インドで感染者数が100万人突破、ネスカフェが消えた(29)

【モハンティ三智江のインド発コロナ観戦記=2020年7月24日】7日17日、感染者数がついに100万人を越えた(死者数2万5602人)。予想していたこととはいえ、今月半ば過ぎでミリオンとは、驚くべきスピードで、前日に既に1日の感染者数は2万8000人以上と、ブラジルを抜いて、アメリカに次ぐ世界第2位となった。

雨季の晴れ間のベンガル海は、色も青みを増して壮麗、無人に等しい浜を独り占めして、既に高い陽射しを避けて、西に向かって歩いた。

1日の感染者数は3万人近く、まこと天井知らずで、この勢いでいくと、末には、150万人台、来月になっても、感染拡大が止まらなければ、ブラジルを抜いてしまうかもしれない。

何せ、13億人以上の膨大な人口、比率からいっても、ゆくゆくアメリカを抜いて世界ワーストになってもちっともおかしくない。確かに回復率は世界平均に比べ高いし、致死率も低いのだが、現状では、陽性率に回復率が追いつかず、どんどん増えていっている。

当オディシャ州(Odisha)も、1万6110人(死者数83人)、ただし、回復率は73%近くと(陽性者5124人)、ピークはこれからといえ、まだ希望が持てる。 しかし、州政府は17日の21時から31日真夜中まで2週間の完全封鎖を、感染拡大中のガンジャム(Ganjam)、コロダ(Khordha)、カタック(Cuttack)、ジャイプール(Jaipur)、ラウケラ(Rourkela)のレッドゾーン5地方に発令、警戒を強めている。なお、グリーンゾーンのプリー(Puri)地方の陽性者は86人(死者数2人)である。

インドではポピュラーでおなじみのネスカフェ。ロックダウン下、瓶入り(クラシック)が入手不可になって、1回飲みきりの小袋(サンライズ)をまとめて買って代用しているが、使い勝手が悪い上、味も落ちる。

インド全土拡大に歯止めがかからず、過去2カ月以上に及んだあの厳格なロックダウン(都市封鎖)は一体何だったのかと首を傾げたくもなるが、少なくとも病床数を増やしたりの医療体制を整えるための時間稼ぎはできたわけで、早期の全土封鎖に踏み切らなければ、ミリオン突破はあれよあれよで始末に負えない事態になっていただろう。

●コロナ余話/コロナ下の物資不足

ロックダウン118日目に入り、当地プリーでは、インドでも著名なインスタントコーヒー・ブランド、「ネスカフェ」の瓶入りが入手不可になった。代用に、1回で飲みきりの小袋入りを利用しているが、不便だ。

他にも、トイレットペーパーが手に入らず、ティッシュで代用していたが、先般久々にロールペーパーにお目見えした。

ロックダウン下トイレットペーパーが不足し、ティッシュペーパーで代用していたが、最近やっと入手できた。現地では、排泄後の処理方式は水なので、ロールペーパーは外国人用か、ナプキン代わりに使われる。

南隣のアンドラプラデシュ州(Andhra Pradesh)からの搬入品もある他、州都経由の品々も多いので、長期のロックダウン下の影響は日常生活にも出始めている。

●身辺こぼれ話/爽快な朝のベンガル海

昨朝、雨で日課の散歩に出れなかったので、今朝は勇んで浜に出かけたが、雨雲がだいぶ吹き払われ、西側は青空が覗いていた。爽やかな蒼穹に、ここしばらくの体調不良も払われるようで、ほっと息をつく心地だった。

コロナ前は日没時の散歩主体だったが、朝の海は清々しく、ロックダウン下1日を心地よく始めるには願ってもない儀式となりそうだ。

(「インド発コロナ観戦記」は「観戦(感染)記」という意味で、インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いており、随時、掲載します。モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、感染していません。

また、息子はラッパーとしては、インドを代表するスターです。13億人超と中国に次ぐ世界第2位の人口大国、インド政府は3月24日に全28州と直轄領などを対象に、完全封鎖命令を発令し、25日0時から21日間、完全封鎖し、4月14日に5月3日まで延長し、5月1日に17日まで再延長、17日に5月31日まで延長し、31日をもって解除しました。これにより延べ67日間となりました。ただし、5月4日から段階的に制限を緩和しています。

7月22日現在、インドの感染者数は119万3078人、死亡者数が2万8732人、回復者が75万3050人、アメリカ、ブラジルに次いで3位になっています。州別の最新の数字の把握が難しく、著者の原稿のままを載せています。また、インドでは3月25日から4月14日までを「ロックダウン1.0」とし、4月14日から5月3日までを「ロックダウン2.0」、5月1日から17日までを「ロックダウン3.0」、18日から31日を「ロックダウン4.0」、6月1日から6月末まで「アンロックダウン(Unlockdown)1.0」、7月1日から「アンロックダウン2.0」と分類していますが、原稿では日本向けなので、すべてを「ロックダウン/アンロックダウン」と総称しています。

ただし、インド政府は5月30日に感染状況が深刻な封じ込めゾーンについては、6月30日までのロックダウンの延長を決め、さらに30日に7月31日までの延長を決めました。著者が住むオディシャ州は独自に6月末までの延長を決め、その後も期限を決めずに延長しています。この政府の延長を「ロックダウン5.0」と分類しています。また、タージ・マハルも開放する方針を撤回して、引き続き閉鎖されています)

マイナビが東急プラザ銀座屋上にビアガーデン、1日10組

【銀座新聞ニュース=2020年7月27日】人材派遣や人材紹介などの人材広告企業、マイナビ(千代田区一ツ橋1-1-1、パレスサイドビルディング)の100%出資の子会社で、飲食店を展開するマイナビリテイリング(千代田区一ツ橋1-1-1、パレスサイドビル、03-6267-4191)は7月28日から東急プラザ銀座(中央区銀座5-2-1、080-4622-9526)の屋上にビアガーデン「MOET&CHANDON PoolSide SkyTerrace-TOKYU PLAZA GINZA-Produced by Mynavi Retailing」を開店する。

7月28日から期間限定で東急プラザ銀座屋上のテラス席に開店される「モエエシャンドン・プールサイド・スカイテラス・東急プラザ銀座・プロデュース・バイ・マイナビリテイリング」(MOET&CHANDON PoolSide SkyTerrace-TOKYU PLAZA GINZA-Produced by Mynavi Retailing)。1日10組限定で提供される。

新型コロナウイルスの感染の拡大に伴い、本格的な夏を楽しむイベントが相次ぎ中止になっている中、安心安全、感染防止対策を徹底しながら東京を盛り上げたいということから、東急プラザ銀座の屋上にビアガーデンを開店する。

今回は、テラス席に限定し、来場者を1日10組に制限し、検温やスタッフのマスク着用、アルコール消毒を全席に設置し、安全な距離を取れる席の配置という感染防止対策を施したうえで店を運営する。

120分飲み放題コース(1人税込9000円)で、メニューはモエエシャンドンミニボトル1本、チーズの盛り合わせ、生ハムとメロン、ソーセージ3種盛り合わせ、はだのふぁーむ( 神奈川県秦野市戸川594、0463-80-6401)産直野菜のバーニャカウダ、帆立貝と玉ねぎのスープ、大海老のタブーレ、仔羊背肉のロースト、フルーツのシャーベット(スイカ、メロン、白桃、バナナ)になっている。

飲み放題は生ビール、ハイボール、レモンサワー、グラスワイン(赤、白)、焼酎(麦、芋)、コーラ、ウーロン茶、オレンジジュース、グレープフルーツジュース。

皿などの食器は竹とサトウキビの繊維で作った紙の器「ワサラ(WASARA)」を使用しており、「ワサラ」は埋めると90日で堆肥化される。

営業時間は17時から22時。料金は120分飲み放題コース、1人税込9000円。

丸善日本橋で静岡の工芸展、駿・遠・豆州の流れ、竹千筋細工等

【銀座新聞ニュース=2020年7月26日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(東京都中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は7月29日から8月11日まで3階ギャラリー特設会場で「静岡県郷土工芸品振興会」(静岡県静岡市葵区五番町3-11、054-252-4924)による「『ふじのくに』に伝わる匠の技 静岡県の郷土工芸展」を開く。

丸善・日本橋店で7月29日から8月11日まで開かれる「『ふじのくに』に伝わる匠の技 静岡県の郷土工芸展」のフライヤー。

「静岡県郷土工芸品振興会」(静岡県静岡市葵区五番町3-11、054-252-4924)が静岡県に点在する工芸品をまとめて展示販売する。7月29日から8月4日が「駿河和染(するがわぞめ)」(静岡市染色業組合・静岡県静岡市葵区川越町4-19、054-252-6092)、「駿河塗下駄」(静岡塗下駄工業組合・静岡県静岡市葵区清閑町9-22、054-253-4917)、「森山焼(もりやまやき)」。

5日から11日が「駿河竹千筋細工(するが・たけせんすじ・ざいく)」(静岡竹工芸協同組合・静岡県静岡市葵区五番町3-11、054-252-4924)、「駿河漆器(するがしっき)」(静岡漆器工業協同組合・静岡県静岡市葵区田町7-71、054-253-8707)、「賤機焼(しずはたやき)」(秋果陶房・静岡県静岡市葵区柳町95、054-271-2480)。

「駿河指物(するがさしもの)」(静岡木工芸組合・静岡県静岡市葵区幸町1-8、054-254-8702)、「志戸呂焼(しとろやき)」(静岡県島田市金谷)、「掛川手織葛布(かけがわ・ておりくずふ)」(掛川手織葛布組・静岡県掛川市掛川551-2、掛川商工会議所内、0537-22-5151)。

静岡県は駿州(すんしゅう、駿河国で駿府といわれた今の静岡市)、遠州(えんしゅう、遠江国=とおとうみのくに=で、現在の浜松市あたり)、豆州(ずしゅう、伊豆国で現在の沼津市付近)の3州が1871(明治4)年の廃藩置県(第1次府県統合)で足柄県の管轄になり、1876(明治9)年の第2次府県統合により、今の形の静岡県が成立した。

静岡県郷土工芸品振興会によると、駿州では、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)隠居城である駿府城に隣接する浅間(せんげん)神社造営に際し、優れた名工や図工を全国各地から招へいし、その優れた技術が今日の静岡市の伝統工芸のルーツといわれている。

また、浜松を中心とした遠州では、昔から織物産地として有名であり、その中から優れた伝統工芸織りが誕生した。現在、静岡県では自動車、楽器、家具、精密機械などの地場産業が発達しており、その温床となったのが、こうした伝統工芸であったとされている。

こうした流れを汲んで、静岡には多彩な伝統工芸品があり、優雅で雅やかな雛具、雛人形、蒔絵、漆器、自然の風合を生かした織り、染物、日常雑貨の価値を持ちつつ洗練された美しさを有する陶器、指物・各種木工芸製品など、それぞれが伝統技法にそって現在も脈々と受け継がれているとしている。

もう一つの地場産業である家具製造は、浅間神社造営の際の名工の技術を伝承したものであり、静岡県の伝統工芸品は、その作品が優れているというにとどまらす、静岡の産業のルーツでもあるという側面を持っている。

静岡県郷土工芸品振興会によると、「駿河和染」は今川時代(今川義元=いまがわ・よしもと、1519-15660=を中心とする時代)には木綿が盛んに作られ、八幡織木綿、中島紬などの織物の名もみられ、織物とならんで染色業も発達し、紺屋町ができ、型染や手描きの紋染が行われ、近郊農村では染料の藍の栽培が盛んに行われた。

江戸時代には、武家のために幟(のぼり)、旗差物(はたさしもの)、町家のためにのれん、伴天、作業衣など、また、祝儀物として筒描きによる定紋入り風呂敷などが染められ、旧安倍川の川筋に沿って多くの紺屋が繁盛したといわれている。

明治になると、交通の発達から他産地からの進出、機械染色の出現など近代化の波のなかで、紺屋の仕事も減少したが、大正後期に起こった民芸運動で、芹沢けい介(県工業試験場技師、人間国宝、せりざわ・けいすけ、1895-1984)が静岡やその他の地域に残る染色技術と芸術性の発掘に努力し、その成果が実って、新たな静岡における和染興隆の端著となった。

「駿河塗下駄」は漆塗、蒔絵という伝統的な技法によって作られており、美しい色彩とユニークなデザインがかもし出す独特の世界が最大の魅力という。明治の初期、下駄職人の本間久次郎(ほんま・きゅうじろう、1853-1909)は、大衆向けにつくられていた高下駄、吾妻下駄に漆塗りを施して売り出し、これが静岡での塗下駄の発祥となった。以来、静岡といえば塗下駄といわれるほどの盛況期を迎えた。

これにより静岡の漆器は明治から大正時代にかけて輸出漆器として名をあげたが、第一次大戦後に輸出が不振になり、このために木地、塗り、蒔絵の職人たちが製造過程の似かよった塗下駄の製造に転換し、それぞれに趣向をこらした製品づくりを競ったことが発展を促す契機ともなった。

「森山焼」は1909(明治42)年、初代中村秀吉(なかむら・しゅうきち)によって始められた焼物で、森山焼の名称は、森町森山の地名を取って命名され、遠州七窯の一つ、志戸呂焼の流れを汲み、現在4つの窯元がある。

創始者、中村秀吉は森山の土が陶器に適していることから志戸呂より初代鈴木静邨(すずき・せいとん)を招き、陶業を始めた。最初は、粗陶器(土管、水瓶など)から出発し、失敗を重ねるうちに、一般家庭用の茶器、花器、酒器、食器などの小物を焼き、1915(大正4)年、天皇即位奉祝のために花瓶と置物を献上したところ、御嘉納となり、破格の感謝状を与えられた。

その後も良器の生産に努め、各地の陶磁器展に出品し、一段と声価を高めて「森山焼」の存在を世に知らしめた。

「駿河竹千筋細工」は1840(天保11)年に岡崎の藩士、菅沼一我(すがぬま・いちが、?-1856)が静岡に立ち寄り、宿泊先「はなや」の息子、清水猪兵衛(しみず・いへえ)に技術を教えたのが始まりとされ、清水猪兵衛は多くの門弟を育て、菓子器や虫籠を作って、世間に広めたといわれている。1873(明治6)年4月にウィーンで開かれた国際博覧会に、日本の特産物として出品され、竹ひごのかもしだす繊細な雰囲気、東洋特産の竹の妙技は好評を博し、これを契機に多くの製品が海外へ輸出された。1976年に竹千筋細工は、伝統的工芸品の指定を受けた。

「駿河漆器(静岡漆器)」は書家でもあった中川梅綠(なかがわ・ばいろく)が興したといわれ、花鳥草木の図柄を用いるようになり、天保年間(1831年から1845年)には江戸より蒔絵師を招へいし、技術の向上が図られた。幕府の保護をうけて販売経路も広がり、参勤交代の大名達に好まれた。

さらに開国とともに海外へも輸出され、1867(慶応3)年4月にパリ万国博覧会に出品するなど、国内外へその名を広め、静岡の漆器は明治期には海外向けに生産され、1884年の万国博覧会では銀牌を受賞した。漆器業組合主催の漆器共進会が開かれたり、乾燥機を試験的に用いるなど生産性の向上も試みられ、1947(昭和22)年には「静岡蒔絵工業協同組合」が設立されている。

漆器が静岡に根を下ろすことになった一番の要因は、浅間神社造営で、拝殿のすべてを金銀でちりばめ、総漆塗りを施した仕事は、全国各地から漆工たちを集めて行われた。造営後も、漆作業に気候が適し、住み良いため漆工たちが定着し、技を磨く一方、広く土地の人達に漆工技術を教えたといわれている。

当時は、竹籠などに漆塗りを施した簡単な日用品だったが、技術が進むにつれ、さまざまな製品が作られるようになった。

「賤機焼」は交跡(こうし)焼といって、温度が約900度で釉薬と土との馴染みが悪く、脆かったため、製品として残るものは少なかったが、江戸時代から現在まで続くものに「鬼福」という意匠がある。

徳川家康が駿府に在城の頃、賤機山麓(現在の浅間神社のある山麓あたり)に25石の朱印地と賤機焼の称号をもらい、徳川家の御用窯として太田七郎右衛門(おおた・しちろうえもん)が賤機焼をはじめた。数百年にわたり徳川家の御用窯として保護をうけ、代々駿府城や久能山東照宮、浅間神社の御用窯として栄えたといわれている。

賤機焼は、文政(1818年から1831年)の終わり頃に急に衰退した。これは安倍川が大氾濫し、そのとき窯場も流れ去ったためとされている。一時途絶えた賤機焼は、明治に入り、太田万治郎(おおた・まんじろう)の手で再興されたが、かつてほどの盛況は蘇えらせることはできず、明治中期、静岡県は郷土産業の一つとして賤機焼の再興を考え、八番町に窯を築いていた青島庄助(あおしま・しょうすけ、?-1912)を招いた。

2代目の青島五郎(あおしま・ごろう)は、常滑(とこなめり)の技術を導入し、従来の賤機焼に創意を凝らし、新しい焼物を試み、3代目青島秋果(あおしま・しゅうか)の手によって、地方色豊かな焼物に生まれ変わった。

蒔絵は漆器に漆などを塗り、金銀の粉などを蒔(ま)き、絵や模様などを描いたものをいうが、「駿河蒔絵」は1828(文政11)年頃、信州飯田の画伯天領(がはく・てんりょう)が駿府に住む塗師、中川専蔵(なかがわ・せんぞう)に蒔絵の技術を教えたのがきっかけと伝えられている。

1830(天保元)年に江戸から小林留吉(こばやし・とめきち)、弟の小林遷次郎(こばやし・せんじろう)の兄弟が駿府を訪れ、漆器蒔絵の技術を伝授したことから当時の蒔絵技術が向上していった。この2人から教えをうけた人たちによって、後に駿河蒔絵の流派が生まれ、それぞれに特徴をもった蒔絵が生みだされた。

色粉蒔絵、トントン錆上(さびあげ)、高一(たかいち)、型紙など量産のための技巧と、平蒔絵、研ぎ出し蒔絵、錆上蒔絵、高蒔絵などの技法は他の産地の追随を許さないものがあるという。

「駿河指物」は浅間神社の造営の際に、全国より優秀な技術を持つ職人が集められ、この地に永住したのが指物工芸の発祥となり、作品は古来からの貴族的な雅さと現代風のクールで直線的な味わいを醸し出している。

「駿河指物」といわれている静岡の木工指物は、浅間神社造営にあたった工人達が技術を広めたことが契機となり、駿河の特産指物工芸の発祥となったと伝えられている。

指物師は、日本独特の指金(物指し)を用いて、さまざまな道具を作るが、江戸時代の指物職人が主に作ったのは、大名などが道中の駕籠で使用した机箪笥といわれるものや針箱、硯箱、文箱、煙草盆などだった。

漆器の木地製造を受け持った指物師が長い間培った精緻な技は、明治に至り鏡台づくりを契機に、やがて静岡を全国有数の総合家具産地へ発展させる源流ともなり、現在は茶道具などの製作に活かされている。

「志戸呂焼」は、渋みがあり、深みがある古式豊かな風情を漂わせているのが特徴で、志戸呂焼が誕生したといわれる室町時代前から焼き物が盛んだったようで、多くの窯跡が残っている。

昔、大井川の西金谷の宿一帯が「志戸呂郷」と呼ばれており、そこで作られた焼き物であったことから、「志戸呂焼」と名付けられた。小堀遠州(こぼり・えんしゅう、1579-1647)に好まれ、「遠州七窯」の一つに数えられている。

志戸呂焼は第1期が15世紀後半で鉄釉(てつゆう)、灰釉(はいゆう)により天目茶碗、水注などが焼成された。第2期は16世紀後半で筒茶碗、徳利、香炉、小皿などがつくられた。第3期は17世紀前半から明治時代までとされ、黒釉を用いて壺、甕(かめ)、碗、皿などが生産された。

志戸呂焼は、大部分が褐色または黒釉を使った素朴な釉調で、いずれも古代色豊かな雰囲気を持っているのが特徴とされている。志戸呂焼に使う陶土は金谷一帯でとれ、鉄分が多く、なおかつ堅く焼けるので、湿気を嫌う茶つぼには、最適の土といわれている。

「掛川手織葛布」は、葛布が山野に自生するマメ科の植物葛の靭皮(じんぴ)繊維を織り上げた布のことで、地元では「カップ」と呼ばれ、掛川が葛布の特産地として歴史的に初めて認識されたのは鎌倉時代といわれ、武士の乗馬袴地に用いられた。

戦乱の時代には沈滞し、徳川の治世となると、葛布業も次第に回復し、掛川は東海道の宿場町としても栄え、時の藩主が葛布を掛川の特産品として保護奨励し、丈夫で水に強い葛布は裃地(かみしもち)や袴地、道中合羽などに珍重された。

明治に入ると、葛布は武家階級の転落と生活様式の急転によって大打撃を受けたが、襖地(ふすまち)として蘇り、明治30年代、襖からヒントを得て作った壁紙が「カケガワ・グラス・クロス」としてアメリカの壁紙界で好評を得た。

しかし、原料の葛苧(くずお)をほとんど韓国から輸入に頼っており、1965(昭和40)年過ぎ、韓国が日本への葛苧の輸出を禁止したため、掛川葛布は衰退した。

開場時間は9時30分から20時30分(4日と最終日は15時)。

サニーヘルス、食べ過ぎ防止には食事記録を、21時以降の食を避ける

【銀座新聞ニュース=2020年7月25日】健康食品、美容商品、化粧品などの販売会社、サニーヘルス(中央区八重洲2-1-6、八重洲kビル、03-6701-3000)はこのほど、レポート「無自覚な『食べすぎタイプ』に適したダイエット法」を発表した。

「食べすぎ」を自覚するためのステップとして、まずは食べたものを書き出すことからはじめよう。

「やせたい」と思ったときに、どんなダイエットに挑戦するだろうか?食事制限、糖質オフ、ランニング、特定の食品ばかりを食べるダイエット、とりあえず話題のダイエット法にチャレンジなど世の中にはたくさんの選択肢がある。

その中からトライできそうなものを選んでダイエットをスタートし、自分なりに一生懸命取り組んだとしても、なかなか成果が出ずに、やる気も失って挫折し、目標を達成することなくダイエットをやめてしまう、するとリバウンドというのはひじょうによくある事例だ。

健康な人が適量を食べ、適度な運動を日ごろからしていれば、太ることはまずないといえる。もちろんダイエットの必要もない。もし、今、太っているとしたら、そこには必ず原因がある。

食べすぎ、運動不足、代謝が低い、自律神経の機能が低下しているなどが主な原因で、どれか一つとは限らず、複合的な原因であることも多い。

自分が太った原因に目を向けることで、どんなダイエットを選択するべきなのかが見えてくる。多くのダイエット法の中から自分に合ったものを見つけることが、ダイエット成功への第一歩といえる。

毎日、同じ条件下で体重を計測すると、口にしたものが体重にどのぐらい影響を与えているのかを確認できる。

今回は「食べ過ぎタイプ」に適したダイエット法を紹介する。

まずは、以下の15の設問がいくつ当てはまるだろうか。太っている原因が「食べすぎ」によるものかをチェックからはじめよう。
□朝食は食べないか、パンだけ
□ほぼ毎日間食をする
□お腹が空いていなくても何か食べたくなる
□夕食後にも何かを食べることが多い
□食事時間が不規則
□夕食の時間が21時以降になることが多い
□週5回以上外食をする
□食べるのが早い
□食べ放題の店が好き
□満腹にならないと食べた気がせず満足できない
□ラーメンにはチャーハンと餃子、そばやうどんにはご飯がセットといった、ダブル糖質(炭水化物)のメニューを選びがち
□ストレスで食欲が抑えられなくなるときがある
□濃い味付けが好きで、薄味では物足りない
□お腹がいっぱいでも食べ物を残せない
□お菓子やインスタント食品をたくさん買い置きしている

15の質問のうち4つ以上当てはまり、今、現在、太っているのなら、その原因は食べすぎによる可能性が高い。当てはまる数が多ければ多いほど、間違いなく食べすぎているといえる。

●食べ過ぎを自覚することからダイエットはスタート

上記に4つ以上当てはまっていても、自分では「そんなに食べすぎていないはず」と思っている人もいるかもしれない。

太った原因が「運動不足タイプ」であれば自覚することも容易だが、自分が食べている量と内容については、案外把握できていないことが多い。食べすぎ+無自覚、ではやせることは難しいので、まずは自覚することからスタートしよう。

●「食べすぎ」を自覚するためのステップ

ステップ1.食べたものをすべて書き出す
食事記録をつけるところからはじめよう。ノート、スマホのダイエットアプリ、メモ機能など、自分が使いやすく後で見返しやすいものであれば、なんでもOK。毎日の朝・昼・晩の食事メニューと、間食したもの、飲み物もすべて記録する。食べた内容だけでなく、食べた時間・量もあわせて記録する。

実際に記録してみると、自分がどんなものをいつどれだけ食べたのかを明確に自覚することができる。

ステップ2.食事記録から反省点を見つける
自分の食べたものを記録し、客観視すると、思っていたよりも食べすぎていることに気が付き、食生活の改善点が見えてくる。

食事記録でチェックすべきポイントは、
1)食べた量
2)食べた内容
3)食べた時間
4)栄養バランス
5)本当に食べる必要があったのか

この5つだ。

ステップ3.体重を測る

食事記録とあわせて行いたいのが、毎日の体重測定だ。いつも同じ体重計で決まった時間に同じ服、というように同じ条件で体重を測り、食事記録と一緒に体重も記録する。その日の体重と、前日や前々日に食べたものや飲んだものを照らし合わせることで、口にしたものが体重にどのぐらい影響を与えているのかを確認することができる。

同時に、自分に合う食べ物と合わない食べ物などの傾向など、体重の増減のパターンも知ることができる。毎日、体重測定をするようになると、少しの増減で一喜一憂してしまうこともあるが、1週間程度の期間で前週と比較するようにし、あまり気にしすぎないようにしたい。

●食べすぎを自覚できたら改善する
ステップ1から3により自分が食べ過ぎていることを自覚できたら、次に行うことは食生活の改善だ。ステップ2で自分の食べたものをしっかり直視することで、改めなければならない点が見えてくるはず。食事記録でチェックしたポイントを改善しよう。

1)食べた量
消費エネルギーよりも摂取エネルギーが多いことで脂肪が蓄積される。ダイエットをするには、これを逆にしなければならない。

食事はタンパク質、野菜類はしっかりと、糖質は控えめにするのが基本だ。カロリーオーバーにならないようにするには、「適量」を食べること。適量は、自分の手の大きさを基に知ることができる。

主食である穀類1食の目安量は、ご飯なら卵を軽く握ったときのこぶし1つ分だ。米以外の糖質の場合、パンやパスタ、うどん、そばなどは両手のひらに乗る程度の量を目安にする。

食事のメインのおかずとなる主菜の1食の目安は、厚みも大きさも、指を除く手のひら1枚分だ。野菜類は、生野菜なら両手を合わせた1杯に乗る量、加熱した野菜であれば片手1杯分が1食の目安となる。

2)食べた内容
ダイエット中だからといって、食べてはいけないものはない。あれもダメ、これもダメとガマンをしすぎるとストレスとなり、それが原因でリバウンドしやすくなる。「スイーツは週に1回まで」など適度に取り入れながら、頻度を調整したい。

回数を減らすべきなのは、カレー、パスタ、ラーメン、丼ものなど糖質がメインとなる料理、揚げ物、炒め物、脂肪の多い肉、お菓子などだ。糖質と脂肪は意識的に減らしてほしい。

反対に積極的に食べるべきなのは、魚、大豆製品、野菜、きのこなどの食物繊維の豊富な食品、発酵食品だ。

3)食べた時間
人間の体には体内時計が備わっていて、同じものを食べるにしても時間帯により太りやすさが変わる。体が活動モードになっている日中は太りにくく、もっとも太りやすい時間帯は夜だ。特に22時以降はエネルギーを蓄えるはたらきが強まるため、太りやすいと考えられている。

このため、夕食はできれば21時までに済ませたい。仕事などでどうしても遅い時間になってしまう場合は、17時から19時頃に間食を取るようにする。お勧めはおにぎりだ。これまで夜遅い食事で食べていた米など糖質を食べる時間帯を夕方にシフトし、その分、遅い時間の食事では糖質はカットする。夕食が遅くなるなど、食事間隔が長くなると次の食事での吸収が高まってしまうので、それを防ぐためにも有効となる。

スイーツ、揚げ物、ラーメンなど、高カロリーなものが食べたい場合は、太りにくい日中に食べるようにする。

4)栄養バランス
2)の「食べた内容」と重複するが、カレーやパスタなどの糖質メインの一品料理、揚げ物など油を使った料理、お菓子の頻度が高い人は、ビタミン、ミネラル、食物繊維が不足しがちになる。

食事は必ず野菜の一皿を添えることを基本にし、食事の最初に箸をつけることを習慣化してほしい。

5)本当に食べる必要があったのか
お腹が空いていないのにおやつを食べたり、ただ何となく口寂しいという理由だけで食べたりなど、「食べぐせ」がついてしまっている人が多い。不必要なカロリーはカットしたい。そのためには、買い置きをしないこと、無駄にコンビニに寄らないことだ。すぐ手の届く範囲に食べ物を置かないようにしたい。

とにかく、太るには理由があり、自分の生活を振り返ることがダイエットの第一歩で、成功の秘訣でもある。そのためにもまずは食事記録をつけることから始めたい。

北の家族銀座等で、「トゲズワイガニ」食べ放題

【銀座新聞ニュース=2020年7月24日】2019年11月にカフェ・カンパニー(渋谷区神宮前5-27-8)とsubLime(新宿区西新宿7-22-43)が経営統合して誕生したGYRO HOLDINGS(新宿区西新宿7-22-43、新宿JECビル)傘下のsubLime(新宿区西新宿7-22-43、新宿JECビル、03-5937-3772)グループで、「北の家族」などレストラン、居酒屋などを運営する「パートナーズダイニング」(新宿区西新宿7-22-43、新宿JECビル、03-5332-6231)は7月23日から8月20日まで「北の家族はなれ銀座本店」(旧有楽町本店、千代田区有楽町2-1-7、03-6205-8887)で「かに食べ放題」を開く。

7月21日から8月20日まで「北の家族」で提供する「かに食べ放題」のフライヤー。「はなれ銀座本店」は7月23日から営業を再開する。

「北の家族」のほかの店では7月21日から実施するが、「はなれ銀座本店」(旧有楽町本店)は23日から店舗名を変更して営業を再開するので、23日から実施する。

トゲズワイガニのセクションを使ったカニ食べ放題で、60分1980円(税別)で提供する。「セクション」は、甲羅を除いた肩から足の部分をいう。単にカニを食べるだけでなく、カニの身を「出汁巻き玉子」(680円)や「ねぎとろ巻き」(480円)、「海鮮塩焼きそば」(680円)に乗せて味わうこともできる。

門永(かどなが)水産によると、「トゲズワイガニ」はズワイガニ(山陰地方では「松葉ガニ」、北陸地方では「越前ガニ」)の仲間で、アリューシャン列島の北側、水深2522メートルから採集され、1924年に登録された。カムチャッカ半島の東からアリューシャン列島沿い、およびアラスカ半島からアメリカのオレゴン州までの1000メートルよりも深いところに分布しているが、仙台沖の水深120メートル、礼文島西の400メートル、樺太東岸の600メートルからも採集されている。

アメリカが1990年前半に漁獲したことがあるが、年間漁獲量は1000トン以下で、最近では、アメリカとカナダがそれぞれの海域で資源調査を行っているものの、漁業は行われていないという。

北の家族はなれ銀座本店は有楽町本店として2018年12月10日に有楽町駅と新橋駅を結ぶJRの高架下にオープンした、「居酒屋 北の家族」のリブランディング店舗1号店としている。函館港などから直送される魚介、道産の肉や旬の野菜でつくったメニューを楽しめ、料理人が炭火の燃える炉端で丸ごと1本の鮮魚を皮目はパリッと中はふっくら焼き上げる「原始焼き」、イクラや甘エビ、北海道産の魚介など日替わりで提供する刺身、北海道の食材を詰め込んだ石狩鍋が3大名物という。

パートナーズダイニングでは新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、4月6日から休業し、グループ店50店舗の内、15店舗を閉店し、33店舗を5月7日から順次再開し(ほかは休業を継続)、「有楽町本店」は「はなれ銀座本店」と店舗名を変更して、もっとも遅い7月23日から営業再開する。今回の「カニ食べ放題」は「北の家族」11店舗と「キタ酒場」と「四季菜々」それそれ1店舗ずつの全13店舗で実施している。

はなれ銀座本店の営業時間は平日が17時(土・日曜日、祝日16時)から23時30分(日曜日、祝日22時30分)。ただし、閉店時間は店舗の確認を。