志門で武蔵野美大OB展、内田信、松林彩子ら10人

【銀座新聞ニュース=2019年9月30日】ギャルリー志門(中央区銀座6-13-7、新保ビル、03-3541-2511)は9月30日から10月5日まで武蔵野美術大学OBによる「M-M31展-230万光年の彼方へ」を開いている。

ギャルリー志門で10月5日まで開かれている武蔵野美術大学OBの「M-M31展-230万光年の彼方へ」のフライヤー。

武蔵野美術大学(小平市小川町1-736)OBで、画家として活動している作家たちが新作を中心に作品を展示している。

出品者はイトウジュンさん、池田(いけだ)しょうさん、内田信(うちだ・しん)さん、清水洋子(しみず・ようこ)さん、竹内和彦(たけうち・かずひこ)さん。

田鶴浜洋一郎(たつるはま・よういちろう)さん、土屋恭子(つちや・きょうこ)さん、広光芳江(ひろみつ・よしえ)さん、松林彩子(まつばやし・さいこ)さんの9人。また、前学長の甲田洋二(こうだ・ようじ)さんが賛助出品している。

武蔵野美術大学は1929年に東京・吉祥寺に「帝国美術学校」として開校されたのがはじまりで、1935年に創立者兼初代校長の北昤吉(きた・れいきち、1885-1961)と学生が学校の運営と移転問題をめぐって対立し、学生のストライキ事件(同盟休校事件)を期に学校が分裂し、北昤吉は多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)を創設した。

1947年に「造型美術学園」と校名変更、1948年に「武蔵野美術学校」と改称され、1957年に学校法人「武蔵野美術学校」が認可され、1961年に鷹の台校(現鷹の台キャンパス)を開設、1962年に学校法人「武蔵野美術学校」を学校法人「武蔵野美術大学」に改称し、武蔵野美術大学を開設、1969年に鷹の台校に全学を統合し、「武蔵野美術学園」を開設している。

1973年に大学院造形研究科(修士課程)を開設、1988年に武蔵野美術短期大学を「武蔵野美術大学短期大学部」に校名を変更し、2001年にTAC(多摩アカデミックコンソーシアム)として、多摩地区の4大学(国立音楽大学、国際基督教大学、東京経済大学、津田塾大学)と単位互換制度を実施し、早稲田大学とも単位互換制度を締結した。

2002年に造形学部通信教育課程(4年制、本部は武蔵野市吉祥寺東町3-3-7)が開設され、2003年に武蔵野美術大学短期大学部を廃止され、2004年に大学院造形研究科に造形芸術専攻(博士後期課程)を開設、20178年3月に武蔵野美術学園が廃校された。

現在、大学の学部では、造形学部と造形構想学部、造形学部通信教育課程があり、大学院には造形研究科と造形構想研究がある。

開場時間は11時から19時(最終日は17時)まで。

注:「田鶴浜洋一郎」と「広光芳江」の「浜」と「広」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。

丸善日本橋で伊勢崎一門「備前焼」展、陽山らと子孫、山下譲治らも

【銀座新聞ニュース=2019年9月30日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は10月1日から8日まで3階ギャラリー特設会場で「第3回丸善備前焼展-伊勢崎一門の世界」を開く。

丸善・日本橋店で10月1日から8日まで開かれる「第3回丸善備前焼展-伊勢崎一門の世界」に出品する陶芸家の一覧と作品。

1000年の歴史をもつ備前焼(びぜんやき)の陶芸家で、岡山県重要無形文化財保持者に認定された伊勢崎陽山(いせざき・ようざん、1902-1961)、その長男で岡山県重要無形文化財に認定された伊勢崎満(いせざき・みつる、1934-2011)、次男で伊勢崎満の弟となる陶芸家で、2004年に国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された伊勢崎淳(いせざき・じゅん、1936年生まれ)さんらの伊勢崎一門21人の作品のほか、茶道具、花器、書、掛け軸などを展示販売する。

備前焼は、2017年4月29日に越前焼、瀬戸焼、常滑焼、信楽焼、丹羽立杭焼とともに、正式に日本六古窯が「きっと恋する六古窯-日本生まれ日本育ちのやきもの産地」として「日本遺産」に認定されている。

今回、出品するのは、伊勢崎陽山、満、淳さんのほか、満の4人の子息、卓(たく、1963年生まれ)さん、紳(しん、1965年生まれ)さん、創(そう、1969年生まれ)さん、競(きょう、1970年生まれ)さんと淳さんの長男、晃一朗(こういちろう、1974年生まれ)さん、紳さんの長男、陽太郎(ようたろう、1995年生まれ)さん、次男、寛太郎(かんたろう、1998年生まれ)さん、競さんの長男、州(しゅう、1996年生まれ)さん。

同じく出品する陶芸家の一覧と作品、来場予定。

伊勢崎一門の柴岡紘一(しばおか・こういち、1941年生まれ)さん、斉藤隆(さいとう・たかし、1948年生まれ)さん、隠崎隆一(かくれざき・りゅういち、1950年生まれ)さん、山下譲治(やました・じょうじ、1947年生まれ)さん、安田裕康(やすだ・ひろやす、1970年生まれ)さん。

山下譲治さんの子息、山下有仁(やました・ゆうじん、1978年生まれ)さん、佐々木剛(ささき・つよし、1978年生まれ)さん、寺園証太(てらぞの・しょうた、1972年生まれ)さん、滝川卓馬(たきがわ・たくま、1977年生まれ)さん、金光教悟(かねみつ・きょうご、1981年生まれ)さん。

ウイキペディアによると、備前焼は岡山県備前市周辺を産地とする陶器で、瀬戸焼(愛知県瀬戸市)、常滑焼(愛知県常滑市)、越前焼(福井県丹生郡越前町)、信楽焼(滋賀県甲賀市)、丹波立杭焼(兵庫県篠山市今田町立杭)と並んで「六古窯(ろっこよう)」のひとつに数えられる。2017年4月29日に備前焼は越前焼、瀬戸焼、常滑焼、信楽焼、丹羽立杭焼とともに、正式に日本六古窯として「日本遺産」(2015年度に創設)に認定された。

同じく出品する陶芸家の一覧と作品、来場予定と販売される盆栽。

備前市伊部地区で盛んであることから「伊部焼(いんべやき)」という呼び方もある。平安時代に作られた須恵器(すえき、古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器のこと)から発展し、鎌倉時代初期には還元焔焼成(かんげんえんしょうせい、炭素が多く酸素の欠乏した不完全燃焼の火焔で焼成すること)による焼き締め陶が焼かれる。

鎌倉時代後期には酸化焔焼成(さんかえんしょうせい、窯内に多く酸素を供給し、完全燃焼の火焔で焼成すること)による現在の茶褐色の陶器が焼かれる。当時は水瓶やすり鉢など実用本位のものが多く、「落としても壊れない」といわれ、当時の作品は「古備前」と呼ばれて珍重されている。

室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶として人気が高まるが、江戸時代には茶道の衰退とともに、安価で大量生産が可能な磁器も出てきて衰え、備前焼は再び水瓶やすり鉢、酒徳利など実用品の生産に戻っている。

明治、大正期に入ってもその傾向は変わらなかったが、昭和に入り、金重陶陽(かねしげ・とうよう、1896-1967)らが桃山陶への回帰をはかり芸術性を高めて人気を復興させる。金重陶陽は重要無形文化財「備前焼」の保持者(人間国宝)に認定され、弟子達の中からも人間国宝を輩出し、備前焼の人気は不動のものとなった。

ゆう薬を使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた赤みの強い味わいや、「窯変」によって生み出されるため、同じ模様にはならないのが特徴とされている。現在は茶器、酒器、皿などが主に生産されている。

また、今回も、「ボンサイ(Bonsai)屋 粋-iki」を主宰する小林晶(こばやし・あきら)さんが備前焼の鉢を使って制作した盆栽を販売する。

会期中、出品者が順次、会場に来場する。予定は画像の一覧を参照。

開場時間は9時30分(初日は14時)から20時30分(最終日15時)まで。

注:「伊勢崎」の「崎」は正しくは右側のつくりの「大」は「立」です。

注:「斉藤隆」の「斉」と「滝川卓馬」の「滝」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。

立川銀座で今野文雄が家庭向けデザイン展

【銀座新聞ニュース=2019年9月29日】ブラインドの最大手、立川ブラインド工業(港区三田3-1-12、03-5484-6100)は10月2日から13日まで銀座ショールーム(中央区銀座8-8-15、03-3571-1373)地下1階「タチカワ銀座スペースAtte」で今野文雄さんによる「世界に発信する『テキスタイルデザイン展』」を開く。

立川ブラインドの銀座ショールームで10月2日から13日まで開かれる今野文雄さんの「世界に発信する『テキスタイルデザイン展』」のフライヤー。

「コンノ・デザイン・スタジオ(KONNO DESIGN STUDIO)」代表で、一般社団法人「日本テキスタイルデザイン協会(TDA)」(中央区日本橋富沢町12−7、第3篠原ビル、03-5643-6623)理事長、テキスタイルデザイナーの今野文雄(こんの・ふみお)さんが手掛けるホームファッションブランド「ミニマイニモ(minimynimo)」と「FKデザイン・アート・ワーク・バイ・コンノ(designs art work by konno)」を、日本から世界に向けて発信する企画展で、長年のテーマとしてきた「自然」を題材に制作したテキスタイルデザインコレクションの中から100点(それぞれのブランド50点ずつ)を選び、原画と映像(スライド投影)を織り交ぜて紹介する。

今野文雄さんは多摩美術大学染織デザイン科を卒業、大西憲治郎(おおにし・けんじろう)テキスタイルデザイン研究室を経て、1985年にインテリア、ホームテキスタイル業界をメインにテキスタイルデザイン会社「コンノ・デザイン・スタジオ(KONNO DESIGN STUDIO)」を設立、インテリアデザインジャーナリストとしてヨーロッパの展示会を長年取材する他、2004年にライフスタイル提案型ホームファッションブランド「ミニマイニモ(minimynimo)」をメーカーと立ち上げ、大塚テキスタイルデザイン専門学校、武蔵野美術大学(1989年から2002年)、多摩美術大学(1993年から)の講師も務めている。

開場時間は10時から18時(最終日は15時)。入場は無料。7日は休み。

丸善丸の内で慶応図書館「西洋中世写本」展、ラテン語聖書、キケロ対話集等

【銀座新聞ニュース=2019年9月29日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ、03-5288-8881)は10月2日から8日まで4階ギャラリーで「第31回慶応義塾図書館貴重書展示会『究極の質感(マテリアリティ)-西洋中世写本の輝き」を開く。

丸善・丸の内本店で10月2日から8日まで開かれる「第31回慶応義塾図書館貴重書展示会『究極の質感(マテリアリティ)-西洋中世写本の輝き」のフライヤー。

「慶応義塾図書館貴重書展示会」は、慶応義塾図書館が所蔵する数ある貴重書を各回テーマに沿って展示し、通常は閲覧が制限される貴重書を無料公開している。

今回は、西洋の書物は、ドイツの金細工師、印刷業者のグーテンベルク(Johannes Gutenberg、1398頃-1468)以前の中世において、すでにひとつの完成に達していたことを示す手書き写本などを紹介する。

羊皮紙(動物の皮を加工して筆写の材料としたもの、英語ではパーチメント=parchment)に羽ペンで写字され、さまざまな顔料や金で彩飾された写本は、美しくも実用的な書物文化を作り上げてきた。手書き写本ならではの質感を見ることができる。

主な展示資料は「ラテン語聖書」(フランス、13世紀中葉、羊皮紙零葉=れいよう=一部のページのみの不完な状態になったものをいう)で、旧約聖書続編「マカバイ記1」の零葉で、慶応義塾図書館では、「冒頭は11行分の高さの物語イニシャル『C』で始まっていて、文字の中に槍を持って突撃する、甲冑に身を固めた中世の騎士の姿が描かれている」。

このさし絵は、「ユダヤの独立戦争を指揮した紀元前2世紀の英雄で、中世では、騎士道精神を完璧に体現した『九偉人』 (Nine Worthies)のひとりに数えられていたユダ・マカバイ(Yehudah ha-Makabi、?-BC160)の姿を描いたもので、物語中の描写に対応していると思われる。こうした物語イニシャルは本文への視覚的導入の役割を果たしていると言える」と説明している。

また、「ラテン語時祷書(じとうしょ=中世装飾写本)」(南ネーデルランド、15世紀中期、羊皮紙)はエリザベス1世(lizabeth 1、1533-1603)の侍女が所有していた時祷書で、本写本は「フィトン時祷書」として知られ、15世紀中頃に南ネーデルランド地方(おそらくブルージュ)で制作された。

15世紀から16世紀初期のネーデルランドでは、時祷書をはじめとする彩飾写本が盛んに制作され、それらは外国にも輸出されていた。本写本の典礼方式はイングランドの教会で広く採用されていたソールズベリ式で、このことから、この写本がイングランドに輸出されるべく制作されたことがわかる。本書には、エリザベス1世に侍従・侍女として仕えていた3人の人物の署名が、合計4カ所に見いだされ、所有者の変遷が推察され、興味深い、としている。

アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354-430)「主と使徒の言葉」(イングランド、12世紀、写本断片)は7世紀後半に北イタリアで編さんされたアウグスティヌスの説教集で、本写本は後期のロマネスク体で書かれている。

現在では後半に属する32葉しか残ってないし、表表紙が外れて装丁がむき出しになっている。装丁は中世のもので、ヨークシャーのファウンテンズのシトー会修道院で制作された写本に類例が見られる。句読法もシトー会の写本の典型で、この大型の写本が公衆への朗読に使用されたことを示している」としている。

「ホプトン・ホール写本(中英語宗教文学アンソロジー)」(ノーフォーク、15世紀前半、羊皮紙)は、中英語で書かれた宗教散文および韻文のアンソロジーで、名称の由来は、本写本が1986年まで長らくイングランドのダービー州南部に位置する、ゲル(Gell)一族の住居であったホプトン・ホール(Hopeton Hall)に所蔵されていたためである。

この写本は「平信徒のための教理問答」(Lay Folk’s Catechism)や「精霊の修道院の憲章」(The Charter of the Abbey of the Holy Ghost)などで構成され、全体を通じて、聖書や教父からの引用や抜粋が多く認められる。このように全編が英語の写本が市場に現れることは現在では極めて珍しい。

キケロ(Marcus Tullius Cicero、BC106-BC43)「善と悪の究極について」(フィレンツェ、1450年から1460年頃、羊皮紙)はキケロの最晩年の哲学的対話編で、倫理学の原理を扱った「善と悪の究極について」の写本。

巻頭ページの装飾は15世紀後半にフィレンツェで活躍し、メディチ家のために多くの写本装飾を手がけたフランチェスコ・ダントニオ・デル・ケリコ(Francesco d’Antonio del Cherico、1433-1484)の様式で、本文の余白には15世紀を代表するヒューマニストのジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ (Giorgio Antonio Vespucci、1434-1514)による自筆の書き込みが見られ、イタリア・ルネサンスの古典研究の姿を伝える一級資料としている。

ウイキペディアによると、「マカバイ記」は、ヘレニズム時代のユダヤの歴史を描く歴史書の1つで、「マカバイ記」は教派によって扱いに違いがある。ユダヤ教とプロテスタントでは外典として扱い、カトリック教会では1と2を正典(第二正典)に収め、正教会では1と2に加えて3までも正典に収めている。

マカバイ記1ではアレクサンドロス3世の東征に始まり、ハスモン朝の支配が確立されるまでの歴史をマカバイ戦争を中心に描いている。そのなかで異邦人に汚されたエルサレム神殿がふたたび清められたことが「ハヌカ祭」のおこりであると述べている。

マカバイ記2ではエジプトのユダヤ人へハヌカ祭を祝うよう薦める書簡から始まり、ユダヤに対する迫害とそれに対抗する宗教的情熱、ユダ・マカバイの活躍が描かれている。

マカバイ記3は、内容的にはマカバイ戦争とはなんの関連もない。プトレマイオス朝エジプトを舞台に、エルサレム神殿に入ることができなかったことに憤慨した王が、アレクサンドリアのユダヤ人を集めて虐殺しようとするが、神の力によってユダヤ人が助けられるという内容である。

マカバイ記4は歴史書というより思想書であり、理性と感情の問題が哲学的に扱われる。その議論の中で、マカバイ記2に登場する殉教者たちが引き合いに出されている。一時このマカバイ記4の著者が「ユダヤ戦記」や「ユダヤ古代誌」などを書いたフラウィウス・ヨセフスだという説が流れていたため、16世紀に印刷されたラテン語のヨセフス全集に、これが「殉教物語」の名義で入っていたことがある。

慶応義塾図書館は1907年に慶応義塾創立50周年を迎えた記念事業として1908年に起工され、1912年に竣工された。設計は曽祢中條(そねなかじょう)建築事務所、施工は戸田組で、1969年に国の重要文化財に指定された。1981年に新図書館が完成したのに伴い、本館は記念図書館、研究図書館として改修再生され、現在、旧館には福沢研究センター、斯道文庫(しどうぶんこ)、泉鏡花(いずみ・きょうか)展示室、大会議室、小会議室がある。

4日18時と6日15時から慶応義塾大学文学部教授の松田隆美(まつだ・たかみ)さんによるギャラリートークを開く。

松田隆美さんは1958年生まれ、1979年に国際基督教大学教養学部人文科を卒業、1982年に慶応義塾大学大学院文学研究科修士課程を修了、1986年に同大学大学院文学研究科博士課程単位取得後に退学、1991年にヨーク大学大学院博士課程を修了、1995年にヨーク大学文学博士を取得している。1986年に慶大文学部助手、1990年に助教授、1998年に教授。

5日13時から「羊皮紙工房」を主宰する八木健治(やぎ・けんじ)さんが「中世の紙『羊皮紙』のおはなし」と題して、解説する。

また、15時から八木健治さんが「羊皮紙に羽ペンで書いてみよう」と題したワークショップを開く。

八木健治さんは上智大学大学院を修了後、「羊皮紙工房」を主宰している。

6日13時から実践女子大学美学美術史学科教授の駒田亜紀子(こまだ・あきこ)さんが「西洋中世写本彩飾のマテリアリティ:彩飾の語る写本の“ヒストリー“」と題して、中世の写本の質感について解説する。

駒田亜紀子さんは1988年に名古屋大学文学部哲学科美学美術史専攻を卒業、1995年に同大学大学院文学研究科博士後期課程(美学美術史専攻)を修了、この間、1992年にパリ第4大学(ソルボンヌ)大学院博士後期課程を修了(2000年まで)、高知大学准教授を経て、2008年に実践女子大学准教授、2017年より教授。

開場時間は9時から21時(最終日は16時)。入場は無料。

注:「慶応」の「応」と「ローマ式典礼の時祷書」の「祷」は正しくは旧漢字です。名詞は原則として常用漢字を使用しています。

NUKAGAで、藤田嗣治「ヌード」展、「バラ」も

【銀座新聞ニュース=2019年9月28日】NUKAGA GALLERY(中央区銀座2-3-2、03-5524-5544)は9月26日から10月11日まで、藤田嗣治による「Nude」を開いている。

ぬかがギャラリー(NUKAGA GALLERY)で10月11日まで開かれている藤田嗣治の「ヌード(Nude)」に展示されている「横たわる裸婦(ユキ)」(1924年)。

レオナール・フジタと称し、フランス・パリで活躍した藤田嗣治(ふじた・つぐはる、1886-1968)が1920年代から1930年代前半に描いた裸婦像を中心に、同時代に描かれた静物画やデッサンを展示している。親友であったモディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884-1920)の死以降、その遺志を継ぐように裸婦を描き始め、1921年に開かれた第14回サロン・ドートンヌに大判の横たわる裸婦像を出品した。

後に「素晴らしき乳白色」と称えられる独特の白色下地に、鈴木春信(すずき・はるのぶ、1725-1770)や喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ、1753?-1806)らの浮世絵から発想を得た「黒く繊細な輪郭線で描かれた裸婦像はパリの観衆から絶賛され、以降、種々のサロンへの出品、画廊での展覧会を通してその名声を確立して」(ぬかがギャラリー=NUKAGA GALLERY)いった、としている。

同じく展示されている「横たわる裸婦(マドレーヌ)」(1932年)。

今回の出品作品「長い髪のユキ」(1923年)や「横たわる裸婦(ユキ)」(1924年)は、まさに藤田嗣治がこの真新しい技法でパリ画壇の寵児に上り詰める絶頂期の作品になる。モデルは藤田嗣治がその美しく雪のように白い肌から「ユキ」と呼んだ、3番目の妻リュシー・バドゥ(Lucie Badoud、1903-1966?)。

「横たわる裸婦(マドレーヌ)」(1932年)では、1930年代を通して藤田嗣治のミューズであったマドレーヌ・ルクー(Madeleine Lequeux、1906-1936)のしなやかな肢体が、伝統的な横たわる裸婦の構図で描かれている。

これらの裸婦像と同時に、本展では藤田嗣治の静物画の代表作「バラ」(1922年)、「マッチ箱のある静物」(1923年)も展示している。花瓶やその下に敷かれた「ジュイ布」、そしてマッチ箱といったパリ市民の身近な日常生活にあるものを、あるいはヨーロッパ絵画の伝統的主題である裸婦像を、乳白色の下地と墨を用いた細い輪郭線という西洋美術の文脈にない独自の様式で描き、新奇な質感とモノの見え方を藤田嗣治は提示した。

「やわらかい、押せばへこむやうな皮膚を通して画のもつとも重大な条件である『質』をかくことにした」と自身が述べたように、藤田嗣治が絵画に求めたものは、色彩でもモノの形態でもない、「質」という。ぬかがギャラリーでは、「本展では1920年代から1930年代前半にかけて、藤田が芸術の都パリで独自の技法と表現を確立し、新たな絵画言語を構築した時代の作品に集中して展示することにより、藤田が追求した『質』を見つめ直します」としている。

ウイキペディアなどによると、藤田嗣治は1886年東京都生まれ、1910年に東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科を卒業、1913年にフランスへわたり、パリのモンパルナスに住み、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)らと交遊し、1917年に初めての個展を開催、1919年に「サロン・ドートンヌ」に初入選し、会員に推挙され、1925年にベルギーのレオポルド勲章を受勲した。

1931年にパリを離れ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビアを訪ね、メキシコを経由してアメリカへわたった。1933年に帰国、1934年に二科会会員となり、1938年から1年間従軍画家として中国大陸にわたり、1939年に日本に帰国した。その後、パリへ戻るが、第2次世界大戦が勃発し、1940年にドイツに占領される直前パリを離れ、再度日本に帰国した。

帰国後は戦争画を制作し、敗戦後の1949年にニューヨークのブルックリン美術館付属美術館の教授として招かれた。1950年にパリへ移り、1955年にフランス国籍を取得、その後、日本国籍を抹消し、1957年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を授与された。1968年1月29日にスイスのチューリヒでガンのため81歳で死去、遺体はパリ郊外のヴィリエ・ル・バクルに葬られ、 死後に日本政府から勲1等瑞宝章が授与された。

1935年に一時帰国した際に藤田君代(ふじた・きみよ、1911-2009)と出会い、1936年に3度目の結婚(過去2人はフランス人でいずれも離婚)をし、1939年にパリに戻り、1940年に帰国し、戦争画を「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」(藤田嗣治)が、戦後それをもとに戦争協力を批判され、パリに戻った後、フランス国籍を取得し、1959年から夫婦で洗礼を受け、「レオナール・フジタ」と名乗り、2度と帰国しなかった。

藤田君代はその後、パリ郊外の旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館したが、日本で「正しく評価しない以上、忘れてほしい」と出版物の刊行などを一切拒否してきた。近年、藤田君代監修で画集が発売されたり、2006年に国立近代美術館で戦争画が展示されたりしている。産経新聞2009年4月25日号によると、4月2日に東京で死去した藤田君代の遺骨はフランスのランスにあるレオナール・フジタが眠るフジタ礼拝堂に埋葬された。
開場時間は10時から18時。入場は無料。日曜日は休み。