タイム明石で「銀座」400年記念通貨展、仲光克顕がトーク

【銀座新聞ニュース=2012年1月31日】タイムドーム明石(中央区立郷土天文館、中央区明石町12-1、03-3546-5537)は1月28日から2月26日まで「中央区から出土したお金たち 銭!!ぜに!!ゼニ!!」を開催している。

銀貨を鋳造(ちゅうぞう)する「銀座」が1612年に駿府(現静岡県静岡市)から現在の中央区銀座の地に移されてから2012年に400年目を迎えることから、「銀座」の遷置400年をきっかけに、中央区内の遺跡で出土したお金と、それに関わる遺物を展示する。

タイムドーム明石によると、江戸時代以前には、貨幣は各地でさまざまなものがつくられ、中国からも輸入されていたが、徳川家康(とくがわ・いえやす、1542-1616)が江戸に幕府を開き、貨幣の鋳造を独占したことによって、江戸城下である中央区に金座(金貨を鋳造)と銀座(銀貨を鋳造)という2つの鋳造機関が置かれた。

金座は現在の日本橋本石町にある日本銀行本店の場所にあり、1595年から1600年にかけてできたと考えられ、金座御金改役(金座の当主)で徳川家康の側近でもあった後藤庄三郎光次(ごとう・しょうざぶろう・みつつぐ、1571-1625)が金貨の鋳造を監督して極印(きわめいん、検定印)を打ち、金座御金改役は代々、後藤庄三郎光次の子孫が世襲した。

「銀座」は1612年に駿府から移設されて以来、銀貨の鋳造は常是役所の長、大黒常是(だいこく・じょうぜ、?-1633)が手がけ、1801年に日本橋蛎殻町(現日本橋人形町1丁目付近)に移され、江戸時代の後半になると、金貨、銀貨だけでなく、銭貨の鋳造も請け負い、深川や浅草で金座、銀座の監督のもとで銭貨が鋳造された。

江戸時代の貨幣制度は「三貨制度」で、小判や一分金などの金貨、丁銀や豆板銀などの銀貨、寛永通宝(1636年から幕末まで鋳造され、清国でも使われた銅または真ちゅうの銭で、日本では1953年まで使われていた)などの銭貨が流通し、単位が異なった。

金貨が両、分、朱(1両=4分=16朱)、銀貨が重さである貫、もんめ(目)、銭貨は貫、文(1貫=約1000文)が用いられた。1700年に幕府が交換レートを定め、金1両=銀60もんめ=銭4貫としたが、実際には相場が変動し、幕末には金1両=銭10貫になっていた。

中央区ではこうした江戸時代を中心に50種類以上のお金が遺跡から発掘され、それらの一部を公開する。これらの展示品は、「区内から出土したお金」としては一分金、一朱銀、寛永通宝、その他国産銭、渡来銭、近代のお金などがあり、「ニセモノのお金やお金をモチーフとしたものなど」としては雁首銭(がんくびせん)、模造銭貨、質札、泥面子(どろめんこ)などが紹介される。

また、「六道銭と副葬品、埋葬施設など」としては、死者を葬るときに棺の中に入れられる6文の銭「六道銭(ろくどうせん)」、手早く間に合わせる粗末な棺桶「早桶(はやおけ)」、火葬した遺骨を納めるための金銅や陶製などの容器「蔵骨器(ぞうこつき)」、「数珠(じゅず)」、人形などもある。「お金と一緒に埋められたもの、お金を埋めた場所」として、刻みタバコを吸う道具「煙管(えんかん、きせる)」、小形の刀「刀子(とうす)」、便所がめ、近代のガマ口などを展示する。

ウイキペディアによると、江戸時代以前は現在の丸の内から日比谷にかけては「日比谷入江」と呼ばれ海になっており、その東に隅田川の運んできた砂によって「江戸前島」という砂州が形成され、その先端が現在の銀座にあたった。

徳川家康が1603年に徳川幕府を樹立すると、第1回目の「天下普請」(江戸城をはじめとする城や道路、河川の土木工事のこと)が行われ、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められ、東海道が整備された。

京間10間とした東海道(銀座通り)を中心にグリッド状に設計され、それぞれの街区の中央には会所地が設けられ、町割りは後藤庄三郎光次を中心に行われた。

1612年に2回目の「天下普請」で、銀座は町人地として整備され、駿府にあった銀座役所(現静岡市両替町)を移設し、1800年に蛎殻町(現日本橋人形町1丁目付近)に再び移転するまで、銀貨の鋳造が行われた。

当時、通町京橋より南1丁目から4丁目までを拝領して「新両替町」と称し、銀座人らが住居を構え、新両替町2丁目東側南角に「常是役所(じょうぜやくしょ)」、この北隣に銀座役所が設けられた。常是役所は現在の第一三共ビル付近、銀座役所は現在のティファニー銀座ビルの位置に相当する。

1715年には大判座の後藤屋敷が1丁目に移転した。これらの場所は現在の銀座1丁目から4丁目で、現在の5丁目から8丁目は尾張町、竹川町、出雲町と呼ばれていた。現在の銀座7丁目付近には「朱座」(1609年に朱や朱墨などを専門的に扱う座が認可された)が設けられ、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となった能の4座のうち3座が銀座に置かれた。このほかに、ヤリや鍋といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。

1657年に「明暦(めいれき)の大火」により江戸は大半を焼失、これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも三十間堀川沿いの河岸の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。江戸時代の銀座は、御用達町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強く、京橋や日本橋に比べ、当時は街はあまり賑わっていなかったとされている。

銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年と1872年に起こった2度の大火で、特に、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失した。

そこで、東京府知事の由利公正(ゆり・きみまさ、1829-1909)の主導により、東京を不燃都市化させ、1872年秋に開業予定だった横浜と東京間を結ぶ鉄道の終点「新橋駅」と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたいとの思惑から大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス(Thomas James Waters、1842-1892)設計によるジョージアン様式の「銀座煉瓦街」(レンガを使った建物群)が建設され、歩道やガス灯が整備され、松、カエデ、桜などの街路樹が植えられた。

煉瓦街はまず1873年に銀座通り沿いに完成し、1877年に全街区の建設が完了した。しかし、銀座煉瓦街建設前の住民たちは煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、銀座からほかに移った。かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売をはじめ、現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店という。

銀座には新聞社や輸入品を扱う店など新しい商業が集まり、1881年には108社の新聞、雑誌社のうち50社が銀座に集中した。しかし、銀座煉瓦街の建物が不評で、岐阜県大垣出身の平野豊次郎(ひらの・とよじろう)が煉瓦家屋入居第1号となり、1883年に平野茶店(平野園、中央区銀座4-11、薬種商、電話番号6)を創業、電話番号1番から5番が官公庁だったので6番というのは、民間第1号となる。

当時、木村屋パンは平野園と同じ住所、向い側には服部時計店、1895年に銀座の象徴となる時計台と望桜が造られ、はす向かいには鳩居堂が筆墨・香などを商っていた。

新しく出発した銀座は実用品の小売を中心とした町であり、京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手(番町、市谷、赤坂、麻布など)に住む華族や財閥といった特権階級(上流階級)や中産階級、ホワイトカラーの人々で、明治維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展していった。

ところが、1923年の関東大震災により、ほとんどの建物が倒壊、焼失し、銀座煉瓦街も完全に消滅した。平野園の前に植えられていた銀座で最古の街路樹、イチョウの樹も焼失し、現在は銀座三越が建っている。

2月4日と2月8日の14時から特別展示室で中央区主任文化財調査指導員の仲光克顕(なかみつ・かつあき)さんによるギャラリートークを開く。

仲光克顕さんは立正大学大学院考古学専攻の修士課程を修了、2000年より中央区文化財調査指導員。主な研究テーマは、江戸遺跡の中でも町屋、泥面子の研究など。

開場時間は10時から19時(土・日曜日、祝日が17時)まで。入場は無料。毎週月曜日は休み。

「ドラゴン」のマーラ「リスベットが魅力的」、菜々緒が踊り

【銀座新聞ニュース=2012年1月31日】ソニー・ピクチャーズエンタテインメント(港区虎ノ門4-1-28、虎ノ門タワーズオフィス)は1月30日夕に東京国際フォーラム(千代田区丸の内 3-5-1、03-5221-9000)は「ドラゴン・タトゥーの女」のジャパンプレミアを開催した。

2月10日からトーホー(TOHO)シネマズ日劇(千代田区有楽町2-5-1、有楽町マリオン11階、03-3574-1131)などで一般公開される「ドラゴン・タトゥーの女」の前宣伝に、監督のデヴィッド・フィンチャー(David Fincher)さんと、体にドラゴンのタトゥーを入れた「リスベット・サランデル」役を演じるルーニー・マーラ(Patricia Rooney Mara)さんが来日し、舞台あいさつした。

また、モデルの菜々緒(ななお)さんが「リスベット」に扮して、パンクファッションで登場し、ダンス・パフォーマンスを披露した。

原作はスウェーデンの作家スティーグ・ラーソン(Stieg Larsson、1954-2004)の死後、2005年から2007年にかけて刊行された推理小説「ミレニアム(Millennium)」の3部作の第1部「ドラゴン・タトゥーの女」で、こんご、第2部の「火と戯れる女」、第3部の「眠れる女と狂卓の騎士」も映画化される予定になっている。

デヴィッド・フィンチャーさんは映画化の理由を「2人のキャラクターに惚れ込んで、ぜひ映画化しようと思いました」と語ると、ジバンシィの真っ白な衣装のルーニー・マーラさんも「まずは原作を読んだのですが、リスベットというキャラクターに私も惚れ込みました。また、脚本には入念にキャラクターについて書いてありましたし、素晴らしい監督による指導もあったので、楽しんで演じることができました」と述べ、2人とも「リスベット」という調査員の女性に魅力を感じたことがきっかけとなったようだ。

ルーニー・マーラさんは「リスベット」と似ている点を聞かれると、横からデヴィッド・フィンチャーさんが「シャイ」と突っ込みを入れると、会場で笑いが広がり、ルーニー・マーラさんは「どちらかというと人なつっこくなくて、新しい方になじむのには時間がかかる、というところ」とはやり、「シャイ」な点を強調した。

会場では、舞台あいさつ前に小林東雲(こばやし・とううん)さんが水墨画で龍を描くパフォーマンスを披露し、その中で菜々緒さんが黒の衣装で登場し、ダンスを踊り、曲が終わると同時に龍も完成した。さらに、デヴィッド・フィンチャーさんとルーニー・マーラさんの舞台あいさ後に、小林東雲さんが再登場して、「中国には壁面に描かれた目のない龍に目を入れると、壁をぶち破って天に登ったという伝説があります」と。龍に目を入れると、水墨画の龍が動き出し、稲光が光り、赤く燃え、会場からは歓声と拍手が起こった。

ウイキペディアによると、「ミレニアム」はスウェーデンで2005年から3年で280万部を売るベストセラーとなり、世界で800万部が販売された。第1部「ドラゴン・タトゥーの女」と第3部「眠れる女と狂卓の騎士」はスカンジナビア推理作家協会の「ガラスの鍵賞」、第2部「火と戯れる女」はスウェーデン推理作家アカデミー最優秀賞を受賞している。

本来は5部作の予定で、スティーグ・ラーソンの残したパソコンには4部の大半が書かれているが、共同執筆者の女性と結婚してなく、遺言もなかったため、女性が著作権などの権利をもたず、公表されるかどうか未定になっている。

また、「ミレニアム」はスウェーデンでは3部ともテレビドラマ、映画化されているが、今回の映画はアメリカ・ハリウッドによるもので、デヴィッド・フィンチャーさんが監督し、ダニエル・クレイグ(Daniel Wroughton Craig)さんが「ミカエル・ブルムクヴィスト」を、ルーニー・マーラーさんがドラゴンのタトゥーを入れた女性「リスベット・サランデル」役を演じて制作された。

物語は大企業グループの前会長ヘンリック・ヴァンゲルがライターのミカエルに、36年前にヴァンゲル一族が住む島から忽然と姿を消した少女ハリエットの失踪事件の調査を依頼するところからはじまる。ミカエルの調査の手助けとしてヘンリックの弁護士フルーデが紹介した女は、全身に龍のタトゥーが彫られたリスベット。リスベット共に調査を進めるミカエルは、恐ろしい連続殺人とヴァンゲル家の繋がり、ハリエット失踪事件のてん末を知る。

デヴィッド・フィンチャーさんは1962年アメリカ・コロラド州デンバー市生まれ、10代の時にオレゴン州に移り、現地の高校を卒業、1980年にILMのアニメーターとして働き(1984年まで所属)、1986年にビデオ制作会社を設立、ミュージックビデオや多くのCMを手掛けた。

1992年に「エイリアン3」で映画監督デビューしたが、興行的にも内容的にも失敗作とされたが、その後、「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」や「ソーシャル・ネットワーク」でアカデミー監督賞にノミネートされている。

ルーニー・マーラさんは1985年アメリカ・ニューヨーク生まれ、父親がアメリカンフットボール「ニューヨーク・ジャイアンツ」の副社長、ティモシー・クリストファー・マーラ、母親がキャスリーン・マクナルティさん(旧姓ルーニー)で、ルーニー家は北アイルランドのダウン州から移民してきたアイルランド系アメリカ人という。

2010年にニューヨーク大学を卒業、2006年から女優として活動し、2009年に「ER緊急救命室」、2010年に「エルム街の悪夢」、「ソーシャル・ネットワーク」などに出演し、「ドラゴン・タトゥーの女」でアメリカ・アカデミー賞の主演女優賞でノミネートされている。

菜々緒さんは1988年埼玉県さいたま市(旧大宮市)生まれ、2009年にスーパーGT「チーム・ヨシキ・ロックスター・ガール(TEAM YOSHIKI ROCKSTAR Girl)」のレースクイーンを務め、ファッション雑誌「ピンキー(PINKY)」の「プリンセスピンキーオーディション」で準グランプリ、「東京ガールズコレクション2009ミスTGCグランプリ」に選ばれた。

同グランプリのスポンサー、メイベリン ニューヨークの親善大使に起用され、「2010三愛水着イメージガール」にも選ばれた。2010年に「レースクイーン・オブ・ザ・イヤー 09-10」に選ばれ、ファッション雑誌「ノンノ」の専属モデルを務めている。

小林東雲さんは1961年東京都生まれ、幼少の頃から書家の母親より筆法を学び、高校時代に中国水墨画の技法を学び、1987年にフランス・パリの「日本の美術展」会場で障壁画を描き、1988年に「昇龍」で芸術公論賞、「虎声」で日光山輪王寺賞を受賞した。

その後、中国、インドネシア、アメリカなどで障壁画を手がけ、1991年に公募全日展常任理事、審査員、1992年に天安門広場の中国歴史博物館で文化部主催の「中日友好20周年記念・小林東雲書画展」を開いた。1994年にアメリカ・カルフォルニア州観光局長賞を受賞した。現在も多くの会場で水墨画の実演をしている。

ヤマハ銀座で女子中学生の川口千里が演奏

【銀座新聞ニュース=2012年1月30日】ヤマハ銀座店(中央区銀座7-9-14、03-3572-3171)は2月5日に1階入り口ポータルで川口千里さんによる「DTXデモンストレーション」を開催する。

15歳で中学生の川口千里(かわぐち・せんり)さんがヤマハの電子ドラム「DTX750K」を使ってドラムを演奏する。川口千里さんは自宅でもヤマハの電子ドラムを使用しており、その演奏動画をインターネット上で2009年から公開し、再生回数が1400万回に達している。

「DTX750K」(希望小売価格32万5500円)は2011年7月に発売された電子ぢドラムだ。ヤマハがドラム奏者との長年の関係からつくり出した新しい成型技術による打面「テクスチャード・セルラー・シリコン・ヘッド」を、さらに高感度と静粛性、耐久性を実現させるための新パッド(DTX-PAD)を採用している。

ドラムトリガーモジュールも幅広い音楽をカバーするため、1396の音色を備え、USBフラッシュメモリーなどからの音色の読み込みも可能とし、自宅での練習から舞台でのライブ演奏まで使える。

川口千里さんは1997年愛知県生まれ、両親とも音楽に無縁だったが、5歳のときに機械好きな父親が買ってきた電子ドラム「DTXプレス(press)2」を、おもちゃ代わりに演奏したのがきっかけではじめ、8歳より菅沼孝三(すがぬま・こうぞう)さんに師事し、2006年にドラム専門誌「リズム&ドラム・マガジン」主催の第9回ドラム・コンテストで敢闘賞、2007年に第10回ドラム・コンテストで準グランプリを受賞した。

2008年に日本テレビの番組に出演し、2009年に三重県のケーブルテレビ局CTYの番組に出演している。菅沼孝三さんが所属しているユニット「フラガイル(FRAGILE)」のツアーなどに参加している。

開演時間は13時30分と15時30分で、料金は無料。問い合わせはヤマハ銀座店地下1階ギター・ドラム・デジタル楽器売場(03-3572-3422)まで。

丸善日本橋で駒沢聖刀、牧宥恵、丸山寿美、北村光一「仏」展

【銀座新聞ニュース=2012年1月30日】丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、 03-6214-2001)は2月1日から2月7日まで3階ギャラリーで駒沢聖刀さん、牧宥恵さん、丸山寿美さん、北村光一さんによる「やさしい仏さま展」を開催する。

木彫りの仏を制作し、「駒沢木彫工芸研究所」(広島市安佐北区口田南六丁目8-21-18、082-842-7532)を主催し、自然の木の形や色を活かした「丸木仏(まるきぶつ)」、端材や角材にならない木を利用した「木端仏(こっぱぶつ)」などを制作している駒沢聖刀(こまざわ・せいとう)さん、「やはり、仏教はいい」と考えながら、自由に遊ぶ仏の絵と言葉を1枚のキャンパスに表現した三昧画を中心に描いている画僧の牧宥恵(まき・ゆうけい)さん。

「ことほぎの御仏」を描く仏教美術画家の丸山寿美(まるやま・ひさみ)さん、奈良に伝わる如来や菩薩などと円空仏を表現した「木版仏画」家の北村光一(たむら・こういち)さんが作品を展示する。

駒沢聖刀さんは「守り本尊を彫ろう」や「新装版 板に彫るやさしい仏さま」などを、牧宥恵さんは「心のほぐし絵 楽に楽に」や「心のほぐし絵 そばにいるよ」、丸山寿美さんは「天地をことほぐ」を、北村光一さんは「やさしい仏像の木版画」を日貿出版社からそれぞれ刊行しており、日貿出版社と協力して今回の展示会を開く。

駒沢聖刀さんは1943年広島県呉市生まれ、1960年に扇山実(おうぎやま・みのる)さん、堀野源蔵(ほりの・げんぞう)さんに木彫りについて入門、1967年に独立し、木彫りを制作、1989年からグループ展や個展を開き、現在、木彫グループ「刀魂会」を主宰している。

牧宥恵さんは1950年富山県新湊市生まれ、日本大学芸術学部を中退、美学校細密画工房を経て、図鑑などの細密画を制作、1975年にインドにわたり、「仏教」を独学、仏画を独習した。1977年に京都の真言宗智山派で出家、得度し、1978年に和歌山の根来寺境内に画房を構え、伝統仏画と三昧画を制作、1990年に「牧宥恵仏画工房」(和歌山県岩出市根来2284-2)を設立、1993年に「西遊舎」を設立している。

丸山寿美さんは1936年兵庫県神戸市生まれ、1988年に奈良シルクロード博に出展し、1989年に兵庫県県民アートギャラリーで「四国八十八ヶ所・水墨仏画展」を開催し、全国拓本展に出展し、奈良NHK賞を受賞、その後、百貨店などで個展を開き、2003年に銀座に「アトリエことほぎ」を開設し、信州善光寺資料館に作品が常設展示され、「ことほぎ仏教美術塾」を主宰している。

北村光一さんは1944年東京都生まれ、1967年に一橋大学社会学部を卒業、三菱金属(現三菱マテリアル)に入社、宮城県細倉鉱山に配属、労務管理を担当、1990年から1995年まで日本経営者団体連盟(日経連)へ出向、1996年から1998年までインドネシア銅製錬に勤務、1998年に三菱マテリアル取締役に就任した。

2000年に同社執行役員、2006年に三菱マテリアル副社長を退職、三菱アルミニウム社長を経て、2008年から2009年まで三菱原子燃料社長を務めた。高校時代から奈良を中心に古寺、仏像などを鑑賞行脚し、30歳頃より年賀状用に仏像版画の制作をはじめ、2001年から2009年までに東京都美術館・日本版画会展連続8回入賞、2003年から個展を開き、現在、日本版画会準会員。

2月4日13時30分から駒沢聖刀さんによる体験教室「木端仏を彫る」を開催する。定員は10人で、参加は無料。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。入場は無料。

丸善日本橋で駒沢聖刀、牧宥恵、丸山寿美、北村光一「仏」展

【銀座新聞ニュース=2012年1月30日】丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、 03-6214-2001)は2月1日から2月7日まで3階ギャラリーで駒沢聖刀さん、牧宥恵さん、丸山寿美さん、北村光一さんによる「やさしい仏さま展」を開催する。

木彫りの仏を制作し、「駒沢木彫工芸研究所」(広島市安佐北区口田南六丁目8-21-18、082-842-7532)を主催し、自然の木の形や色を活かした「丸木仏(まるきぶつ)」、端材や角材にならない木を利用した「木端仏(こっぱぶつ)」などを制作している駒沢聖刀(こまざわ・せいとう)さん、「やはり、仏教はいい」と考えながら、自由に遊ぶ仏の絵と言葉を1枚のキャンパスに表現した三昧画を中心に描いている画僧の牧宥恵(まき・ゆうけい)さん。

「ことほぎの御仏」を描く仏教美術画家の丸山寿美(まるやま・ひさみ)さん、奈良に伝わる如来や菩薩などと円空仏を表現した「木版仏画」家の北村光一(たむら・こういち)さんが作品を展示する。

駒沢聖刀さんは「守り本尊を彫ろう」や「新装版 板に彫るやさしい仏さま」などを、牧宥恵さんは「心のほぐし絵 楽に楽に」や「心のほぐし絵 そばにいるよ」、丸山寿美さんは「天地をことほぐ」を、北村光一さんは「やさしい仏像の木版画」を日貿出版社からそれぞれ刊行しており、日貿出版社と協力して今回の展示会を開く。

駒沢聖刀さんは1943年広島県呉市生まれ、1960年に扇山実(おうぎやま・みのる)さん、堀野源蔵(ほりの・げんぞう)さんに木彫りについて入門、1967年に独立し、木彫りを制作、1989年からグループ展や個展を開き、現在、木彫グループ「刀魂会」を主宰している。

牧宥恵さんは1950年富山県新湊市生まれ、日本大学芸術学部を中退、美学校細密画工房を経て、図鑑などの細密画を制作、1975年にインドにわたり、「仏教」を独学、仏画を独習した。1977年に京都の真言宗智山派で出家、得度し、1978年に和歌山の根来寺境内に画房を構え、伝統仏画と三昧画を制作、1990年に「牧宥恵仏画工房」(和歌山県岩出市根来2284-2)を設立、1993年に「西遊舎」を設立している。

丸山寿美さんは1936年兵庫県神戸市生まれ、1988年に奈良シルクロード博に出展し、1989年に兵庫県県民アートギャラリーで「四国八十八ヶ所・水墨仏画展」を開催し、全国拓本展に出展し、奈良NHK賞を受賞、その後、百貨店などで個展を開き、2003年に銀座に「アトリエことほぎ」を開設し、信州善光寺資料館に作品が常設展示され、「ことほぎ仏教美術塾」を主宰している。

北村光一さんは1944年東京都生まれ、1967年に一橋大学社会学部を卒業、三菱金属(現三菱マテリアル)に入社、宮城県細倉鉱山に配属、労務管理を担当、1990年から1995年まで日本経営者団体連盟(日経連)へ出向、1996年から1998年までインドネシア銅製錬に勤務、1998年に三菱マテリアル取締役に就任した。

2000年に同社執行役員、2006年に三菱マテリアル副社長を退職、三菱アルミニウム社長を経て、2008年から2009年まで三菱原子燃料社長を務めた。高校時代から奈良を中心に古寺、仏像などを鑑賞行脚し、30歳頃より年賀状用に仏像版画の制作をはじめ、2001年から2009年までに東京都美術館・日本版画会展連続8回入賞、2003年から個展を開き、現在、日本版画会準会員。

2月4日13時30分から駒沢聖刀さんによる体験教室「木端仏を彫る」を開催する。定員は10人で、参加は無料。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。入場は無料。