHO)シネマズ日劇(千代田区有楽町2-5-1、有楽町マリオン内、03-3574-1131)で一般公開する「映画 妖怪人間ベム」初日に、亀梨和也さん、杏さん、鈴木福さんによる舞台あいさつを開催する。

映画 妖怪人間ベム1

12月15日から一般公開される「映画 妖怪人間ベム」((C)ADK/2012「映画 妖怪人間ベム」製作委員会)。

12月15日の8時の回上映終了後と11時50分の回上映前に、「ベム」役の亀梨和也(かめなし・かずや)さん、「ベラ」役の杏(あん)さん、「ベロ」役の鈴木福(すずき・ふく)さんが舞台に登場してあいさつする。

「妖怪人間ベム」は1968年10月7日から1969年3月31日までフジテレビ系で放送されたアニメで、韓国の東洋放送(現韓国放送公社の一部)と広告代理店の第一企画(現アサツー ディ・ケイ)のアニメ部門「第一動画」が制作しており、現在では原作がアサツー ディ・ケイとなっている。

2011年10月22日から12月24日まで日本テレビ系で実写化、放送され、第49回ギャラクシー賞マイベストテレビ賞第6回グランプリ、日刊スポーツ・ドラマグランプリ、第71回ザテレビジョンドラマアカデミー賞主演男優賞、同助演女優賞などを受賞した。

この実写化を元に、今回、実写版の演出を手がけた狩山俊輔(かりやま・しゅんすけ)さんが監督し、実写版の脚本を書いた西田征史(にしだ・まさふみ)さんが映画の脚本も担当し、3人の妖怪人間の配役も実写版と同じ亀梨和也さん、杏さん、鈴木福さんがそのまま務めている。

アニメも実写ドラマもリーダー格で身長190センチ、普段は丁寧な物腰の紳士であり、スキンヘッドでたくましい体つきの50歳くらいの黒人を思わせる風貌をした「ベム」、27歳から28歳くらいの女性の姿をし、身長170センチ、普段は紫色のローブのような服と赤いマントを身に着け、武器となるムチを左腕に巻き付けている「べラ」、8歳くらいの子どもの姿をし、身長110センチ、首から下は赤い全身タイツのような服装で頭髪は青く、頭頂部が1本角のように立っている「ベロ」の妖怪人間3人の物語だ。

物語は怪異な姿に正義の心を持つ妖怪人間のベム、ベラ、ベロが名前の無い男(柄本明=えもと・あきら=さん)との戦いで、人間になることよりも人間を手助けしていくことを選び、あてもなく放浪しているところからはじまり、たどり着いた街で連続して不可解な事件に遭遇する。

事件の謎を追う中、ベロはMPL製薬の新薬開発研究者の娘みちる(畠山彩奈=はたけやま・りな=さん)と出会い、恋心を抱くが、次第に3人は謎の怪事件に巻き込まれ、かつてない最強の敵と衝撃の真実に直面することになる。

チケットははがきによる抽選とネットによる抽選があり、はがきは郵便番号、住所、氏名、年齢、チケット購入希望枚数(2枚まで)、希望劇場と開始時間 を記入して、東宝「妖怪人間ベム」舞台挨拶チケット購入係(〒100-8698、日本郵便(株)銀座郵便局JPタワー内分室、私書箱2404号)に送る。締め切りは12月5日必着。料金は全席指定で一般1800円、大高生1500円、3歳以上中学生、シニア1000円、障がい者手帳持参者1000円。

ネットはチケットぴあ(http://pia.jp/sp/bem-movie/)を通じて受け付け、11月29日から12月10日11時まで。料金は全席指定で一般2000円、大高生1700円、3歳以上中学生、シニア1200円、障がい者手帳持参者1200円。

永谷商事が神田すずと六本木超高層ビルや広尾の公園を散歩

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【銀座新聞ニュース=2012年11月30日】永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)で12月4日に神田すずさんによる「講談師と一緒に歩く 歴史と文化の散歩ラリー」を開催する。

講談師 神田すず

永谷商事が12月4日に開催する「講談師と一緒に歩く 歴史と文化の散歩ラリー」で「異国情緒にひたれる六本木・広尾」を案内する神田すずさん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開催している「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画だ。

今回は二ツ目の神田(かんだ)すずさんが「異国情緒にひたれる六本木・広尾」と題して、「東京ミッドタウン」(港区赤坂9-7-1、03-3475-3100)から「国立新美術館」(港区六本木7-22-2、03-6812-9900)、「六本木ヒルズ」(港区六本木6-10-1、03-6406-6000)を歩く。

その後、「沖田総司の墓(専称寺)」(港区元麻布3-1-37)から「お楽しみ大使館めぐり」を経て「有栖川宮記念公園」(港区南麻布5-7-29、03-5114-8803)を散歩して、お江戸日本橋亭に移動して、昼食後、午後から日本橋お江戸寄席を鑑賞する。

「東京ミッドタウン」は2004年5月18日に建設がはじまり、2007年1月に竣工、3月30日に開業し、三井不動産が運営している。敷地面積が7万8400平方メートル、オフィスが約33万平方メートル、住宅が約530戸、ホテルが約250室、商業が約5万7000平方メートルとなっている。

主に4棟あり、ミッドタウン・タワー(オフィス・ホテル棟)は地上54階、地下5階で高さが248メートル、6階から43階がオフィスフロアでファーストリテイリング、シスコシステムズ、ヤフー、ハドソンなどが入居し、44階から53階がザ・リッツ・カールトン東京、54階が施設維持・管理スペースで一般客が入場できない。

ミッドタウン・イーストが地上25階、地下4階で高さが114メートル、地下1階から地上11階にコナミとコナミグループ(コナミデジタルエンタテインメント、コナミスポーツ&ライフなどが入居し、地下1階、1階、12階から24階がマンションの東京ミッドタウン・レジデンシィズになっている。

ミッドタウン・ウェストが地上13階、地下3階で高さが67メートル、富士フイルムホールディングス(富士フイルム、富士ゼロックス)が入居し、1階と2階はフジフイルムスクエアとなっている。

ザ・パーク・レジデンシィズ・アット・ザ・リッツ・カールトン東京は地上30階、地下2階、高さ108メートルで、住宅棟(マンション)がある。

ほかに、ガーデンサイドは地上9階、地下3階、高さ48メートル、スーパーのプレッセやサントリー美術館、オークウッドプレミア東京ミッドタウン(サービスアパート)、地下1階から地上4階までガーデンテラスがあり、レストラン街、オープンテラスとなっている。

江戸時代に長州藩毛利家の下屋敷などがあり、明治時代から大日本帝国陸軍の歩兵第一、第三連隊の駐屯地となり、太平洋戦争後、アメリカに接収され、アメリカ軍将校の宿舎として使用され、サンフランシスコ講和条約発効後の1960年に日本に返還され、陸上自衛隊の駐屯地とされ、防衛庁の本庁舎も設置された。

2000年5月に防衛庁本庁舎が新宿区市ヶ谷の駐屯地に移転。2001年4月26日に東京都が「赤坂9丁目地区再開発地区計画」を決定し、5月1日に財務省が売却を公示し、9月17日にはコンソーシアム6社(積水ハウス、全国共済農業協同組合連合会、大同生命保険、富国生命保険、三井不動産、安田生命保険)が落札し、全体計画は国際コンペティションの結果、アメリカ・ニューヨークを中心に活動するスキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル(Skidmore,Owings&Merril LLP)が受注し、担当した。

「国立新美術館」は文化庁国立新美術館設立準備室と独立行政法人国立美術館が主体となって東京大学生産技術研究所跡地に建設された美術館で、1996年に立案され、2002年に着工し、2006年6月に完成し、2007年1月21日に開館した。

敷地面積が3万平方メートル、5階建て、延床面積が4万7960平方メートル、高さが32.5メートル。黒川紀章(くろかわ・きしょう、1934-2007)が最後に設計した建物とされている。美術団体のための展示スペースで、収蔵品を持たず、学芸員も置かないという方針だったが、現在は学芸員を置いている。

「六本木ヒルズ」は2000年に着工し、2003年3月に完成し、4月25日に開業した。敷地面積が約8万4800平方メートル、地上54階(森タワー)、地下6階、高さ238メートルで、延べ床面積が72万4525平方メートル。森ビル、ハリウッド美容専門学校、テレビ朝日などが所有し、森ビルが運営している。ゴールドマン・サックスやFM放送局のJ-ウェーブ(WAVE)などが入居している。

江戸時代に麻布日ヶ窪(現六本木6丁目)に長府毛利家(長州藩支藩の長門府中藩)の屋敷があり、明治時代に法律家・増島六一郎(ますじま・ろくいちろう、1857-1948)の邸宅になり、太平洋戦争時に空襲に遭い、1952年にニッカウヰスキーの工場、その後、日本教育テレビ(現テレビ朝日)の敷地となった。

また、日本で最初の美容室として知られるメイ牛山(めい・うしやま、1911-2007)のハリウッドビューティサロンやハリウッド化粧品、ハリウッド美容専門学校の敷地が戦前からあった。下に通るトンネルは、ハリウッドの社屋があった後に掘削されたことで、「ハリウッドトンネル」と呼ばれた。土地には約500世帯があり、1984年に「港区六本木6丁目再開発」として事業計画されたが、完成までには約17年を要し、総事業費が約2700億円。

「沖田総司の墓」は専称寺にある新選組一番隊組長及び撃剣師範の沖田総司(おきた・そうじ、1844?-1868)の墓で、陸奥白河藩の江戸の下屋敷(現港区西麻布)で生まれ、肺結核により幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、新選組組長の近藤勇(こんどう・いさみ、1834-1868)斬首から2カ月後の1868年7月19日に死去した。専称寺では沖田総司の墓を公開していないが、毎年6月末の沖田総司忌のみ一般の墓参りを認めている。

元麻布には大使館は1丁目にオーストリア、2丁目がカタール、マダガスカル、アルゼンチン、スロバキア、3丁目に中国、リトアニアがある。南麻布には3丁目にイラン、フィンランド、4丁目にフランス、ドイツ、パキスタン、5丁目にスイス、ノルウェーが大使館を設置している。

「有栖川宮記念公園(ありすがわみやきねんこうえん)」は江戸時代に陸奥盛岡藩下屋敷があり、 1896年に有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや・たけひとしんのう、1862-1913)が霞ヶ関の御殿から移転する際に、代替地として御用地とされ、生母の森則子(もり・のりこ)の住居などが設けられ、有栖川家が断絶すると、1913年に同家の祭祀を引き継いだ高松宮に継承され、高松宮御用地とされた。

1934年に有栖川宮威仁親王の命日にちなみ、御用地約1万1000坪(3万6325平方メートル)を公園地として東京市に下賜され、東京市は整備し、有栖川宮記念公園と命名されて同年11月に開園した。1973年に有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや・たかひとしんのう、1812-1886)の銅像から北東部の一帯、東京都立中央図書館や港区立麻布運動場などが位置する3万1235平方メートルが公園に編入され、1975年には東京都から港区に移管されて区立公園となっている。

神田すずさんは東京都東村山市生まれ、会社員を経て、2006年に神田(かんだ)すみれさんに入門、講談協会前座見習、同年11月に講談協会前座、2010年に二ツ目に昇進している。

時間は10時から16時で、昼までに終え、13時30分からお江戸日本橋亭で神田すずさんらの寄席になる。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

日本橋お江戸寄席は前座の立川笑二(たてかわ・しょうじ)さん、二ツ目の立川吉笑(たてかわ・きっしょう)さん、神田すずさん、真打の土橋亭里う馬(どきょうてい・りゅうば)さん、和風漫談家で江戸売り声の宮田章司(みやた・しょうじ)さん、真打の三遊亭円橘(さんゆうてい・えんきつ)さんが出演する予定だ。

TASAKIが安藤美姫写真展、VOGUEとコラボ

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【銀座新聞ニュース=2012年11月30日】TASAKI(田崎真珠、中央区銀座5-7-5、03-3289-1111)は11月29日から12月25日まで地下1階で写真展「TASAKI タイムレスクリスマスシアターフィーチャリングミキアンドウ(Timeless Christmas Theater featuring Miki Ando)-安藤美姫 氷上のモダニティ」を開催している。

TASAKI 安藤美姫さん

TASAKIが12月25日まで開催している「安藤美姫 氷上のモダニティ」のポスター。

月刊女性誌「ヴォーグ・ジャパン(VOGUE JAPAN)」(コンデナスト・パブリケーションズ)と協力して、フィギュアスケート選手の安藤美姫(あんどう・みき)さんを「モードの女神」として抜てきし、安藤美姫さんが「ヴォーグ・ジャパン」のモデルとして、氷上でTASAKIのジュエリーを身に付けて撮影し、その中から展示する。また、ショートフィルムも公開している。

さらに、クリエイティブ・ディレクター、タクーン・パニクガル(Thakoon Panichgul)さんが今回のためにデザインし、チャコットが制作した特製コスチュームや、オリンピックや世界選手権などで着用した思い出のコスチュームやスケートシューズなども展示する。

一方、「ヴォーグ・ジャパン」1月号では特別付録としてTASAKIののパール付きスマートフォン・イヤホンジャック・アクセサリーを付けている。

ウイキペディアなどによると、安藤美姫さんは1987年愛知県名古屋市生まれ、9歳でスケートをはじめ、1998年に全日本ノービス選手権Bクラスで3位、1999年に同大会Aクラスで優勝、2001-2002シーズンに全日本ジュニア選手権で優勝、ISUジュニアグランプリ (JGP)もJGPファイナルを含む3戦とも優勝し、シニアの全日本選手権で3位、2003-2004シーズンにJGPファイナルで優勝、全日本ジュニア選手権で3連覇を達成し、全日本選手権で初優勝、世界選手権でも4位と健闘した。

2004-2005シーズンに全日本選手権で2連覇、2005年5月からアメリカに練習拠点を移し、2006年にトリノオリンピックの代表に選出されたものの総合15位に終わった。2010年にバンクーバーオリンピックに出場、5位入賞した。この間、中京大学付属中京高校を卒業、トヨタ自動車に入社し、中京大学体育学部に社会人学生として在籍、2011年3月に卒業した。

「ヴォーグ」は1892年に週刊誌としてアーサー・ボールドウィン・ターナー(Arthur Baldwin Turnure、1857-1906)によって創刊され、1909年にアーサー・ボールドウィン・ターナーの死後、コンデ・ナストが事業を継承し、隔週刊誌とし、1910年代初期にイギリスから国外展開をはじめ、スペインでは失敗したが、フランスでは成功を収めた。

1960年代にアメリカ人のダイアナ・ヴリーランド(Diana Vreeland、1903-1989)が編集長に就任し、1971年まで務め、アシスタントのグレース・ミラベラ(Grace Mirabella)さんが編集長に就き、1973年に月刊誌となり、1988年にアナ・ウィンター(Anna Wintour)さんが編集長に就いた。

日本では1999年7月に日経コンデナスト(現コンデナスト・パブリケーションズ・ジャパン)から「ヴォーグ・ニッポン(VOGUE NIPPON)」として創刊、2011年5月号より現在の「ヴォーグ・ジャパン」に改称した。日本版の編集長は渡辺三津子、(わたなべ・みつこ)さん、ファッションディレクターはアンナ・デッロ・ルッソ(Anna dello Russo)さんが務めている。

開場時間は11時から19時30分。入場は無料。

HARIOが1000万円のガラスギター、大震災復興記念で、村治佳織が監修

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【銀座新聞ニュース=2012年11月29日】耐熱ガラスの大手メーカー、HARIO(ハリオ、中央区日本橋富沢町9-3、03-5614-2101)は11月29日午後、ロイヤルパークホテルで記者会見して、ガラス製のギターを発表した。

HARIO 村治佳織さん

HARIOのガラス製のギターで演奏する村治佳織さん。

HARIOの茨城県古河の工場が2011年3月11日に東日本大震災により、停電したことから、5年も6年も1日も休まずに稼動を続けてきたガラス窯が停止し、生産ができなくなった。その後、6月に工場の稼動を再開し、それを記念して、ガラス製のギターを約1000万円かけて2台生産した。

HARIOとギターの製作を監修したギター奏者の村治佳織(むらじ・かおり)さんが話し合って19世紀に使われた小型のギターを選んだ。村治佳織さんは「普通のギターは1.6キロに対して、ガラス製は3.7キロと重いので、演奏しているうちに疲れてきてしまう」ためとしている。また、本体完成後も、フレッドなどの微調整を繰り返したという。

ガラス製のギターは全体の素材がガラスで、フレッドやトップなどにアクリルを使っている。会見で演奏した村治佳織さんは「音は硬質な感じで、小さいころにはじめた時代を思い出す素朴な音」と表現した。また、弾く際に木のギターよりも、場所をいろいろと変えているという。

ガラス製のギターの生産を指揮した専務の村上達夫(むらかみ・たつお)さんは「希望の音」と呼び、「ガラス製のギター生産そのものに1000万円かかったというよりも、金型などに費用にかかったのが原因」と語る。HARIOではこれまでにチェロ、バイオリンなど12種の楽器をガラスで生産してきたが、ギターは初めて。「東日本大震災から復興を遂げた記念として、みんなが」

こんごは、村治佳織さんはコンサートなどで要望があれば、弾いていきたいとしている。

村治佳織さんは1978年東京都台東区生まれ、3歳ころからギター奏者の父親、村治昇(むらじ・のぼる)さんに師事し、10歳からギター奏者の福田進一(ふくだ・しんにち)さんに師事、1989年にジュニア・ギターコンテストで最優秀賞、1993年にデビューリサイタル、1994年に出光音楽賞、1996年にイタリア国立放送交響楽団の定期演奏会でヨーロッパデビューした。

女子聖学院高校を卒業、1997年からフランス・パリのエコールノルマル音楽院に留学、以降パリで活動し、1999年に帰国、内外で演奏し、2003年にイギリスのクラシックレーベル 「デッカ・レコード(Decca Records)」とインターナショナル長期専属契約を結び、2005年に中国・上海で初のコンサートを開いた。10月に右手後骨間神経麻痺により演奏活動を休止、静養に入り、2006年に復帰した。

スペインのギター奏者、ホアキン・ロドリーゴ・ビドレ(Joaquín Rodrigo Vidre、1901-1999)の紹介に取り組んでいるが、2011年11月に再び右手後骨間神経麻痺の治療により演奏活動を一時休止、2012年2月に再開している。

ミキモト吉田社長、中国で尖閣の影響なし、北京、上海で増設へ

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【銀座新聞ニュース=2012年11月29日】ミキモト(中央区築地1-8-9、03-5550-5678)は11月29日午後、ザ・ペニンシュラ東京(千代田区有楽町1-8-1)で「ミキモト真珠発明120周年記念」発表会を開いた。

ミキモト 吉田均さん

ミキモトが11月29日にホテルで開いた「ミキモト真珠発明120周年記念」発表会であいさつする社長の吉田均さん。

あいさつに立った社長の吉田均(よしだ・ひとし)さんは2013年に御木本幸吉(みきもと・こうきち、1858-1954)が世界初の真珠の養殖に成功して以来120周年を迎えることから、「真珠業界、宝飾品業界で今まで以上に世界的に認知される企業へ」と海外での認知度を高めるため、真珠やアクセラリーに関するイベントを積極的に行っていく方針を明らかにした。

その後、吉田均さんは銀座新聞ニュースに対して、「今や真珠業界は南洋産などの黒真珠の輸入が増えて、業界が低迷しているが、来年は伝統的な日本文化である日本国産の真珠の人気を回復するため、積極的に取り組んでいきたい」と語り、業界の先頭に立って国産真珠の需要回復に向けてさまざまな取り組みを行うことを強調した。

また、ミキモトは中国では上海、北京、瀋陽、成都、南京にショップがあり、8月から尖閣諸島問題で中国国内でデモが発生したりして、多くの日本企業が休業に追い込まれたりしている中で、「日本企業というよりも、世界企業として認知されているせいか、すべての店舗で被害を一切受けていない」ことを明らかにした。

むしろ、日本への中国人観光客の減少により「これまで中国からの観光客の方々に購入していただいていたのが、ほとんど需要がなくなったので、日本での売り上げに影響を与えている」という。

このため、12月から2013年2月にかけて北京と上海に1店舗ずつ増やす計画で、最近、中国共産党総書記の習近平(しゅう・きんぺい)さんに近い経済部の要人が来日して会談した際に、そうした計画を表明すると「こうした時に中国に投資してもらえるとはありがたい、と喜んでもらえた」ことを明らかにした。ただ、吉田均さんは「中国には(何かあれば)撤退も視野に入れながら、慎重に投資していきたい」とも語った。

吉田均さんは東京都生まれ、1965年に早稲田大学商学部を卒業、御木本真珠店(現ミキモト)に入社、1988年に本店営業部長で退社し、ジェムフローレスに入社、専務取締役、2009年にジェムフローレスジュエリーサロン顧問、2011年11月に社長に就任している。

ミキモトは1893年に御木本幸吉が世界初の真珠の養殖(半円真珠)に成功し、1899年に「御木本真珠店」を銀座に開業し、1905年に真円真珠の養殖に成功し、1910年にイギリス・ロンドンに初進出、1949年に養殖と加工、輸出を行う「御木本真珠」と販売を行う「御木本真珠店」を設立、1951年に三重県鳥羽市に御木本真珠島を開業、1972年に「ミキモト」に改称、2007年に福岡県に「ミキモト博多真珠養殖」を設立している。