13日から銀座通り「ホコテン」を再開、2カ月ぶり

【銀座新聞ニュース=2020年6月11日】銀座通連合会(中央区銀座4-6-1、銀座三和ビル、03-3561-0919)と築地警察署(中央区築地1-6-1、03-3543-0110)はこのほど、6月13日から銀座通り(中央通り)の「歩行者天国(ホリデープロムナード)」を再開することを決めた。

6月に入って車が増えている銀座通り。13日から週末の歩行者天国が再開される。

銀座では、銀座通りの1丁目から8丁目まで、毎週土・日曜日の12時から18時(10月から3月は17時)まで車両規制して、歩行者に開放してきたが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、国と東京都が3月から週末の外出自粛を要請したことから、警視庁では4月4日から歩行者天国を中止していた。

その後、4月7日に政府が「緊急事態宣言」を発令し、5月25日に首都圏が解除されるまで、「歩行者天国(ホコテン)」の中止を継続し、その後、連合会と築地署が話し合い、6月13日から再開を決めた。

銀座通りの歩行者天国は銀座通り口交差点から銀座8丁目交差点までの間約1100メートルで実施されている。

ウイキペディアによると、歩行者天国は1960年代から1970年代にかけて、欧米をはじめとして世界各地で市内の中心道路を歩行者専用道路(カー・フリー・ゾーン)とする政策が実施された。初めて実施されたのは、1970年のアメリカ・ニューヨークの五番街の一部で、毎週土曜日に同所の道路を歩行者に開放した。

銀座(中央)通りで週末に1000メートルにわたって実施される歩行者天国の範囲(画像は警視庁のHPから)。

日本では高度経済成長時代の当時、自動車の急増による事故の増加(いわゆる交通戦争)や環境問題への配慮により、道路交通を車優先から歩行者中心の交通への転換が求められ、そのきっかけとしてスタートした。

「歩行者天国」という名称が一般的になる前から、裏通りを中心に何回か実施されており、1950年には新宿駅東口前通りで自動車が締め出され、1958年には神田の東紺屋町で日曜日・祝日に道路を柵で仕切り、子どもたちの遊び場として提供した「遊戯道路」というものが設けられたこともある。

大規模なものは1969年8月6日から12日間、北海道旭川市平和通で実験的に実施され、東京都内では、当時の都知事の美濃部亮吉(みのべ・りょうきち、1904-1984)の提唱により、1970年8月2日に銀座、新宿、池袋、浅草で初めて実施された。1972年6月1日には、日本初の恒久的な歩行者天国として旭川市平和通買物公園が開設された。

その後、東京・原宿では「竹の子族」や「ローラー族」、ストリートパフォーマーなど、若者文化の発信地となり、街全体に活気を与えたが、1980年代末からはホコ天発のバンドブームに伴って多数のバンドが路上演奏をするようになり、彼らの出す騒音や見物人の出すごみに対して地元から苦情が出され、のちに歩行者天国が廃止に至る原因のひとつとなった。

また、秋葉原では2005年ころから路上パフォーマンスが増え、それを取り囲むカメラや見物人が通行の妨げになっているとして問題となった。さらに、2005年4月2日に仙台アーケード街トラック暴走事件が発生、同年12月25日に発生した仙台市第二のアーケード暴走事件、2008年6月8日の秋葉原通り魔事件などで、大勢の通行人が犠牲となり、仙台ではアーケードに車両の乗り入れができないようにし、秋葉原では防犯カメラを設置する一方で、歩行者天国を休止していたが、2011年1月23日に再開された。

また、かつては銀座地区から上野駅まで連接した中央通り5.5キロにわたって実施され、東洋一の長さを誇る歩行者天国だったが、1999年頃にオフィス街で主な集客施設もなく閑散としていた神田地区を皮切りに上野地区(上野駅から外神田5丁目交差点)、秋葉原地区(万世橋交差点から須田町交差点)、神田・日本橋地区(須田町交差点から銀座通り入口交差点)で廃止されている。

150年前の黒人奴隷を描いた「ハリエット」、今も変わらないのか(291)

【ケイシーの映画冗報=2020年6月11日】さる6月5日より、東京都内のほとんどの映画館が上映を再開しました。いくつかの制約はあるものの「自由に映画が観られる」ことについては、素直に喜んでいます。

当初、3月27日から一般公開される予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大により延期され、6月5日から公開された「ハリエット」((C)2019 Focus Features LLC.)。制作費が1700万ドル(約17億円)、興行収入が4250万ドル(約42億5000万円)となっている。

「自由」という言葉について、アメリカでの生活が長い知人が、こんなことを教えてくれました。
「アメリカの選挙では、候補者が語るモットーは“USA”や“フリー”か“フリーダム”(いずれも自由の意)、“ビクトリー(勝利)”の3つが定番で、対立候補同士、おなじことを言っている。正直、違いがわかりにくい」

“フリー”や“フリーダム”はアメリカの重要で共通の価値観なのでしょう。かつて、アメリカのアカデミー賞で政治的発言をとがめられた映画人がこう反論していました。
「アメリカは自由の国ではなかったのか」

これだけ「自由」が重要視されるのは、アメリカという国家が「不自由な」ことも影響していたからでしょう。

2014年のアメリカ・アカデミー賞で、作品賞と脚色賞(原作のある作品の脚本)など3部門で栄誉に輝いた「それでも夜は明ける」(12Years a Slave、2013年)は、権利をもった自由黒人でありながら奴隷として扱われた実在の人物を描いた作品でした。

本作「ハリエット」(Harriet、2019年)は「自由でなかった」黒人女性であるハリエット・タブマン(Harriet Tubman、1822-1913)の波瀾の生涯を映画化したものです。ハリエットは、2016年に、新しく発行される20ドル紙幣の肖像画に、アフリカ系アメリカ人としてはじめて選出されています。

1849年、メリーランド州の農場で奴隷として働くミンティ(演じるのはシンシア・エリボ=Cynthia Erivo)は、自由黒人の男性と結婚し、過去の契約書から奴隷生活からの解放を最大の希望として、日々を過ごしていました。ところが、農場は困窮しており、ミンティは遠い南部に売り飛ばされることを宣告されます。

自由への希望を求めて、ミンティはたったひとりで、奴隷制が禁じられたペンシルバニア州フィラデルフィアに向かいます。そこでミンティは、奴隷制度の撤廃を目指す黒人活動家のウィリアム(演じるのはレスリー・オドム・Jr.=Leslie Odom Jr.)の知己を得て、「ハリエット」と名乗るようになったのです。

やがて、ハリエットは、農場に残った家族を助け出そうと、逃亡奴隷を助ける地下組織である「地下鉄道」で先導役の“車掌”として活躍するようになり、脱出行をいくども成功させ、“モーゼ”(旧約聖書に登場する予言者でヘブライ人を脱出させた)と呼ばれるようになります。

一方で、“モーゼ”に黒人奴隷を解放されて資産を失った農場主たちは、賞金首として“モーゼ(ハリエット)”を追わせるように画策します。それを知りながら、年老いた両親を救うため、かつて自分の暮らした農場に潜入するハリエットは、戦ってでも使命を遂げる決意を固めていました。

劇中、ハリエットはいくどか、この言葉を口にします。「自由か、死か(Be Free or Die) 」

似たような表現に、ニューハンプシャー州のモットーでもある「自由に生きるか、それとも死か(Live Free or Die)」というものもあります。

本作の舞台となった1850年代のおよそ70年前、アメリカ合衆国は、イギリスから独立しています。そのときの戦った入植者や開拓者たちが求めたのが自由だったのです。このとき勝ち得た自由を謳歌していたのは主に白人であり、その労働力である黒人奴隷たちは、主人の私有財産として、売買されたり、貸し出されたりしていたのです。

現在の価値観では信じられませんが、人間としての扱いではなかったのです。西部開拓時代の判例には、「(外国人である)メキシコ人と黒人の殺害は殺人罪ではない」というものもあるのだそうですから。

そんな時代に、小柄(150センチほど)な女性であったハリエットは、自分自身の人生を生き抜くため、銃を手にすることを決意します。「戦ってでも自由を」と心に決め、信じられないほどの行動力(最初の脱出行では大自然の中、160キロをひとりで踏破)と結果(最初の10年間で70人、その後の南北戦争でも700人以上の黒人奴隷を救出)を残した彼女は、性別や人種を超えた「アメリカの偶像」として、紙幣の肖像画となったのでしょう。

この新札発行は本年の予定でしたが、諸般の事情により、最短で2028年へと延期されています。いま、アメリカでは人種差別が大きな問題となり、各地で騒然とした状況となっています。世界規模でも多民族への蔑視が、件のコロナウィルス問題で顕在化しているのも現状です。

ハリエットが活躍した150年前と、さほど変わっていないのでしょうか。アメリカも世界も。次回は「エジソンズ・ゲーム」を予定しています(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:アメリカンセンターによると、アメリカでは現在、1ドル札に初代大統領(1789年4月30日から1797年3月4日)のジョージ・ワシントン(George Washington、1732-1799)、2ドル札に第3代大統領(1801年3月4日から1809年3月4日)のトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson、1743-1826)。

5ドル札に第16代大統領(1861年3月4日から1865年4月15日)のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln、1809-1865)、10ドル札に建国の父の1人で、初期外交のリーダー、独立戦争の総司令官(ジョージ・ワシントン)の副官を務めたアレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton、1755-1804)、20ドル札に第7代大統領(1829年3月4日から1837年3月4日)のアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson、1767-1845)。

50ドル札に第18代大統領(1869年3月4日から1877年3月4日)のユリシーズ・S・グラント(Ulysses S.Grant、1822-1885)、100ドル札に建国の父の1人、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin、1706-1790)が使われている7種類が流通している。

また、製造中止になっている札としては、500ドル札の第25代大統領(1897年3月4日から1901年9月14日)のウイリアム・マッキンレー(William McKinley、1843-1901)、1000ドル札の第22代大統領(1885年3月4日から1889年3月4日)と第24代大統領(1893年3月4日から1897年3月4日)のグローバー・クリーブランド(Stephen Grover Cleveland、1837-1908)。

5000ドル札の第4代大統領(1809年3月4日から1817年3月4日)のジェームズ・マディソン(James Madison、Jr.、1751-1836)、1万ドル札のリンカーン大統領時の財務長官(1861年3月7日から1864年6月30日)のサーモン・P・チェーズ(Salmon Portland Chase、1808-1873)、10万ドル札の第28代大統領(1913年3月4日から1921年3月4日)のウッドロー・ウイルソン(Thomas Woodrow Wilson、1856-1924)がある。

新しく発行される20ドル紙幣については、ウイキペディアによると、2016年に第44代大統領(2009年1月20日から2017年1月20日)のオバマ(Barack Hussein Obama2、1961年生まれ)政権時の財務長官、ジェイコブ・ルー(Jacob Joseph “Jack” Lew、1955年生まれ)が、タブマンをアフリカ系アメリカ人として初めて起用することを決定した。2016年4月20日に新紙幣のデザインをめぐる60万人以上を対象とした調査で、タブマンが1位を獲得していた結果を受けたものだ。

当初は2020年に発行される新10ドル札で女性がデザインされ、新20ドル札は2030年発行予定だった。しかし、「女性に参政権が与えられてから100年の節目となる2020年に20ドル札の変更を」という草の根運動により、10ドル札の変更は見送られ、新20ドル札が繰り上げて発行されることに決まった。

2019年5月22日、スティーブ・ムニューシン(Steven Terner “Steve” Mnuchin、1962年生まれ)財務長官は偽造を防ぐためのデザイン作成が遅れており、2028年までにはタブマンの新紙幣は公開されないと発表した。デザインの変更の主な理由は偽札問題への対応であり、イメージの問題ではないとし、20ドル札の前に、10ドル札と50ドル札の刷新があるとしている。

大丸松坂屋画廊で石川幸奈、小野彩華、山本有彩ら7人の若手女流展

【銀座新聞ニュース=2020年6月11日】国内百貨店業界2位の流通グループ、J.フロントリテイリング(中央区八重洲2-1-1)傘下の大丸松坂屋百貨店(江東区木場2-18-11)が運営するアートギャラリー「Artglorieux GALLERY OF TOKYO」(中央区銀座6-10-1、GINZA SIX、03-3572-8886)は6月11日から17日まで石川幸奈さんら7人の若手画家による「銀座・小町通り-百美人画展 Galaxy of Beauties」を開く。

大丸松坂屋百貨店のギャラリー「アールグロリュー ギャラリーオブトーキョー(Artglorieux GALLERY OF TOKYO)」で6月11日から17日まで開かれる7人の若手画家による「銀座・小町通り-百美人画展 ギャラクシー・オブ・ビューティー(Galaxy of Beauties)」に出品される市川光鶴さんの「フォーチュン・テリング(Fortune telling)」。

江戸時代の浮世絵からの流れを汲む美人画の世界だが、ここ数年、女性像を描く作家が増えており、今回は現代の画壇で人気を博す石川幸奈(いしかわ・ゆきな)さん、市川光鶴(いちかわ・みつる)さん、小野彩華(おの・さいか)さん、粉川江里子(こかわ・えりこ)さん、平野実穂(ひらの・みほ)さん、松本潮里(まつもと・しおり)さん、山本有彩(やまもと・ありさ)さんの7人の若手女流作家が描く美人画を展示する。日本画、油彩画など異なる技法、モチーフで描かれ、それぞれの美意識をもとに表現されている。

ウイキペディアによると、「美人画」は単に美しい女性をモチーフにした絵画という概念に囚われがちだが、「広辞苑」では「女性の美しさを強調し」という抽象的表現で規定されており、「新潮世界美術辞典」(1985年版)では「女性の容姿の美しさ」とあり、「現代日本美人画全集 名作選I」(関千代さん、1979年)では「女性の中にある美」を探究しモチーフとしたものと定めてあり、必ずしも美人を描いたものという定義だけでその本質を表現できるものではない。実際、浮世絵の美人画は様式化されたもので、美しい女性をリアルに描いたものではない。

「美人画」という用語は、1940年代から1950年代の頃に文部省美術展覧会で醸成され形作られた言葉で、それ以前は、女性をモチーフとした、例えば浮世絵に見られる諸作品は「美人絵(びじんえ)」や「女絵(おんなえ)」として分類されていた。特に後者の呼称では源氏物語絵巻にあるような引目鉤鼻の記号的な女性図をも含んでいた。

同じく出品される平野実穂さんの「装い」。

明治末期には、新しい女性像を提案する画家(上村松園=うえむら・しょうえん、1875-1949=ら)の台頭や、過去の封建的な女性に対する社会的認知が変化を見せ始めたことが美人画という新しい分類が生まれた一要因とみなされる。

「百美人(東京百美人)」というのは、1891(明治24)年に浅草の凌雲閣(りょううんかく、1890年完成、同年11月11日に開業、高さ52メートル、12階建て、1階が入り口、2階から7階が外国の物品販売店(計46店)、8階が休憩室、10階から12階が眺望室(望遠鏡設置)、1923年に解体)で、日本初のエレベーターが故障が頻発し、5月に運転停止命令が出され、経営者の江崎礼二(えざき・れいじ、1845-1910)が入場料が大人8銭、子ども4銭(当時、かけそば1杯が1銭の時代)でも客が来てくれるアイデアとして、考案した。

エントリーしたのは102人の芸者で、写真家の小川一真(おがわ・いっしん、1860-1929)が撮影した写真を階段の壁面に展示し、12階の最上階で投票できるようにした。このアイデアが成功して、5日間の会期で延べ5万人が投票した。ただし、「東京百美人」が日本初のミス(美人)コンテストとされているが、1890(明治23)年4月19日付の読売新聞に「応募者の写真を審査して賞金を与える」美婦人品評会合イベントが報道されている。

同じく出品される松本潮里さんの「霧の中」。

また、ギャラリーによると、「ギャラクシー(Galaxy)」は銀河、天の川 (広大・多種類) という意味で、「ビューティー(Beauties)」は美しいもの、美しいことの総称で、人物画中心であり、技法やモチーフの異なる7人の展覧会ということから、今回はこのタイトルにしたという。さらに、「ギャラクシー・オブ・ビューティー(Galaxy of Beauties)」には「扇影衣香(せんえいいこう)」 という訳もあるという。

石川幸奈さんは1987年静岡県生まれ、2014年に名古屋芸術大学美術学部美術学科日本画コースを卒業、2015年に「三菱アートゲートプログラム27」で入選、2019年に「百美人画展」に出品している。

市川光鶴さんは1983年愛知県生まれ、1995年に第21回現創展に出品 (その後、2007年まで出品し、1999年に新人賞、2002年、2004年に努力賞 2003年に奨励賞、2005年に大賞、2006年に協会賞、2007年に会長賞)、2004年に第72回独立展に出品し(その後、2012年まで出品し、2007年に新人賞、2011年と2017年に佳作賞、2015年に芝田米三賞、2018年に奨励賞、2019年に損保ジャパン日本興亜美術財団賞)、2007年に武蔵野美術大学造形学部油絵学科を卒業、卒業時に卒業制作研究室賞、2009年に武蔵野美術大学大学院造形研究科油絵コースを修了、独立春季新人選抜展に出品し(2012年に新人選抜賞)、現在、独立美術協会準会員。

同じく出品される山本有彩さんの「綻(ほころ)びを繕(つくろ)わずとも」。

小野彩華さんは1996年千葉県生まれ、2018年に東京造形大学絵画専攻領域を卒業、在学中の2016年に中山アカデミーアート(ART)アワードで特別賞、2017年に第94回白日会展で入選(その後毎年出品し、2018年に一般佳作賞、関西画廊賞)、2020年に第96回白日会展で準会員に推挙される。現在、白日会準会員。

粉川江里子さんは武蔵野美術大学造形学部油絵学科を卒業、2010年に「画廊生誕 100周年記念大賞展」で優秀賞、2011年に「ACTアート大賞展」で佳作(2012年と2014年に優秀賞)、2013年に「第9回ベラドンナ・アート展」で春蔵絵具賞。視覚障害を抱えながら、制作している。

平野実穂さんは2007年に武蔵野美術大学造形学部油絵学科を卒業、卒業時に卒業制作研究室賞、2008年から2014年まで銀座フォレストで個展、2017年にアメリカ・ロサンゼルスで個展、2018年に百美人画展、香港で「アフォーダブル・アート・フェア(Affordable Art Fair)」、2019年にギンザシックスで「ミューズ(Muse)たちの競演」に出品している。

松本潮里さんは1973年香川県高松市生まれ、1994年に京都嵯峨美術短期大学美術学科絵画2科(洋画)を卒業、卒業制作大学賞、1996年に同大学美術学科絵画専攻科を修了、修了制作大学賞、2001年に「第5回さかいでアート(Art)グランプリ」で佳作、2015年に台湾の「ヤングアート台北」に出品、2018年に「百美人画展」に出品している。

山本有彩さんは2015年に金沢美術工芸大学日本画専攻を卒業、在学中の2014年に「第6回トリエンナーレ豊橋星野真吾賞展」で入選、審査員推奨、「ワンダーシーズ(WONDER SEEDS)2014」で入選、2015年に「カナビ(KANABI)クリエイティブ賞2014公募展コンクール部門」で入賞、2017年に同大学大学院修士課程絵画専攻日本画コースを修了、在学中の2016年に公益財団法人佐藤国際文化育英財団の第25回奨学生美術展に出品し、2018年に個展、2020年に個展を開いている。

開場時間は10時30分から20時30分(最終日は18時)まで。入場は無料。

丸善日本橋でシャガール、ユトリロ、ローランサン「エコール・ド・パリ」展

【銀座新聞ニュース=2020年6月10日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は6月10日から16日まで3階ギャラリーで「夢見るフランス版画展」を開く。

丸善・日本橋店で6月10日から16日まで開かれる「夢見るフランス版画展」に出品されるマルク・シャガールの「カップルと魚」(1967年、リトグラフ)。

19世紀末から20世紀にかけて、フランス・パリには、世界中から才能のある画家が集まったが、なかでも、「エコール・ド・パリ」と呼ばれる画家たちが華々しく活躍した。その中で、愛と幻想の画家と呼ばれ、ユニークな色彩感覚と夢のある画風で知られる、ロシア出身のユダヤ系フランス人画家、マルク・シャガール(Marc Chagall、1887-1985)、パリのモンマルトルの風景を哀愁豊かに描き続けた、近代のフランス人画家・モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo、1883-1955)、淡く繊細な線と色使いで女性を優美に描いた、フランスの女流画家、マリー・ローランサン(Marie Laurencin、1883-1956)の3人の画家を中心に展示販売する。

ウイキペディアによると、「エコール・ド・パリ(パリ派)」は20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちをさす。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちを総称した表現で、1928年にパリのある画廊で開かれた「エコール・ド・パリ展」が語源といわれている。

印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」や「画派」ではない。狭義のエコール・ド・パリは、パリのセーヌ川左岸のモンパルナス(詩人の山)につくられた共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に集った画家たちをさす。

一方、セーヌ河右岸のモンマルトルには、ピカソが住んでいた「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」があり、キュビスムの画家が多かった。狭義のエコール・ド・パリはキュビスムなどの理論に収まらない画家のことで、広義のエコール・ド・パリは、キュビストも含めてこの時代のパリで活躍した外国人画家(異邦人的なフランス人画家も含む)すべてをさす。

国籍は違えども、ユダヤ系の画家が多く、「エコール・ド・ジュイフ(ユダヤ人派)」と呼ばれることもある。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は17時)まで。

インド、71日間封鎖解除も、わがホテル再開の望みは?(20)

【モハンティ三智江のインド発コロナ観戦記=2020年6月10日】インドで全土に3日先駆けての当オディシャ州(Odisha)による3月22日からのロックダウン(都市封鎖)が、5月31日の71日間でひとまず解除を見た。


屋上から俯瞰した、わが「ホテル・ラブ&ライフ」。600坪の敷地は、豊かな緑で覆われ、前方に3階建てのビル、後方にロッジ、脇にコッテージ4棟、計23室だが、サイクロンで損傷を受けたロッジは機能不全だ。

中央政府が予定通り5月末日でロックダウンを解除、国民の大半は延長されることを予想していたため、意外と言えば意外だったが、そろそろ経済再開しないと、やばいとの判断だろう。

しかし、6月2日現在、全土で20万人近くと感染拡大に歯止めがかかったわけでなく、当地プリー(Puri)に関して言えば、少し車の行き来が増えたくらいで、人通りは相変わらず多くないし、もっぱら二輪車、三輪車である(当州の感染者数も2000人を超えた)。

連邦制で州が独自の権限を持っているため、たとえば、中央政府が州間移動OKと言っても、デリー(Delhi)準政府のように州境封鎖を続けることもありうるわけで、あとは各州の判断に委ねるということだ。

6月8日からは、ホテルの営業再開の望みも出てきたが、こちらも当州政府がどう判断するかによるので、ぬか喜びは禁物だ。それに、開業が許されたとしても、当面は客日照りの開店休業状態になることは目に見えている。ただ、休業要請がいったん解除されることは気持ち的にも、ホッとするものがある。

思えば、インド在住の32年、一度たりとてホテルを閉めたことがなく、年中無休だったから、かれこれ80日、あるいは州政府の決定いかんでそれ以上になるかもしれない非常事態は、長い「ラブ&ライフ」のホテル史の中でも前代未聞の出来事で、まさかこの年になってこのような試練に見舞われようとは思ってもみなかった。

昨年11月に夫が突然死し、いったんは畳むことも考えたホテルだったが、故人のレガシーを守ろうと、私が前面に立って継続へと舟を漕ぎ出していたのだ。が、3カ月目に予想外のウイルス騒動に見舞われ、津波に等しい大変事に足元を掬われた。

感染数最悪の西インドの大都会ムンバイにベースを持つ人気ラッパー、Rapper Big Deal がわか息子。国内線再開で帰郷予定だが、2週間の隔離は免れ得ない。

昨年5月から、サイクロン、日本の母の骨折・特養ホーム入所、わが夫の急死と矢継ぎ早に凶事に見舞われ、伴侶の死の衝撃からようやく立ち直りかけた矢先の大凶事、まぁ、今まで夫任せで楽をしすぎたことのツケが回ってきた感もなきにしもあらずなのだが。

インドの1日の感染者数は、毎日記録を更新し、最新で8300人を超え、この分では1万人台に達しそうである。グラフの曲線は急上昇、減少する気配はない。

6月ひと月でどこまで増大するかと思うと、ぞっとするが、救いは致死率が2.8%と低く、回復率が48%と比較的高めなこと。それでも、回復者を差し引いても10万人余、13億人の人口から見れば、他国に比べパーセンテージは低いとはいうものの、懸念される現状である。

さて、現地メディアがこぞって騒ぎ立てているアンロックダウン(Unlockdown、都市封鎖解除)、段階を踏んで徐々に緩和されていくわけだが、中央政府の方針で8日にショッピングモールやホテル、レストランの再開が許可された。

しかし、学校再開や国際線の再開は最終の第3段階(国内線は5月25日に再開された)、日本に飛行機が飛ぶのは、8月以降になるのではないかと思う。6月末まで停止で、7月に再開との声もあるが、今月の推移を見て、折れ線グラフが少しでも下に向かないことには、国際線再開は難しいだろう。

そんな中、6月8日の全日空便の欠航に合わせて、すでに予約してあった国内線のフライトの再キャンセルを余儀なくされ、頭を悩ませている。すでに国内線が再開されてしまったもので、リファンド(返金)もかなわず、日程変更のみ可能ということで、悩みは深まるばかりだ。

一応、設定しておいて、また変更のほうが、新たに買うより安いだろうかと迷ったり、この状況下の国内線のみの日程変更はどう考えても無理があり、帰国日程がいまだ定まらない中、先行して国内線だけ設定するのは土台無理な話だ。

ロックダウンが解除されても、基本的に引きこもり生活は変わらず、解放感はさして大きくなく、唯すでに緊張感は薄れていて、住民も自主緩和に走っていたので、惰性で軟禁生活がだらだらと続いていく感じ、過激なインド人も、クラッカーをパンパン鳴らして解除を喜ぶという開放感には程遠かった。

吉報は息子が来月帰郷予定でいること、ただし感染爆発都市・ムンバイ(Mumbai)からの帰還で、州政府に隔離センターに追いやられるリスクがなきにしもあらず、自宅隔離が許されるなら、別棟のホテルで2週間過ごすと言っているが。隔離センターは不衛生で、入居者が逃げ出す騒ぎもあったため、感染リスクもあるし、自宅隔離が許可されないことには、帰郷案もおじゃんだ。

しかも、またしても最悪のタイミングで、真っ赤っ赤のディープレッド・ゾーン、マハラシュトラ(Maharashtra)・グジャラート州(Gujarat)をサイクロンが通過するとの予報が出ている。早速息子に、「ワッツアップ(What’sApp)」(インドでは、ラインよりポピュラーな無料アプリで、無料コール・チャットが可)で警告を促す私だった。

(「インド発コロナ観戦記」は「観戦(感染)記」という意味で、インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いており、随時、掲載します。モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、感染していません。

また、息子はラッパーとしては、インドを代表するスターです。13億人超と中国に次ぐ世界第2位の人口大国、インド政府は3月24日に全28州と直轄領などを対象に、完全封鎖命令を発令し、25日0時から21日間、完全封鎖し、4月14日に5月3日まで延長し、5月1日に17日まで再延長、17日に5月31日まで延長し、31日をもって解除しました。これにより延べ67日間となりました。ただし、5月4日から段階的に制限を緩和しています。

6月9日現在、インドの感染者数は26万5928人、死亡者数が7473人。州別の最新の数字の把握が難しく、著者の原稿のままを載せています。また、インドでは3月25日から4月14日までを「ロックダウン1.0」とし、4月14日から5月3日までを「ロックダウン2.0」、5月1日から17日までを「ロックダウン3.0」、18日から31日を「ロックダウン4.0」、6月1日から「アンロックダウン(Unlockdown)1.0」と分類していますが、原稿では日本向けなので、すべてを「ロックダウン/アンロックダウン」と総称しています。

ただし、インド政府は5月30日に感染状況が深刻な封じ込めゾーンについては、6月30日までのロックダウンの延長を決め、著者が住むオディシャ州は独自に6月末までの延長を決めています。この政府の延長を「ロックダウン5.0」と分類しています)